拳道

拳道



 喧嘩の仕方しか知らぬ父から小林が教わったのは、やはり喧嘩の仕方だけであった。酒をたらふく飲み、気分よく酔った父はよく息子に言い聞かせた。

「いいか。狙うんなら相手の鼻だ。鳩尾だ。股間だ。とにかく体の真ん中に走る線を狙えばそれでいい」

 その線を正中線といい、人体急所の集う場所だと小林が知ったのは、彼が中学生になる頃ーー父が死に、母が蒸発した頃のことだった。

 全てを失った小林は誰よりも強くならなければならなかった。そうでなくては、大事なものも大事ではないものも力によって奪われるからだ。元より彼は小学六年生の頃から体格は大人顔負けであり、喧嘩ならば誰にも負けたことはなかったが、それでも彼が強さを求めたのは本能からくる渇望であるといえた。

 小林が高校生の年齢になる頃には、彼に逆らえる人間は地域一帯からすっかりいなくなっていた。自分より遥かに体格の勝る者をも寄せ付けない、圧倒的な超暴力。彼にとって誇れるものはそれだけだった。しかし、それだけで十分過ぎた。

 ある日のことであった。我が物顔で街を歩く小林に声をかけてくる男がいた。

「……牧野襲ったのテメェーだろっ」

 敵意を渦巻かせながらそこに立つ男の顔にも、男が口にした牧野という名前にも、小林はまったく覚えがなかった。とはいえ、覚えのないことで因縁をつけられるのは初めてではない。小林はそういった輩を徹底的に打ちのめすことがステーキよりも好物であった。

 ……にも関わらず小林の口元が笑みに歪まなかったのは、相対した男の表情から義憤しか感じなかったゆえである。男は、その恰好こそいわゆる不良と呼ばれるものであったが、その雰囲気は紛れもなく『正義の人』であった。こういった男を殴ることを、小林は蜚蠊よりも嫌っていた。

「……待てや俺はーー」

 小林の言葉を遮るように、男が拳を構えて向かってくる。仕方ないと、小林は腹を括る。

 眼前の男はクラシカルな拳闘の構え、ボクシングスタイル。小林は余裕を持って、しかし一分の油断もせずに男の一撃を迎えた、がーー。

 肉を打たれる鈍い感触。骨が僅かに軋む音。口内に溢れるドロリとした鉄の味。久方ぶりに歪む視界。

 そうだ。小林は男の拳を躱わすことができなかったのである。

 無論、小林とて打たれることは多々ある。しかし、明確なダメージを受けるのはこれが実に一年ぶりのことであった。

 懐かしさすら覚える痛みが、燻っていた小林の心にガソリンをぶち撒けた。

 ーー面白いッ!

 カチカチと明滅する視界の中、小林は硬く、硬く拳を握る。砲丸投げの選手の如く大きく振りかぶったソレを、彼は男の顔面目掛けて叩きつけるように振り下ろした。

 あまりに無骨な一撃に相対する男は一瞬面食らったが、すぐさま気を取り直し、無駄のないステップで躱わすーーが、僅かな反応の遅れにより、小林の拳は男の頬を掠めた。

 瞬間、男が鮮明に感じ取ったのはむせ返るほど強烈な『死』の臭い。それは男の臆病からくる妄想などではなく、事実、彼の頬の皮膚はデロリと剥がれ、筋繊維が剥き出しになっていた。

 それから両者しばし互いを見合う。それは、互いが互いを強者と認めてのことであった。

 ーー次で終わらせてやる。

 ふたりの思惑が一致したのと、ふたりが互いに向かって駆け出したのは、ほとんど同時のタイミングであった。

 小林は先と変わらず、ただ拳を硬めてただ振り下ろす。しかしその一撃は、先ほどよりも速く、先ほどよりも強い。目の前の相手を屈服させるための暴力。二の太刀要らずのそれは、まさに大鉄槌の一振り。

 小林の拳が男の顔面に迫る。男は拳を構えたまま微塵も動かない。動けないのではない。動かないだけだ。

 ーーまるでハンマー。ビビるなっ。動くなっ!

 迫る一撃に両断される、その刹那ーーようやく男は動いた。

 僅かに顔面を逸らし、あえて額を『打たせる』ことによりダメージを軽減。それと同時に小林の顎を目掛け、最短距離かつ正確無比の右フック。

 針を通すような男のカウンターにより激しく脳を揺さぶられた小林は、地面が無くなるような感覚を覚えながら意識を失ったが、それでも彼の本能が攻撃の手を緩めなかった。

 結果、振り下ろされた槌は男にも多大なダメージを与えーー気づけば両者共倒れ。奇しくもふたりが地面に背をついたのは、まったく同時のことであった。

……

5分後。先に目覚めたのは小林であった。彼は目の前で気を失っている男の身体を乱暴にゆすって起こすと、「大丈夫か」と訊ねた。

「大丈夫かって、お前がやったんだろ」

「まあな。でも先に手ぇ出したんはお前やろ」

 小林の言葉に男はハハと力なく笑った。

「……牧野襲ったのは、お前じゃないんだろ」

「……わかってて殴ってきたんか、お前」

「殴ってからわかったんだよ、お前じゃないって」

「……迷惑な奴やでほんま」

 男はまたハハと笑うと、よたよたと立ち上がって歩き出した。そんな男の背中を小林は「待てや」と止める。

「せめて名乗ってから行かんかい。気ぃ悪いやろ」

「……中澤だよ」

 ーー小林と中澤。のちにふたりは『ケンドーコバヤシ』、『ハリウッドザコシショウ』と名前を変え、芸人としてコンビを組むことになる。

 ふたりの再会は、そう遠い未来の話ではない。


拳道 完

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