幻覚と願望

幻覚と願望


カクVSゾロ後




「緑の人、強かったね」


まどろむ意識の中、不意に凛と声が響く。

聞き慣れたようでいて、それでも聞き慣れることを躊躇っていた声だ。

すぐそばで衣擦れの音がする。

体を起こせないまま重い瞼をこじ開ければ、想像通りの人物がしゃんと背筋を伸ばしてそこに座っていた。


「カク、悪い人だったんだ」


幻覚だろうか。ハスがここにいるはずはない。

失笑が漏れる。幻を見てまで彼に責めてほしかったということか。


「仕方ないじゃろう……それが政府の命令なんじゃから」


我ながら情けない言い訳だ。ぐっと目を閉じた。幻だとしても、あの澄んだ瞳に射抜かれるのは怖かった。


「逃げないの?」


何からだろうか。目深に被った帽子の奥から窺えば、ハスは苦しげな表情でこちらを見据えていた。


「政府から、カクは逃げないの?」


今にも泣きそうな表情で、幼子は懸命に声を振り絞っていた。それが珍しくて、息を呑んだ。残酷だが、答えは決まっている。


「逃げないのう」


ハスが俯く。小さな拳がぎゅっと握りしめられた。

責められるばかりと思っていた。そうであればどれだけ楽だったか。

その表情を見せられる方が、余程苦しかった。

ぐいぐいとハスが目元を擦る。

跡になるぞ、と口をついて出そうになって、既にそんなことを言う資格は無いことを思い出した。


「カク」


きっと睨まれる。

かと思えば、強い衝撃に頭が揺れた。


「っ……たァ!?」

「これは! 銃で撃たれてその上燃えるガレーラカンパニーに取り残されたアイスバーグさんの分!」


再び少年の手刀が振り下ろされる。


「ぐはっお前今わし怪我人……ッ」

「んでこれがめちゃくちゃ裏切られて怪我させられたパウリー兄ちゃんの分!」


何度も何度も、ガレーラでハスが触れ合った人々の名前と共に鈍痛が走る。

ただでさえ満身創痍な体でその痛みを受け止めながら、気を失わないようゆめ幻ではない現実にしがみついた。

見事に全員分のチョップをして、やがてハスは息も絶え絶えに手を振り上げた。


「それでこれが、大好きなカクに裏切られた、俺の分」


それはあまりに弱々しく、悲痛な響きを持っていた。


「ハス……」

「カクに、仕返ししてやるって思った。……会ったらちょっとは、溜飲も下がるかもって思ったけど、そんなことなくて。ガレーラのみんなを沢山傷つけたこと……俺は、許せない」


瞬間、淡い後悔の念が染み渡る。

言わせてしまった。これを、この幼い少年に。

“正義”を背負う自分が言われてしまった。


「でも、やっぱり俺、カクのこと好きなんだ。いき場所もなかった俺を拾って、一緒にいてくれて」


言葉を切って、ハスが深呼吸をした。乱れていた呼吸が心なしか落ち着く。

痛む頭に手をやりながら、顔を背けたくなる気持ちを抑えてじっとハスの言葉を待った。


「……きっとカクはもうウォーターセブンには戻らないんだろ?」


無言は肯定だ。

遠くの喧騒がよく聞こえる。ルッチは無事麦わらを討ち果たせただろうか。

至極冷徹を装って、感情を殺した目で見返した。少年が目を逸らす。


「ウォーターセブンでのカクが……偽物でも、俺は──」

「馬鹿じゃのう」


ぎし、と体が痛む。気を遣りそうな程の痛みでも、不思議とそれは難なく動いた。

腕も脚も瞬時に極めて、少年の首元に手を添える。


「政府の暗躍機関、CP9。世から隠匿されているのは“殺人”を許可されているからじゃ」


あえてそこを強調して、手に力を込める。

少年の顔が苦しげに歪んだ。


「お前ごとき、殺すことは難くない」


想定よりも低い声が出た。自分でも意外だと思ってから、何にそう思ったのかは考えないことにした。


「カク……!」


喘ぐような息の合間で、少年が名を呼ぶ。構うことはない。分かっていたことだ。

体のあちこちが痛む。パチパチと明滅する視界の中で、少年の目元が小さく光った。


「俺は……カクに、救ってもらったんだ……」

「ッ……」


大粒の涙が浮かぶ。

拍子抜けして手が緩んだ。


「ふっうあぁ、ぅああああああ!!」

「えっ、な、え!?」


大声を上げて泣き始めた少年は、顔中が涙やら鼻水やらで酷いことになっている。パッと手を離せばハスは自身の手で涙を拭った。

狼狽えてハスの体を起こす。絵に描いたような慌てようだった。


「おれ、だってすごい怖いところから、逃げてきてッ……船の中もすごい揺れるし、暗いし……」

「ハ、ハス、まっ、お、落ち着くんじゃ……」

「カクは黙ってろッ!」

「ハイッ!」


びし、と思わず正座する。いや待ておかしいぞと思っても、再び息をひきつらせて泣くハスへの心配が勝った。


「すごい、怖かったのに……あの箱を開けたのは、カクだったんだ……」


雛鳥は産まれて一番最初に目にした人物を親と思い込むらしい。あの箱が卵だったとするならば、なんと憐れなことだろう。

馬鹿だったのは、どちらだったろう。


「俺が見てきたカクが、偽物でも構わない。……どんなことを思いながら、俺たちと話してたのかなんて、分かんないけど」


ハスがぎゅっと目を瞑って、ごしごしと涙を拭う。差し出しかけた手を握って耐える。

数瞬の後頬を真っ赤にして顔を上げたハスに、殴られたような衝撃を受けた。

そんな手は、元より必要なかったのだ。


「カクがいるだけで、俺は何も怖くないんだ」


手と手を握って一緒に帰った夕暮れが、フラッシュバックする。

煌めく瞳はあの日と同じ色だった。


「俺はカクと一緒にいたい」


目を合わせるのが怖かった。咎められると思っていたし、ハスの底なしに純真な目を知っていたから。恐怖と苦痛に歪んでも、その色が濁ることは無かった。

それでもこんなにも真っ直ぐに求められて、どうして恐れることがあろう。恐怖の抱きようがあるか?

本当に、あるまじきことだ。

だって、これは確実に、絆されている!


「……そうか」

「カクっ!」


どさ、と体が崩れ落ちる。じくじくと痛みが蘇り、意識が途切れ途切れになってきた。

元々死に体でここまで気を保てていた事が奇跡だ。

せめてもの抵抗として帽子で顔を隠した。

水に阻まれたようにハスの声が遠く聞こえた。



──たったひとつ、願ってしまったことがある。

願ってはいけないことだ。CPとしても、ハスに対する感情としても。

自分は政府の意のまま動く諜報員で、そしてハスは、庇護の手を求めているわけじゃない。ただ共に居てほしいだけだ。

それなのに。


『幸せになってほしい』だなんて!



「……おやすみ、カク」

再び目を開けた時、きっと自分は破顔している。

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