感情は忘れない

感情は忘れない




目覚めた瞬間から違和感があった。

帽子を被り忘れているような、鬼哭を置き忘れているような、体の一部のようにあって当たり前のものがない、そんな違和感。


「トラ男!!!!!!」

「!!??」


しかしそんな違和感、視界の暗転と同時に一瞬で吹っ飛んだ。


「トラ男トラ男トラ男ーッ!!よがっ"だー!目がざめでェェ!!」

「キャプテンー!!」

「大丈夫ですかキャプテンー!!」

「トラ男くん、息できてるー?」

「ああああッ!こいつ本当にクソボケなのに相変わらず羨ましすぎる!!」

「そうか?俺はむしろ窒息しないかの心配しか湧かねェぞ?」

「首の骨の心配もした方が良さそうですね。牛乳用意しときます?」


可愛らしい少女が、割と露出度の高い服でその豊かな胸にローの顔を埋めるように抱きついて泣きつくという、男の夢のような状態だが、ロー本人はそれどころではない。

その肌の柔らかさを堪能する余裕など、呼吸が出来てこそだ。

なので周囲のクルー達もローが目覚めたことで安心しきり、元とはいえ同盟相手だった奴らは心配している割に助ける気ゼロだったので、ローは自力で少女を引き離し、酸素をたっぷり吸い込んでから怒鳴った。


「誰だてめェは!?殺す気か!?」

「「「「え?」」」」


ローの至極当然の反応に、異口同音の一言がその場に落ち、水を打ったかのような沈黙がしばし続く。


「……いや、何言ってんだお前?」

「トラ男くん、いくら怒っててもそれはちょっとやりすぎよ?」

「キャ、キャプテン……もしかして頭でも打ちました?」

「医者ーッ!俺だー!!」

「キャプテン急患です!って急患がキャプテンだ!?」


ローにはわからない。

元とはいえ、未だに交流がある同盟相手だった他の海賊の一味が、戸惑いながらどこか怒っているように、自分の発言を撤回することを求めるのも。

自分のクルー達が、自分が頭を打ったと思ってパニックに陥っているのも。

自分にとっては当たり前のことしか言ってないのに、当たり前の反応しかしていないのに、自分以外の誰もがそれを「異常」とみなしているのが理解できない。


「……トラ男」


ローにはわからない。

目の前の、自分にいきなり抱きついて、自分が目覚めたことを泣いて喜んだこの少女が何者なのか。

どうして、そんな反応をしたのか。

何故、自分の反応にこんな顔をしているのか。

何もわからないのに、何故かわかることがあった。


「私のこと……わからないの?」


目の前の麦わら帽子の少女は、この場の誰よりも、海賊として旗揚げしたベポやシャチやペンギンよりも、ローが冗談などであんなことを言った訳ではないことを、彼女が一番理解していることは、何故かわかってしまう。


「…………誰だ?」


自分の答えが何よりも彼女を傷つけることはわかっているのに、ローが誠実に、真摯に返せる答えはそれだけだった。


※  ※  ※


「……ボウボウの実の能力者、か。なんのことかと思ったら『忘忘』か」


周囲の反応で流石におかしいのは自分の方だと自覚したローが、自分の能力で検査し、そもそも何で自分は気絶していたのかを聞いてみて出した結論は、悪魔の実の能力者による限定的な記憶喪失。


航路が被って同じ島に滞在中、相変わらずもう同盟ではないなど嘘のように交流している最中に現れた「ボウボウの実の能力者」。

そいつが出した「ボウボウビーム」の直撃が原因だろう。

……元同盟相手であり、元患者、ライバルであり、自分に対して無邪気な恋心を向けてくる少女、ルフィに関する記憶全てを忘却している現状は。


「そうだな。トラ男のスキャンでも、脳に異常は見られなかったし、そもそもトラ男が倒れた時はルフィが抱きかかえて受け止めたから、頭は打ってないはずだ」


ローの出した結論に、同じく医者であるチョッパーも同意したが、直後に首を傾げてその結論だからこそ生まれた疑問を口にする。


「けど、なんでルフィに掛けられるはずだった能力で、トラ男はルフィのことを全部忘れてるんだ?」

「麦わらを記憶喪失にしたかったのかな?」

「あー……それはあり得るな」

「なるほど。『ルフィ自身のこと』を全て忘れさせるつもりじゃったが、ローが庇ってくらったことで『ルフィに関してのこと』を忘れたということか」


チョッパーの疑問にベポが思いつきで口にした可能性に、それぞれが納得の声を上げる。

納得で満たされた空気の中、一人だけ納得以外の感情に満ちた者がローに話しかけた。


「……トラ男、ごめんね。私のせいで、私を庇ったから……」


最初と打って変わって、ローに近寄らず遠慮がちに少女は、ルフィはローに謝罪するので、ローは気まずげに頭を掻いて「気にするな」と答えた。


「覚えてねェが、俺はイヤイヤ相手を庇うなんてことはしねェよ。

それに、お前に能力を掛けようとした奴はお前のヤンデレ?だかなんだかに依頼されたとかなんだろう?

