幸せの形

幸せの形


※猫被りifロー前日譚DR騒乱編SSのエピローグです。



 ある男の卓、鍵の付いた引出の中。

 そこに一枚の写真が眠っている。


 写っているのは二組の家族。

 軍医と開業医、行く道は違えど同期の医師。懇意にしていた父親同士が誘い合い実現した、ささやかな食事会の一コマだ。

 母親の膝の上でうたた寝をする幼い少女。双子の姉弟に囲まれ、自慢げに何かを語る少年。子ども達の様子を微笑ましげに見つめる軍医とその伴侶。

 幸せで、面映さの感じられる風景。

 撮影者はもう一人の父親で、国一番の名医と謳われた医師だ。


 退役した軍医からその写真を譲り受けたのは後の元帥となる男であった。


「世界が、いや、私達が彼らを殺した」


 失望も露わにそう訴えた元軍医は、その三日後、家族ごと姿を消した。

 真実は罪を暴くが同時に人を殺す。時に愛する者までもを巻き込んで。

 家族二組八名。

 今や、生き残ったのは一人きり。


 一度は少女の手に渡り、そして彼女の死後、血と涙で汚れた遺品として養父の元に渡った。

 その写真は誰にも触れられることなく、添えられた手紙と共に眠り続けている。




 突如国を襲った惨事から半年。

 復興の進むアカシアの港に、一隻の海賊船が停泊している。


 食糧や建材が次々と降ろされる様を見守っていたヴィオラは、タラップを降りてくる少女に気付き、手を振った。

 少女の名はベビー5。恋多き少女である。ヴィオラとはたまにお茶をする仲だが、その度に意中の相手が変わっているのは彼女が惚れっぽいせいか、単に男運が悪いのか。やや心配になるヴィオラだ。

 ベビー5が後ろを振り返り、楽しげな声を上げる。


「若様、ヴィオラ様がまた遊びにいらしてますよ」

「遊びには来てないわ。説得に来たの」

「でも、二人でお散歩するんでしょ?」

「散歩でもないんだってば」

「ベビー5、姫様を困らせるな」


 不思議そうに首を傾げるベビー5の背後から、黒衣の男が顔を覗かせた。

 申し訳なさそうに頭を下げた男は、しかし、タラップを降りようとしない。

 ヴィオラは自らタラップへ昇り、半ば強引に男の手を引く。


「姫様、やはり私は船内におります」

「ええ、分かっています。穢れた海賊の身でドレスローザの地を踏みたくないのね。でも、私はあなたに会いたいし、ドレスローザの民もあなたを歓迎しているの! もう、何度言わせるのかしら」

「申し訳ありません……」


 手を引かれタラップを降りた男は、俯きがちに謝罪する。

 初対面時とは全く様相の違う、借りてきた猫のような男の有様にヴィオラはつい笑ってしまった。


 あの日、海軍が海賊を連行し引き上げた後、トラファルガー・ローは彼の仲間達の手で自船へと運ばれた。

 それから数日間、船員らに救援物資を運ばせ復興を助けるものの、彼自身は一切姿を見せることなく、ついには何も言わずに出航してしまったのだ。

 復興支援の名の下に残った数名の船員の話では、彼は翌朝にはほぼ回復しており健康上の問題はないとのこと。

 挨拶くらいさせてくれてもいいのに、などと思うヴィオラだったが、その後ものの数日で救援物資を積んで戻ってきた船に驚かされ、さらに船から一歩も出ずに能力で瓦礫を撤去するトラファルガーにむしろ妙な怒りすら覚えることになる。

 曰く、己は穢れている。血濡れた足でドレスローザを穢したくない、と。

 若干対応に困っている様子の船員から船長の言葉を知らされ、ヴィオラは思った。


 有事の最中とはいえ、王宮にヒビを入れ岩肌にクレーターを作った男が何を言う。


 言葉通り本当に一歩も船から出ないトラファルガーに対しある種感心はしたが、なにより焦ったさが勝ち、ヴィオラは父王を連れて船を訪れた。

 何と言っても最高権力者である。流石に王に出られては如何なる頑固者とて無視をするわけにはいかなかったようだ。

 また、男自身が述べた通り、彼はリク王に恩を感じているらしい。王が顔を見たいといえば渋々顔を出し、民に姿を見せてやってほしいと頼めば恐縮しながら人々の前に姿を現す。

 そして、これを見たヴィオラおよびドレスローザの民は気付いてしまった。

 トラファルガー・ローは押しに弱い。

 ここドレスローザは愛と情熱の国。アプローチの手練手管と粘り強さにかけては中々のものである。

 停泊のたびに王や王女、さらに国民らから顔を出すように強請られて手を引かれ、時に仲間に背を押されて船を降りるようになった彼は、徐々にその態度を軟化させていった。

 もちろん、海賊ということで疑う者もいる。しかし、警戒を露わにしたところで、返ってくるのは却って安心したような淋しげな笑みであるからして、疑う気持ちも晴れていくというもの。

 国全土に衝撃を与えた復讐の死神像は過去のものとなり、『海賊の船長さんは気張らにゃならんで大変じゃのう』などとアカシアの男衆に囲まれる姿はもはや酔客に絡まれた哀れな青年にしか見えない。

