息吹とアイ2
「んぅ…?」
カーテンの隙間から漏れた太陽の光が顔を照らし、イブキは眠りから覚めた。
身体の調子は感覚的にとても良く、安眠であり、快眠であったと感じる。
そして、良い気分のままにむくりと上体を起こし、辺りを見渡した。
いつもであれば、ゲヘナの自治区内にある自室の風景があるはずだ。
だが、今はそうではない。
「ぁ…」
イブキは昨日の事を思い出す。
自分が久しく母と同じ屋根の下で過ごしていた事を。
「えへへ…!」
布団から香る母の匂いは、幼い頃に感じていたものと何ら変わらない。
そのことが自身を深い眠りに導いていたと思うと、イブキはとても嬉しかった。
間違いなくそこに母がいて、共にあると実感できるからだ。
その時、大好きな母からの声がイブキの鼓膜を震わせる。
「イブキ、もうすぐイロハが迎えに来るよ?」
「そろそろ起きて支度しないと、ね?」
「うん、起きるー…」
イブキはまだ重い瞼を擦りながらもベッドから洗面所へ向かう。
開いた扉の隙間からは母が顔を覗かせていた。
そして、一緒に美味しそうな匂いも漂ってくる。
「朝御飯…!」
「うん、イブキが好きなものを一杯作ったから。」
「ほら、早く顔を洗って歯磨きしてきなさい。」
「はーい!!」
イブキは満面の笑みで元気よく返事をし、支度を始めた。
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「忘れ物はありませんか?」
「うん、大丈夫!」
迎えに来たイロハが見たのは、過去類を見ないほど上機嫌のイブキだった。
その理由は言わずともわかるが、イロハにとっては少し嫉妬する理由となった。
「…先生、何をしたんですか?あんなに嬉しそうなイブキはそう見ませんよ…?」
「うーん…これは企業秘密ってことで一つ。」
イロハは大変不服そうだったが、先生に喋る気が無い事を悟って引き下がる。
この件は先生のナイーブな部分に関与するものなのだろうと考えたのだ。
以前からの付き合いでわかっているが、この人は時々その表情に昏い影を落とす。
だからこそ、触れるべきではないとイロハは考える。
「じゃあ気を付けて。私も会場に行くから、後で会おうね」
「はい、行ってきます。お待ちしていますよ。」
「いってきまーす!あ、そうだ、ぉ…先生!」
「どうしたのイブキ?」
イブキは何かを思い出した様子で先生に駆け寄る。
そして、一つの絵を差し出した。
「これね、先生と私の絵なの!先生にあげる!」
「いいの?」
「うん!先生のために描いたから!これで私と先生はぁ、ずーっと一緒!」
「………ありがとう、イブキ。本当に嬉しい…!」
先生はイブキの絵を受け取ると、絵を胸の前で大事そうに優しく抱き締める。
数瞬の間何かを考えている様だったが、それも止めて二人を見送る。
「この絵は、ずっと、大事に持っておくね。」
「イロハ、イブキをよろしく。」
「言われるまでもありません。」
イブキは先生の姿が見えなくなるその時まで手を振り続けていた。
先生もまた、イブキの姿が見えなくなるその時まで手を振り続けていた。
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『今この動画をご覧の皆さん、こんにちは!』
『クロノススクール報道部のアイドルレポーター、川流シノンです!』
『本日はついに締結される、ゲヘナ学園とトリニティ総合学園の「エデン条約」の調印式。その現場に来ております!』
遂に始まったエデン条約の調印式。
TV中継の声が聞こえる中、イブキは飛行船の窓から古聖堂を見下ろしていた。
「~♪」
(お母さん、もう来てるのかなぁ。)
イブキは楽し気に、そしてどこかソワソワとした様子だった。
しかし、その浮足立った様子は堅い場であることが理由ではなかった。
イブキにとって自分がこの式典の主要人物の一人である事などどうでもいい。
母が成長した自分を見守ってくれる。その事だけが、イブキの頭を占めていた。
『おや?あちらの方は…先生ですね!連邦生徒会の代表として来られたのでしょうか?』
『私に手を振ってくれています!先生~!』
「あ、先生!」
途端イブキの興味はTV中継に移る。
画面の向こう側では笑顔で歩きながら手を振っている母がいた。
シスターフッドの面々に案内されながら、堂々と古聖堂へと向かっている。
そしてその姿は構内の影に消えた。
「…イブキ、頑張るね。」
母の姿を見たことで、イブキは一層しっかりと式典に臨むことを決意する。
だが、今はまだ飛行船の中であり、何をしようにも降りてからだ。
そう思い、再度窓から眼下の古聖堂を見遣る。しかし、何か光る物が見えた。
「?」
目を凝らして見ようとするも、その速度はあまりにも速い。
そして───
「あぁっ!?」
大気をビリビリと轟く轟音、伝播して飛行船を大きく揺らす衝撃。
イブキの大きく見開いた瞳には地獄の業火の如く、真っ赤な爆炎が母のいる古聖堂を呑み込んでいた。
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「キキキキキッ!!成功だ!これこそ計画通りっ!キヒャヒャヒャヒャッ!!」
「マコト先輩、一体何を…!?」
別室にて、マコトは計画の好調な滑り出しに歓喜する。
映像で見た古聖堂は立ち昇る黒煙に包まれ、瓦礫の山と化していた。
多くのトリニティ生は地面に這いつくばり、瓦礫に埋もれている。
中には吹き飛ばされ、窓枠等に引っ掛かっている無様な姿を晒している者もいた。
こちらの人員は被害を受けにくい場所に配置し、被害も軽いものだ。
それらが全て、マコトの気分を頗る良くしていた。
そして、上機嫌のままイロハに説明する。
「わからんかイロハ。以前から結託していたアリウスと共に、今こそトリニティを地図から消す時だ!」
「ぇ…?」
イブキがそこにいるとは、夢にも思わずに。
「イ、イブキ!?どうしたんだそんなに泣いて…!?」
静かにボトボトと涙を流すイブキにマコトは絶句する。
自分が何かしたのか、何があったのかと慌てふためいていた。
だが、それでも両者の緊張感には埋めがたい差があった。
(マコト先輩が、お母さんを…!?ううん…今はそんな場合じゃない…!)
「マコト先輩っ!!!お願い、先生を助けて!」
「先生…?シャーレの先生か…?お前とは関りが無いだろう…?」
かつてない程の必死の形相でマコトに助力を求めるイブキ。
マコトはまだわかっていない様子だったが、イブキの言葉で漸く理解する。
「内緒にしてたけど、先生は、イブキのお母さんなのっ!!だから、だからぁ…!」
「は…………?」
「まさか…古聖堂に…!?」
マコトは、自らが犯してしまった罪を、漸く自覚した。