幸福の形
退屈で、普通で、何より幸せ「……きろ……起きろって紙漉」
遠くから響くような声が聞こえた。
全身が痛む中、天井を見上げる。
「起きた?そうじゃなければ顔が凹むけど」
「起きました!」
私は飛び起きて、周囲の状況を確認する。ここは自宅だ、そうに違いない。姉が布団の脇から立ち去る音が聞こえ、ついでに扉が蹴り飛ばされる音、そして蝶番の悲鳴が聞こえたが無かったことにしておこう。
「朝ごはん食べちゃいなよ、お姉さまはお先に出るから。学生は辛いね」
「……洗い物は私ですね?わかりました」
両親のいない私たちは、全て自力でやる必要がある。だから私はそう言った。だからこそ、次の一言ほど驚くことはなかった。
「何言ってんの?お母さんに任せたら?」
………深呼吸を一つ。落ち着くんだ、落谷紙漉。そんなことはあり得ない。仮に夢だったとしても顔も名前も、写真すらない親が出てくるわけがない。
「あら、紙漉起こしてくれたのね。ありがとう」
「ん、じゃあ私先に出るよ。今日は日直だから」
姉は、当たり前のように母と話していた。……何故それが母だと分かったか、と問われれば弱い。だが本能でわかった。あれは間違いなく母だった。
「ほら紙漉、ちゃんと顔洗ってきなさい。さもないとお汁冷めるよ」
「……わかりました。母さん」
「母さんじゃなくて檀(まゆみ)って呼んでっていつも……あ、ほら早く行った行った。味噌汁の湯気が消えてるよ!」
洗面所で丁寧に顔を洗い、鏡の内側の寝ぼけ眼を見つめる。タオルで水気をとってから眼鏡を掛け直すと、普段通りの自分が鏡の中に現れた。
「…これは夢だ」
『そう、夢だ』
全くもって予想外だった。流石に腰を抜かした。鏡の中の自分と会話したのはこれが初めてだ。
『だが夢を受け入れて何が悪い?幸せだろう?』
「…それは」
とにかく朝食を優先しようと鏡の前から離れる。七分つきの米、青菜の味噌汁、焼かれたウィンナー、そして麦茶。どれも食べ慣れたメニューだが、自分が作ったものとも、姉の作ったものとも違う味がした。
「…母さん」
「ん、なぁに?」
「母さんは、私を産んで幸せ?」
「難しいこと聞くねこの子は……まあ答えは決まってるけど」
たった一つ、もしも両親に会えたなら聞きたかった事。自分を嫌う自分を、自分の人生を……肯定して欲しかった。
「私は紙漉嫌いだよ」
「………………えっ?」
「なんかウジウジしてるしややこしい事聞くし性格悪いし」
…まいった、否定できない。正論すぎて反論する気も起きない。
「でも、産んだことは幸せだよ。それでも足を踏み外さない子が生まれてくれたから」
「…そうですか」
手を合わせて食器を流しに運ぶ。その最中に、自分の部屋のスマホから着信音が聞こえた。手を拭いてから手に取り、電話に出る。
『なあ、ここは幸せだろ?』
なにやら得体の知れないアイコンの存在が、そうこちらに語りかけていた。
「……ですね」
学校に行き、学友と学び、帰りに姉と合流して帰る。別に特別な事は無いけれど、それだけで幸せだった。私は姉が学校に通うのを見ていない。その年には、姉は私を養わなければならなかった。どうやって稼いでいたのかなんて知りたくもない。
「で、この長崎ちゃんぽんフラペチーノどうする?弟くんちゃんぽん嫌いじゃないよね?」
「飲みませんからね?アリにでもあげてください」
だから普通に生活して、普通に生きている姉を見たのは初めてだった。それだけで十分過ぎるほど幸せだった。
「しゃあない、責任取って飲むよ。長崎ちゃんぽんは悪くない、フラペチーノにした責任者が悪い」
「………」
家に帰ると父親がいた。
「おや、遅かったね紙漉、楮。今日はどこに寄り道したのかな?」
「三椏(みつまた)父さんこそ今日は早いね。私と紙漉はカフェ寄っただけ」
「そうかそうか、小遣いはちゃんとやりくりするんだぞ」
夕食のテーブルを、四人で囲む。
「でね、今日は学校主催の格闘大会で……」
「姉さん、喧嘩は学校主催とは言わない」
「また喧嘩したの?楮はお姉ちゃんなんだから節度を持って……」
「まって母さん、私は弟のために戦ったの」
「いやちょっと不幸な行き違いですけど?明らかに殴り合いになったのは姉さんの……」
「次からはちゃんと見極めて喧嘩するんだぞ。でも弟のために立ち向かったのは偉い」
「父さんわかってるね!」
「だが喧嘩はダメだ」
「はい……」
いつも二人で向かい合って食べるのとは違い、どちらを向いても家族がいた。どちらを向いても愛があった。
「………」
その日の夜、布団の中で着信があった。