……お前に非があった訳じゃねェ。むしろお前は被害者だ。無闇やたらと自分を責めるな」


もう同盟関係も終わっているのだから庇う理由なんてなかったはずなのに。

彼女に非はなくとも、自分が巻き込まれる謂れはそれ以上にないと言って怒ってもいいはずなのに。

記憶がないのならなおさらに、怒るのが自然なことであることぐらいわかっているのに。


それなのにローは、どうしてもルフィを責める気にはならず、むしろ彼女との距離に居心地の悪さを感じ、彼はわからないなりに少女をフォローする言葉を絞り出す。

覚えていないのでどうしても他人事のように思えるから、こんな風に言えるのだろうとローは思っていたが、彼の言葉にルフィはキョトンと目を丸くしてから、笑った。


「……忘れても、トラ男は変わらないんだね」


目覚めてから初めて見る笑顔は、枯れかけの向日葵に似た、もの寂しい笑顔だった。

彼女の笑顔はきっと、いつもはこんなものじゃないと思った。そうであって欲しかった。

そんな思いは、話を逸らすようにウソップがやけに大声で話し始めたことでローの望みから確信へと変わる。


「い、いやー、それにしても厄介な能力だが、ホビホビよりはマシで良かったぜ」

「……ああ、それはそうだな。記憶の改竄ではなく忘却だから、ここ最近の記憶が虫食いだらけで、指摘されなくても自然にそのうち気づけてただろうな」


ウソップの空気を変えるためにあげた話題だが、その内容には同意しかない。

ホビホビも「オモチャにされた人間は世界中から忘れられる」という極悪すぎる能力効果で、どれほど違和感がある環境に陥ろうとも、記憶が改竄されてそのあからさまにおかしな齟齬に誰も気づけなかった地獄に対し、ローに掛けられた能力は本当に「忘れる」だけなので、それなり程度の仲や付き合いの長さの相手でも酷い違和感が生じる。

ローが周囲から「忘れている」と指摘されても気づけないのは、ワノ国で麦わら一味と合流したジンベエでワンチャンぐらいに、お粗末なものだ。


「うん。それは本当にホッとしたけど、トラ男の中で私がいないことになってるなら、ドレスローザとかどういうことになってたのか気になる」

「むしろ俺が今、一番気になってる。本懐を果たしたはずなのに、虫食いが凄すぎて何もわからねェよ。お前、どんだけ派手に立ち回ったんだ?」


同意した後、ふと思いついたのは本当に素で気になっただけらしく、ルフィはクスクスとおかしげに笑って言うと、ローはポーラータングの天井を仰見て、こちらも素で言った。

記憶の虫食いが凄すぎるせいか、彼にとって知らない他人であるルフィへの警戒心はとうの昔に消失しており、周囲が初めに心配したほどの気まずさはない。


「……とりあえず、原因がわかって良かった。

じゃあ、私たちはひとまずサニー号に帰るよ。

今日は本当にごめんね、トラ男。お詫びにすぐあいつを探して見つけてぶっ飛ばして、トラ男の記憶を戻すよう言うから!」

「せめて順序を逆にしろ。あと、余計な世話だ。

俺は俺の意思で勝手にやったことの責任を転嫁するほど落ちぶれた覚えはねェよ」


普通に見えた。そう見えるように取り繕った。普通だと言い聞かせていた。

あっさりと帰る自分に、なんの疑問も抱いていない様子のローに胸が引き裂かれるような痛みに耐えながら、ルフィは笑って手を振ってポーラータング号から出てゆき……サニー号まで耐えることができず、ポーラータングから出てすぐに隣のナミに抱きついて泣き出した。


「う……うあああああァァァァん!!」


泣きじゃくるルフィを、ナミも泣き出しそうな顔で唇を噛み締めて抱きしめ、そんな二人ごとロビンは抱擁する。


「トラ……トラ男が……わた、私のこと……忘れて……覚えて……ない……誰って……誰って……」


忘れても優しかった。

ローは巻き込まれた側なのに、間違いなくローにとってルフィは巻き込んだ加害者側なのに、それなのにローは忘れたってルフィを被害者だと言ってくれた。

あまりに優しいが、その優しさは今までの距離を、関係をなくしたからこそ、踏み込んで叱ってはくれない断絶してしまった証、「他人」だからこその優しさであることを理解しているからこそ、彼に恋するただの少女は泣きじゃくる。


