幼魚と逆罰IF
馬鹿そうなガキ。
写真の中で呑気に笑う子供を見て、真人が抱いた第一印象はそれだった。
「コイツが『呪巣図』?」
「そうだよ。虎杖悠仁、呪術高専の転入生さ。それは随分と前の写真だが、見ての通り目立つ風貌だからね。すぐにわかるはずだ」
「ふーん」
袈裟男のうさんくさい笑みを受け流しながら、写真の端を指ではじく。普通の紙とは違う固い質感が、なんとなく面白かった。
印刷された少年の笑顔が、紙の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。
「気をつけないと殺しちゃうかも」
「言うね、真人。まあ、どのみち今の君じゃ無理だと思うけど」
「マジ? 術師のタマゴなんじゃないの?」
「経歴上はね。だが、その裡に抱えた数十もの呪物……それも特級クラスと長年共生してきた子供だ。呪いへの知識も、呪力の扱い方も、そこらの呪術師とは比べ物にならないと考えていい」
「へー……」
思わず、舌なめずりをした。
宿儺との接触がメイン、ガワは正直どうでもいい。そう考えていた呪霊の胸のうちに、ひとつの炎が灯る。
生まれたての無邪気な悪意は、幼い全能感のもとに強敵を欲していた。仲間内での手合わせ、人間を玩具にしての『遊び』で術式への理解は深まっているが、底が見え始めているのもまた事実。
そこへ来て、この情報。呪いを煮詰めた人間蠱毒とやり合える機会なんて、そうそうあるものではない。自分が先に進むためのカギは、この間抜けそうな子供の手に握られていると直感する。
だからこそ、使える情報は多いほうがいい。
写真を──正確には、写真の中で子供を抱いている老爺を指しながら、真人は問う。
「ねー夏油、ついでに教えてよ。隣のコイツは?」
「ああ、それは……」
*
粉塵がひどい。
眼下の光景に、我ながらやりすぎたと後悔した。校舎は半壊、校庭には地割れのような影があちこちに見える。
ごめんなさい、と顔も知らぬ里桜高校の偉い人に脳内で謝りながら、虎杖は地面に降り立った。
『まだだ。気を抜くなよ、悠仁』
「わかってる。ありがと、脹相兄ちゃん」
頬に開いた口へ返事をしながら、目を凝らす。視界不良に乗じて逃げられたら最悪だ。
ドルゥヴの式神がいればもう少し探査が楽だったかも──と考えかけて、やめた。
アレは順平を守るために置いてきた。自分が目を離した隙に、万が一にも真人に傷つけられることのないように。
それを後悔するのは、人として間違っているだろう。
『つってもなあ……慢心してるわけじゃねえが、アレで生きてたらかなりスイートだぞ』
烏鷺の術式を利用した、距離を詰めての逕庭拳連発。
お得意の変形で飛んで逃げようとしたところへ、鹿紫雲の呪力を添えたグラニテブラスト。
墜落する真人の頭上から、赤鱗躍動のドーピング付きで繰り出した踵落とし。
帳が下りているとはいえ、市街地の中心部だ。あまり規模が大きい技は使えない。それを踏まえ、できる限りの技を詰め込んだ。
手加減したつもりは、一切ない。
『万が一にも生き残ってたとして、相当弱ってるでしょ』
『だからこそ狙い目だ。ここで祓う』
『頑張れ悠仁、もう少しだ』
「うん!」
右手、左手、そして首。文字通り口々に話しかけてくる兄や姉たちの声を聞きながら、地面を蹴る。
ちょうど話している最中、薄いベールが幾重にもかかったような視界の向こう側に、わずかに揺らぐ人影が見えた。
距離感が掴めない相手に対し、烏鷺の術式はいささか相性が悪い。
ゆえに。
「『赤鱗躍動!』」
この状況なら、虎杖悠仁の運動神経を活かす方が速い。
九相図たちと声を揃え、フィニッシュへと畳みかける。
蘇るのは、昨夜の記憶。
『悠仁君。順平と仲良くしてくれて、ありがとね』
吉野凪は、優しい女性だった。
気さくでノリが良いお母さんだった。
呪い呪われの世界とは無縁の存在だった。
悪意にまみれて殺されていい人では、断じてなかった。
────ブッ殺してやる。
胸の内で、どす黒い感情が滴り落ちた。
拳に纏う呪力も、比例して強く、濃く、渦を巻き始める。
一歩、また一歩と近づくごとに、人影の輪郭がはっきりしていく。
先程まで戦っていた真人の背丈よりいくらか小さいような気もしたが、自由に姿を変えられると知っている以上、さして気に留めることもなかった。
最後の土煙のベールを抜ける刹那、拳をいっそう強く握りしめる。
あの神経を逆撫でする笑みのツギハギ顔を、姿を捉えた瞬間にぶち抜けるように。
一歩、踏み込む。
視界が、晴れる。
この一撃で祓うと、肉迫して────
「え?」
────拳が、寸前で止まった。
その姿から、目を逸らせない。
身体が動かない。
隙だらけだとわかっていても、震える口を止められない。
「なんで、」
『悠仁ッ!』
『違う、そいつは』
殴り飛ばされたのは、虎杖の方だった。
校庭の地面を抉り、二度三度ほどバウンドして、金網のフェンスに打ちつけられてようやく止まる。
頭の中が疑問符で埋め尽くされていた。兄や姉の叱咤が、ひどく遠くに聞こえる。
『そんな力は彼にはなかっただろう!』
────わかっている。
『火葬も納骨も済ませただろうが、覚えてるだろ!?』
────わかっているんだ。
『急がないと二撃目が来る、早く避けなさい!』
────でも、身体が言うことを聞かないんだよ。
「じい、ちゃん」
かぼそい声は、迷子のそれに似ていた。
ついこの間、少年が死に顔を見送ったはずの人物。
虎杖倭助が、悪辣な笑みを浮かべてそこに立っていた。