『お前、ここで良いだろ?お前の望みは全て叶っている。愛してほしい、姉に幸せになってほしい、普通に生きてみたい、誰かに頼り続けたい。お前はそう願っているだろう?』
「………そうだね」
そうだ、ここが夢でもなんでも良い。現実ならなお良い。ここにいることはとても幸せだ。
「……だから、これは正しいんだ」
現実を忘れようと、私は布団を被った。
「ダメだね」
「うん、ダメよ」
「駄目だぞ紙漉」
3人分の声がした。姉の声が、母の声が、父の声が。
「………………」
目を覚ますと、朝六時。匂いからして母さんはもうキッチンに立っているようだ。寝ぼけ眼を擦りながらリビングに向かうと、既に姉と父は食卓についていた。
「お、起きれたね」
「顔を洗ってきなさい。母さんがちゃんと朝ご飯を用意してくれているぞ」
「……はい」
顔を洗い、眼鏡を掛け、食卓に座る。
「………ねえ」
「ん?どした弟クン、深刻そうな顔で」
「………私は、ここにずっといたい」
『そうだ、それで良い』
喜ぶようにスマートフォンが震えた。
「………なるほど、なるほど。違和感はそれかー」
「ああ、やっぱりだな」
「思った通りね」
『………なに?』
スマートフォンが震えて、電話の着信を知らせる。
『貴様、何をした?』
その声はあからさまに困惑していた。
『そんな事を喋る機能は無い。さあ答えろ、何をした!』
「へっ、下劣なヴィランに楮ちゃんが抑え込めるかよ。お前の作ったスケールに抑えようと、私は私なんだぜ?」
「浅はかだったな、ミスターサムシング。おれも、妻も、娘も。それに息子も、強いぞ」
呆気に取られている間に、事態は大きく動いた。まずは檀母さんの持ったフライパンが食卓の上を横切って飛んだ。
「ギャァァアアア!」
凄まじい悲鳴が響く。フライパンの当たった壁が剥がれ落ちた、人型に。
「馬鹿な!俺の作った空間なんだぞ!こんな事があり得るものか!」
「あり得るのさ、マスターサムシング」
「あぎょッ……」
食卓から立ち上がった三椏父さんが、ポケットの中に入れていた拳を居合い抜きした。鼻が潰れるのはさぞ痛かろう。
「んじゃ、紙漉。現実の私に会ったら伝えてあげて」
「…何をですか?」
楮姉さんは一呼吸おいて、答えた。
「長崎ちゃんぽんフラペチーノは絶対買うな」
その言葉が終わるとともに姉の容赦無い蹴りがヴィランの股間に突き刺さった。もはや悲鳴を上げることすらできずにヴィランの姿が崩れ落ちる。
「じゃあまたな、我が息子」
「ちゃんと健康には気を使うのよ」
「また会おうね、弟クン」
三人の姿が光に包まれて消えていく。それを見送ろうとして、まだ尋ねていなかった事を思い出した。些か傲慢で、禄でもない問いを。
「三人とも、私を愛してくれますか?」
三人はまるで、理解のできないジョークを聞いたような面食らった顔をして、そして声を揃えて言った。
「「「まあね!」」」
「ぐぁぁああ!クソックソッ!」
目の前のビルの床に一人の男が倒れ込んでいる。さっき夢で可哀想なほどにボコボコにされていた男だ。そう、やっと思い出した。このヴィランと戦闘中にアビリティを喰らってしまったのだ。訓練校から路地裏を通って帰ろうとしたのが間違いだったか……。不審者見つけて勇敢に廃ビルに入ったまでは良かったのになぁ。
「お前……なんなんだよ!幸せすら振り切って、しかも家族は作成者の俺を超える!お前ら本当になんなんだ!」
それに関しては頭を掻いて誤魔化す他にない。なにせ自分でもわかっていないのだから。だが一つだけ分かることもある。
「頭、守った方がいいですよ」
「は?」
その僅か二秒後、戦闘の舞台たる廃ビルの天井が叩き壊された。
「うぎゃあぁぁぁぁ………」
瓦礫の下に消えていく悲鳴。だから言ったのに。
「ありゃ?弟クン無事じゃん、ピンチセンサー感じだから駆けつけたのに」
「姉さんはその足を退けてあげてください。彼の顔はオットマンじゃないので」
瓦礫の中からかろうじて外に出たヴィランの顔を、楮姉さんは完璧に踏みつけていた。
それから数分後、駆けつけた警察にヴィランを引き渡して帰り道を歩く。両親のいない帰り道を。
「へー、新作フラペチーノだって。買ってみようか」
「好きにしてください」
あれが都合の良い妄想だとしても、きっと忘れない。両親は私を愛してくれていたし、姉の愛も本物だと。
……あれ?何か一つ忘れているような。
「……あ、姉さん」
「なに?」
「別の姉さんから伝言です。その……」
姉が手に持つドリンクの側面にはハッキリと、『長崎フェア限定!長崎ちゃんぽんフラペチーノ』と書き込まれていた。