幸福が壊れた夜の話
その日はなんて事ないいつもの夜だった。楓香は父の鳴らすヴァイオリンの柔らかい音色を子守唄に寝付いて、その寝顔を父は優しく見守っていて。
穏やかな静寂が破られたのは、けたたましい鐘の音だ。ばっと飛び起きた楓香が部屋の中を見渡せば父はとうに身支度を整えていて、「三」の文字を染め抜いた白羽織が翻るところだった。
「起きてしまったかい。ごめんね」
「今の音、なに?」
「呼び出しだよ。……何かあったみたいだ」
"楓香の父"ではない、"隊長"の顔になった父はそう言って楓香の頭を撫でる。思わずじっとその端正な顔立ちを見つめると、優しく微笑む顔が見えた。
「そんな顔をしなくても、直ぐに戻るよ。だからいい子で待っておいで」
「……うん。行ってらっしゃい、ローズ」
「ありがとう。髪、結んでくれるかい」
差し出されたリボンを綺麗に靡く金髪に結んで、少し縦結びになってしまった結び目を撫でるしなやかな指を見つめて、また頭を撫でられる。父とおなじ金髪が、血の繋がりはなくとも親子と思えるようで楓香は好きだった。
「夜はまだ涼しいから、暖かくしているんだよ。眠いようなら先に寝ていて構わないから」
「待ってるから大丈夫だよ」
「……そうかい。楓香は優しい子だね」
そう言ってまた少し笑うと、父は今度こそ招集に答えて夜の中を出ていった。その背中をいつものように暫く見守り、楓香はふらふらと自室に戻る。縁側に腰を下ろして、気に入りの羽織物の合わせを胸の前に寄せて、棚の上にいつも置いている瓶を握る。
中でからころと音を立てているのはガラスの欠片。淡い緑色のそれは、父が現世に出張に行った時に拾ってきてくれた土産だった。
――シーグラス、というらしい。
――瓶の欠片が長い時間をかけて削られて、丸くなって、宝石みたいになるんだよ。
――あまり触ると手が切れてしまうから、ここに入れておこうね。
透明でつるりとした瓶の中に入れられたシーグラスは光に透かすとちらちらと煌めいて、それが楓香は好きだった。似たようなものを探し歩く散歩と、拾ったものの報告が日課になるくらいには。
「……ローズ」
父はどれだけ多忙でも楓香の眠りを守るために帰ってきてくれたから、一人で夜を過ごすのは意外に久しぶりだった。
「はやく帰って来ないかな……」
まだ出かけていって数分にも関わらずそんなことを呟いて、楓香は抱えた膝に顔を埋めた。
空が白んでも、陽が昇っても、明るくなっても、父は帰って来なかった。それを楓香が知ったのは縁側でいつの間にか少し眠ってしまって、誰かが庭に入った物音で目を覚ました時だった。
「ローズ……?」
そう呼びかけて、違う、と理解する。銀髪に特徴的な羽織物、父とは違った体躯と霊圧。確か、名前は。
「雀部副隊長さま……?」
「……楓香殿、よく聞いて欲しい」
たまに話をしてくれた覚えが薄らとある彼は、硬い表情のまま楓香の肩に手を置いた。
「鳳橋隊長は、昨晩の任務で行方知れずとなった」
「………え、?」
「遺体も痕跡も見つかっていない。恐らくは……」
「嘘、」
ぶんぶんと首を横に振って、楓香は嘘だ嘘だと繰り返す。
「だって、帰ってくるって言ったもん」
嘘吐いたことなんてないのに。
半ば叫ぶように言って、震えた手から瓶が滑り落ちる。
カラン、と儚い音を立てて、それは縁側を転がって行った。