ナミとロビンはただ、相手は意図してなかっただろうが残酷すぎる傷を負わされた、自分達の船長としてではなく親友としてのルフィをただ抱きしめる。

自分達では役者不足であることはわかっているが、少しでも彼女の心が悲しみを吐き出すことで楽になることを願いながら。


「おい、ウソップ。ホビホビって能力は気絶で解除されたんだよな」

「ああ。このゴッドウソップのオーラにやられてぶっ倒れたのか、ドレスローザの勝因だ」

「ヤローで本当に良かったぜ。レディじゃないなら遠慮しなくてすむ」

「俺は逆に心配だぜ。……殺してしまわねェか、我慢できる自信がないな」

「ヨホホホ、その為のチョッパーさんでしょう。申し訳ありませんし嫌でしょうがら私たちがやりすぎた時の奴の治療をお願いしますね」

「じゃ、じゃあ俺のランブルボールを誰か預かっててくれ!俺も勢いでモンスターポイントになりそうだ」

「わしが預かろう。大丈夫じゃ。わしは、『殺したら能力が解除できん』と言い聞かせて自制する。……能力者なら水辺は避けるじゃろうから、勢い余ってもないじゃろうしな」


男どもはそれぞれ、歩き出す。

どこかへ逃げてしまった「忘却人間」を見つけ出すため。

自分達の船長にして、その人間性に惚れ込んだ人の、部下としてではない、仲間としてでもない、ただ「それ」を可愛らしいと思い、微笑ましくて守りたいと願い、望み、誓った者達にとって、彼女の唯一にしてかけがえのない「少女」としての「夢」を土足で踏み入り、踏み躙った奴が許せないから。


己の誓った「信念」の為に、守る為に、取り戻す為に彼らは歩き出す。




※  ※  ※  




「ボウボウの実の能力」はお粗末だ。

奴によって忘却されたのは、記憶だけ。

感情をも忘却させることができなかった、自分の能力の限界をあまりに狭く見限りすぎたのが奴の終わりを決定づけた。


「……キャプテン、麦わらが……」

「ほっとけ」


潜水艦という船の特性上、密閉性に優れており、だからこそ防音性も高いのだが、それでも聞こえてくるルフィの号泣にベポが自分のことのように辛そうな顔と声で躊躇いがちにローに報告しようとしたら、彼ほどの聴覚でなくとも聞こえていたローは即答した。

その答えに何人かは抗議の声を上げようとしたが、旗揚げ組がそれを塞ぐ前にロー本人が次の指示を出す。


「泣き止んで離れたら、すぐに教えろ。

…………余計な世話だ。俺のもんは、俺自身の手で取り戻す」


ホビホビよりマシというウソップの発言に同意したのは、そう言い聞かせたかったから。

奴の能力はお粗末だ。だからこそ、ローにとってはホビホビとは違う方向性で「地獄」そのものだった。


虫食いなんてどころじゃない。

二年前のシャボンディから頂上戦争、そしてパンクハザードからドレスローザ、ゾウ、ワノ国、それからの日々全てに大きな穴が開いている。

ここ直近の楽しかったこと、面白いと思えたこと、いい思い出だと自分が認識しているものがごっそりと抜け落ちている。

ハートのクルー達とのやりとりのはずなのに、曇りガラス越しのようにぼんやりしているのは、彼女のことを話していたからなのか。



本懐を果たしたはずなのに、「歴史を勉強したい」という新たな目的を得たのに。

その果たした「本懐」までの記憶があやふやで、新たな目的の土台が砂のように崩れてしまった。


顔が塗りつぶされて、ノイズだらけで何を言っているかわからない声。

そんな異常な記憶に彼女の顔や声をその場しのぎでも当てはめることができないのは、それは能力者ではなく自分のせい。


忘れたことによって真っ白に戻された記憶。

その新雪のような自分の頭の中に最初に焼きついてしまったのは……


『誰だてめェは!?殺す気か!?』

『え?』


酷く傷ついた、今にも泣き出しそうなのに、泣くこともショックすぎてできなかった少女の顔が、最初に焼きついてしまったから。


なにもわからないくせに、何も知らないくせに、何もかも忘れてしまったくせに

失ってはいないから

この思いは、消えてなどいないから


だから、ローは鬼哭を握りしめてゆらりと幽鬼のように立ち上がり、医者としてあるまじき殺気を迸らせて宣言する。


「……お前は大人しくしてろ、『麦わら屋』。

そいつは、俺の獲物だ」


忘れたって同じ呼び名で告げたのは、傷ついてほしくないという思い。


それは忘れられない、願いだった。



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