愛月撤灯
帳が上がり、青空が広がる。
今日の補助監督は新田だった。こちらを認めた顔が嬉しそうにほころぶのが、遠目からでもよく見えた。
「お疲れ様っス!」
「1年3人、戻りました。俺と釘崎は軽傷です。虎杖は……」
「無傷、わかってるっスよ。今回も宿儺のおかげってことで書いちゃっていいっスか?」
「……うす」
頷きながら、虎杖は自問する。
『宿儺のおかげ』──その何気ない一言が息苦しく感じるようになったのは、いつからだろうと。
『小僧、オマエはつくづく学習せんな。その身体に傷をつけるな、と常日頃言っているだろうに』
宿儺は、どれだけ小さな傷でも絶対に見逃さない。任務終わりに、時には任務中でも、必ず虎杖に反転術式を施す。
おかげで今のところ、高専保健室の世話になったことが一度もない。校内でたまたま行き合った家入に「仕事が減って助かるよ」と言われたほどだ。
便利だな、と思っていたのは最初のうちだけだった。
すぐに気づいたのだ。
同級生とこなした任務、帰りの車の中で血の臭いがしないのは自分だけだ、ということに。
「気にすんな」
「アンタが一番、体張ってたでしょうが。治してもらってラッキーくらいに思っときなさいよ」
伏黒も釘崎も、目端が利くうえに優しい。
虎杖がそわそわと落ち着かなくなった理由をいち早く察して、さりげなくフォローしてくれる。
それでも、虎杖の心には少しずつ、澱のようなナニカが蓄積されていった。
例えば、こちらに気取らせないように痛みを我慢している少年の顔。
例えば、出血がなかなか止まらない部位を強く押さえている少女の手。
下手に声をかけたり手伝ったりができないぶん、なお辛かった。自分だけがのうのうと無傷で帰っていることが許せなくなるまで、そう時間はかからなかった。
「宿儺。俺以外の人間を治すことって、できる?」
『できるが、拒否する』
耐えかねたあまりに、一度、自室でこっそり宿儺との交渉を試みたことがある。
返事は即座に返ってきた。虎杖の望まぬカタチをして。
「なんで?」
『別の人間、というのはオマエの同輩のことだろう。あれらを治して、俺に何のメリットがある』
「……」
そう言われると、虎杖も困ってしまった。
もとより人に頼み事をするのは慣れていない。しかも、宿儺の言うことは確かにもっともなのだ。
虎杖が何ら労力を割くことなく、ただ自分が落ち着かないというだけの理由で、誰かの手を煩わせようとしている。それが、なんだかひどくズルいことのように思えてしまった。
『だが。オマエがどうしてもと言うのであれば、そうさな……一度くらいは聞いてやらんでもない。が、この俺が施す強力な反転術式だ。使い所はよくよく考えろ』
「……つまり、宿儺が二人を助けてくれるのは本当の本当にヤバい時だけってこと?」
『不満か?』
「……いや、わかったよ」
『ケヒ、それでいい』
満足げな笑みに負けるようにして、結局、虎杖は引き下がってしまったのだ。
事態は何も解決していないというのに。
学生の任務は基本的に合同だ。1年の場合、単独任務に当たるのは伏黒くらいで、スリーマンセルが普通である。
必然、虎杖の肩身が狭い時間も増えた。
「今日は治さなくていいからな」
任務の前に宿儺へ駄目押ししても、返事があったためしがない。そして、いつもとは違う呪力の巡りを察知したが最後、あっという間もなく怪我が癒えている。
わざと無視しているのだろう、とはさすがの虎杖も感づいた。声を荒げたことも何度かあったが、呪いの王はひたすら沈黙を貫くものだから、虎杖にはどうすることもできなかった。
自分だけが痛めつけられるなら、まだ耐えられる。だが、これではまるで真逆だ。
自分だけが大切にされている。他とは別格の扱いが、ひたすらに居心地悪かった。
「……無事か、釘崎」
「そっちこそ。脚、やっばいことになってんじゃない。……あーもう最悪! 私のご尊顔に傷つけやがって」
やがて、同級生から距離を取るようになった。
怪我の調子を気遣い合っている中に、自分が割って入るのがおかしいような気すらし始めていた。
自分だけ綺麗に治した身体で、他人の怪我を心配する。それは、ぞっとするほど白々しい行為に思えるのだった。
「虎杖、何やってんだ。早く来いよ」
前を歩く二人が、ふとこちらを振り向く。その気づかわしげなまなざしすらも、今では別の意味を含んで見えた。
『いいご身分だな』
『こっちも治してくれたって罰は当たらないんじゃない?』
伏黒と釘崎の口がそう動いたように見えて、思わず首を振る。
違う、二人ともそんなことは言わない。
自分の後ろめたさを押し付けるな。自分に都合の良い妄想で楽になろうとするな!
自己嫌悪を飲み込んで、笑った。
「ごめん、今行く!」
軽快に地を蹴って駆け寄る足は、日を追うごとに重く感じられた。
三人で過ごしていた楽しい時間は、虎杖にとって、いまや苦痛の時間に変わりつつあった。
器から流れ込む懊悩の感情を味わいながら、両面宿儺はひとりごちる。
「なぜ抗う。黙って甘受すればよいものを、下手に拒むからそうなるというのに」
笑い出したくなるほど愚かで、ゆえにこそ可愛らしい。
小動物を愛玩するようなこころもちで、宿儺は虎杖悠仁をこのうえなく大切に扱っていた。
玉はいともたやすく曇るのだ。それが掌中の珠ともなれば、有象無象の手垢がつくことを何故許せようか?
ゆえに、彼は虎杖だけを癒やし続ける。虎杖ただ一人を守る。当の本人の気持ちは知らぬ。その周囲なぞ端から眼中にない。
呪いに魅入られるとは、そういうことなのだから。
「さて、どうするか」
血と骨ばかりの領域で、呪いの王は今日も思案する。
この少年を我が物とするに、もっとも愉快な方法は何であろうか、と。