慈愛の怪盗

慈愛の怪盗


「先生、お口を開けてください。チョコレートですよ」


“……い、やだ……それだけは、ダメ、だよ……”


「仕方ありません。失礼します」


“ん、ぅ゛っ゛……〜〜〜〜ッッ!!!”


「暴れないでください。ほら、塩タブレットで冷えていた頭が甘く、熱く火照ってくるでしょう?……どうです?まだ欲しいですか?」


“ほ……欲し……く、ない。私は、そんなものいらないし、君にも使ってほしくない……!”


「……あまぁくて、美味しいですよ?」


“美味しそう、だけど。美味しくない……!そんなの、全然、美味しそうじゃない……!”


「………そうですか。先生のお身体ではこれ以上の摂取は危険ですからね。また明日、お伺いします」



ゲヘナの生徒に拘束を外され、そのまま彼女の姿が監禁部屋の外に出る。ここ数日慣れ親しんだやり取りだ。私を陥落させようと何度も麻薬を摂取させ、私が抵抗し続けると一日の摂取量を鑑みて退いてくれる。そんなに日数は立っていないはずだけれど、何度も麻薬を摂取した酩酊感でもうよくわからない。アロナやプラナは無事かな、シャーレにいるみんなは大丈夫かな。そんなことを思い描いていると、すぐにまた、発作が来る。



“っ……!欲しい、欲しいっ……あのお菓子が食べたい、甘いのも、塩っぱいのも、食べたい……!駄目なのに、わかってるのに、嫌なのに、嫌じゃない……!!”



胸を掻きむしり、地面を転げ回る。そろそろ本当に限界だ。今の自分が麻薬に狂わずに居られるのは、きっと生徒への先生としての責任と意地だ。生徒が見ている手前、麻薬に溺れるようなことを生徒の見本となる先生、つまり私がしてはいけない。だから屈さない。

でも、それもそろそろ駄目そうで。生徒が消えて一人になると、麻薬が欲しくてたまらなくなる。あのふわふわとした気分を高揚させる砂糖と、心地よく気分を落ち着かせてくれる塩が欲しくてたまらない。油断すればすぐにドアに飛びついて、叫んで許しを乞いたくなる。今日食べさせられた色んなお菓子の味が忘れられない。

今日、私にお菓子を食べさせてくれた生徒は確かゲヘナの風紀委員会だった子だ。マコトが編成した秘密裏のスパイ。昨日の当番の子はトリニティのシスターで、一昨日はミレニアムのセミナー保安部。みんな、アビドスに潜り込んだ子たちで、みんな、麻薬中毒になってしまったんだろう。彼女たちが堕ちた責任も、私にある。


“………こんな、頼りない先生で、ごめんなさい……”


「いいえ。先生はとても頼りになるお方です。どうか気に病まないでくださいな」



いつの間にか聞こえたその声は、優雅で勇ましく、けれど優しさを含んだもので、きっとどこかで聞いたことがあった。薬の苦しさに耐えるために必死に瞑っていた瞼が、ゆっくりと開かれるような柔らかさを感じたのだ。



“……アキラ……?”


「はい。慈愛の怪盗、清澄アキラです。あなたを盗みに参りました。では、失礼して」


“っ、わわ……重くない?”


「先生とは力の強さから違いますから、お気になさらず。では、参りましょう────!」



お世辞にも小さいとはいえない身体の全体をアキラに抱えられて、駆け抜ける。いつのまにかドアの鍵は空いているし、近くの窓も空いている。警報が鳴り響くわけでもなく、スムーズに窓から空を飛ぶ。脱出経路はしっかりと頭に入っていたのだろう。屋外に出てからの動きもスムーズだ。効率的にアビドスの外に出るような手筈を整えていた。



「ふふ………今まで至高の芸術品たちをお嬢さん方のために盗んできたことは数あれど、人間を盗んだのは初めてです。どうです、先生。不安はありませんか?速すぎて怖い、というのであれば些か我慢してもらう他ありませんが」


“だ、大丈夫。それよりも助けてくれてありがとう”


「お気になさらず。私はあなたの生徒ですから。先生が困っているのならば助けることは当たり前の話ですよ。………少し飛ばします。警報を切っていてもこうも屋根や電線を駆け回っていたら流石に目をつけられる」



アキラは空を駆け、瞬く間に追っ手の視界から姿を消す。それは単に逃走のスピードが速いということもあるし、それ以外にも深く地形を理解していたり、煙幕や閃光の扱いが上手いということでもある。大人である先生を一人抱えたままでも、優雅に危険区域から脱出してみせた。それこそが慈愛の怪盗、七囚人である彼女の才覚だろう。



「ここまで逃げ切れば……ええ、おそらくはミッションコンプリート。あとは待ち合わせをしていた救急医学部のお嬢さんが来るまで待機ですね」


“凄いね……全員撒いたの?”


