幻の旅
空に浮かぶ2人のためだけの大きな城に、主とその妻が帰ってきたのはちょうど満月の日だった。
月の光を背に受けて、その細い腰を抱きしめ、糸をかけて窓に降り立つその人はまるで童話の王子様。
白いベールに包まれた、王子様がたいそう大事に抱く彼は、窓に降り立った時からパラパラと糸がほどけるように右腕が無くなった。
久々の2人の帰りに使用人が嘆く。ザワザワと木々が語る。小鳥も、小動物も、おもちゃだって寝静まっているのに、穏やかな夜は過ごせないと誰もが呟く。
“ああ、また地獄が帰ってきたね”
音が消えたような夜に、心臓が呻いている。
ふわりと、数ヶ月の長旅は2人がやけに広いベッドへ寝転んだことで終わりを告げた。
「おかえり、ロー」
愛おしいと言わんばかりの声に、妻の肩が震える。
「…ただいま、ドフィ、」
震える声でそう告げて、男は自分の帰る場所がないことを改めて突きつけられた気がして視界が水彩のように淡く曖昧に滲んだ。
彼とは対照的な男は上機嫌に、旅の軌跡をなぞる。
「本当に楽しかったなァ、最初に行った街は果物が美味しかった。街の人間もお前に親切にしてくれたな」
夜だと言うのにサングラスを外さず、しかしその目線は一線に隻腕の男へ注がれ続ける。
彼はごく当たり前に思い出を話す。
母親に今日の出来事を語るような無邪気さと、愛人を労る優しさと、純粋な狂気が、次々と言葉を紡ぐ。
あの村はのどかで空気が美味しかったな。雲の上より美味しいんじゃないか?中心部にあった願いの叶う鐘。お前は何を願った?おれはもちろんおれたちの幸せを願ったさ。
あの国はちょうどパレードをしていてタイミングが良かった。体調が良ければお前にも華やかな衣装を着て、踊って欲しかったよ。
あの街は随分と強引なやつが多かったな。いや、強引と言うより構いたがりか?病弱だと説明したら沢山見舞いの品を貰ってたじゃないか。
子守唄みたいに流れるように語られるその全てが事実で、心が受け止めきれなくなって、溢れた涙が枕を濡らした。
「そうだ、あそこはいちばん綺麗だったなァ。確か、
フレバンス といったか」
瞬間。嗚咽が引き攣って、止まった。
濁ったイエローダイヤモンドから、キュッと蛇口が止められたように。流れる涙が見えなくなった。
目を見開いて、衝撃に固まる彼の記憶が正しければ。
フレバンスという王国は既に地図から消されているはずだ。
それでも、やけに鮮明に映し出される過去が、脳をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
一面の純白も、暮らす人々の声も、子守唄だって覚えてる。
美しい、大好きな町に、思い出に、語る男の声が、邪魔をする。
「一面真っ白だと目が疲れるかと思ったが、美しいことに気を取られているうちに感じ無くなっていたことが不思議だ。それと、急に体調を崩したよなァ。でもいい病院で診てもらえてよかった、一時はどうなることかと」
美しい町に、金色の髪がチラつく。
大好きなあの声に、自分に語りかけている男の声が混じる。
珀鉛の匂いに、よく知るヤツの香水の匂いがする。
知らない思い出をどの旅の話よりも鮮明にゆっくりと語る彼の声が、起き上がることすらできないその体を蝕む。
「…やめ、て……どふぃ、それ、ゃだ……」
弱々しい拒絶に夫は柔らかく笑ってくれた。
「そうだなァ、あの町は本当に楽しかったから、今すぐ行きたくなっちまうもんなァ?」
二度とは行けないその白い町にまた行きたいと願いたくなった。
そうだ、確かあの鐘に願ったのは、
“らくに、しねますように”
あの町に、
“みんなに、あやまりたい”
もう一度、
“もう、つかれた”
「また行こうな。あの町に」
そう言って優しく笑う夫に、妻は小さく頷いた。
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何度も語られる“それ”はいつしかきっと2人の大切な思い出になるでしょう。
白い町で過ごした、大切な、幻の旅。
人はそれを洗脳と呼ぶのかもしれない。
end