「もちろん。そうなるルートを選びましたから。………先生、大丈夫ですか?ひどい顔色です。どれほどの麻薬を摂取なさいましたか」


“よくわからないけど……今日の許容量の限界まで、だって……”


「ふむ、そうですか……あ、こちら先生の大事なものです。シッテムの箱、でしたか?」


“あり、がとう……”



きっと、私を救出してくれる前に盗んでおいたのだろう。私の大切なものだということを理解してくれていたのだと思うと、心が和らぐ。けれど、その喜びを、感謝を、表現することは困難だ。今もなお、私の身体を麻薬は苛んでいる。なかなかに抜け出せない。気を抜いたら麻薬を求めて懇願してしまいそうになる。アキラという生徒の前だから、辛うじて己を保っているんだ。



「………先生、あなたは以前、生徒である私のことを大切に思っていると言ってくださりましたね」


“うん。もちろん”


「ありがとうございます。では……私と、コレ、どちらが大事ですか?」



差し出されるのはキャラメル。なんだかただのキャラメルじゃなくて、サラサラと白い粉が振りかけられている。よく見ると塩の結晶のようにも見えるので、おそらく塩キャラメルか何かなのだろう。見た目がそう見える、という話だし何より……なんだか、涎が口の中に溜まっていく。今の自分がどうしようもなく惹かれるということはつまり、これはあの麻薬の砂糖と塩をふんだんに使ったお菓子だということだ。



「とあるお嬢さん方の麻薬市場から奪取したものでして。そこで最高値で取引されていた、最高品質の塩キャラメルなのだとか。中毒者にとっては、垂涎ものらしいですよ?」


“……っ、だ、ろうね……私も、そう思うよ……”


「先生。私と、コレ、どちらが大事ですか?私が大事だというのであれば、もうこのように先生を試す真似は致しません。こんな危険なもの、すぐに処分します。しかしコレが大事だというのであれば……」



“…………”


「特に、何もしません。こちらを差し上げます。もちろん迎えはここに来ますし、無事に先生をシャーレに送り届けます。そして、これからもシャーレに協力いたします」


“………それっ、て、つまり……”


「はい。こちらを選んだところで、先生に損はありません。ただ、こちらと、私(生徒)、どちらが大事ですか?という簡単な質問ですよ。どうか、お答えいただければ幸いです」



とてもひどい質問だ。塩キャラメルを選択したところで、これからのアキラの選択に何一つ変化はない。この事件が解決するまで、先生のために怪盗としてのその腕を奮ってくれるというのだ。そう、何も変わらない。だからこそ、ここで先生が誘惑に負けて塩キャラメルを口にしても何も問題はない。屈しても、デメリットはない。だから別に、食べても問題ない────



“……生徒の、アキラの方が大事、だよ”


「………私が?このとても美味しそうなお菓子よりも?」


“当たり前だよ。私は大人で、先生で……子供とお菓子を比べてお菓子を取るなんてこと、絶対にしない。アキラは大切な生徒だから”


「………ふふ、そうですか。そう、言ってくださるのですか」



刹那、塩キャラメルは砕け散る。アキラが流れるような手つきで爆薬を仕込み、投擲しながら爆破させた。心ではわかっているけど、それを残念だと思ってしまうこの身体が恨めしい。多分最後まで、未練がましく塩キャラメルを見ていたのがアキラにもバレている。



「そんな、捨てられた仔犬のような顔をして。本当に私の方が大切なのですか?」


“ほ、本当だよ!嘘じゃない!”


「ええ、わかっています。申し訳ありません、意地悪が過ぎましたね。……さあ、お疲れでしょう。ゆっくり休んでください」

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