 こうして少しずつドレスローザの地を踏むようになったトラファルガーだったが、いまだに躊躇いがあるらしい。


「初めて会った時の図々しさはどこにいったのやら。態度なんてもはや別人だわ」

「私なりに敬意をあらわしているつもりですが……所詮は不調法者の拙い手習。お目溢しをいただきたく」

「もう、卑下禁止よ。ところで、その改まった口調はどこで学んだの?」

「どこでと仰られましても、生きるうちの処世術と申しますか、自然に」

「あなたの強さで処世術が必要なんて世の中って大変なのね。腕っ節で全てをのしてきたのかと思っていたわ」

「姫様、発想が野蛮ですよ」

「あら、ごめんなさい? 私ったら世間知らずの小娘だから想像しかできなくて」

「…………」

「冗談よ。そんな顔しないでちょうだい」


 二人で町を歩めば人々が手を止めて朗らかに挨拶をする。トラファルガーは戸惑いに揺れる目で静かに礼を返し、何か足りないものはないかと彼らへ問いかけていた。

 暫く町を歩み、男は言う。


「姫様は私の本性をご存知でしょう。リク王様にはもうお伝えになられましたか?」

「飼ってらっしゃる猫のことなら、父も知っていてよ」

「はぐらかさないでください」


 瓦礫を寄せ集めた広場のそばを通り抜け、急遽拡大された墓地の前で足を止める。男の表情は険しく、それでいてどこか苦しげだ。

 ドレスローザの新たな友。実のところ、彼はこの国に関わりたくないのだろう。

 それは決してこの国を嫌っているからではなく、むしろその逆なのだ。


「ねえ、トラファルガー。私の眼は確かにあなたの悪意を見ているけれど、同時にあなた自身が気付けないあなたの願いも見てしまうの」


 ヴィオラはこれまで様々な思いを見てきた。一様に善である、または全てが悪心である人間など一人もいない。欲に溢れながら善行をする人間もいれば、慈しみを持ちながら悪行をなす人間もいる。

 トラファルガー・ローは悪党なのだろう。今回の件にしても、直接の関与はなくとも事前に防ぐまではせず、我欲に利用しようとしていた。

 決して清廉な人間ではない。むしろ、悪に属する人間だ。

 いや、強いて悪に『属そうとしている』人間と言うのが正しい。

 難儀な人だ。

 年上の海賊を見つめ、ヴィオラは嘯く。


「私は信じたいものを信じただけ。そして、ドレスローザは救われた。違う?」

「……姫様の目がこれ以上曇らぬよう、切に願います」

「随分な言い草ね」


 再び歩み始めたトラファルガーはため息をつきながら続けた。


「姫様やドレスローザの皆さんの、人を信じる姿勢には頭が下がります。ですが、相手もあなた方のように善意に満ちていると思うのは危険では?」

「あなたこそ、この国を神聖視していない? 別に私もドレスローザの民も善意の塊というわけではないわ。かくいう私だって人を引っ叩いてやりたいと思ったことくらいあるもの」

「意外ですね。どなたを?」

「お父様よ」

「…………」

「いやだわ、怖い顔しないで。ささやかな反抗期だったのよ。そういう時期、あなたにはなかった?」


 無言で咎めてくるトラファルガーを追い越し、振り返って訊ねる。彼は一瞬瞳を揺らし、視線を切るように目を伏せた。


「どうでしょうか。それに、こんな商売です。殺してやりたいと思われたことなら、数えきれないほどあるのでしょうね」

「訊いた私が言うのもどうかと思うけれど、悲しい時に話を誤魔化すのは良くない癖よ」

「……ええ、確かに。仰る通りです」


 虚を突かれたように呟いた彼が俯いてしまう前にヴィオラは続ける。


「ところで、トラファルガー。また卑下したわね。お父様に言い付けてやるわ」


 彼は首を傾げ、曖昧に微笑んだ。

 それは憂いを帯びているようでもあり、どこか面白がっているようにも見える不思議な笑みだった。


「あなた、実はわざとやってる? 私、揶揄われたり利用されてたりするのかしら」

「そのように見えますか?」

「見えないから訊いてるんじゃない」


 海賊の船長と一国の姫が並んで歩くという不思議な光景を道行く人々が見守る。

 惨劇の痕が未だ残る中、しかし、彼らの視線はどこか温かく希望に満ちていた。





 七武海の特権の一つに海軍資料室及び書庫の開放がある。

 軍議資料などは別途管理されているが、過去の新聞記事や加盟国の歴史的資料、希少な医学本等に触れることができるのだ。

 新たに七武海入りしたトラファルガー・ローは、資料室の椅子にかけて古い新聞記事を眺めていた。


『記録的豪雨 N国に疫病蔓延』

『救援届かず 事実上の封鎖状態』

『壊滅的被害 復興は絶望的か』

『N国に支援の手 ドレスローザ国王リク・ドルド三世』


 数年前、N国は大規模な洪水に見舞われた。資源もなく、政府の助けも不十分。否、見捨てられて助けも得られず、疫病の広まる中で滅亡を待つしかない。

 そんな彼らに救いの手を差し伸べたのがドレスローザだ。

 リク王自ら指揮をとり、人員を派遣。ドレスローザ国民もまた王の呼びかけに応え、各々物資や金銭の寄付を行った。自国とて裕福ではないというのに、彼らは援助の手を惜しまなかった。

 その姿を見た周辺諸国も活動に参加。

 援助の輪は大きく広がり、互助関係が生まれた。

 その後、N国は復興の道を辿り、二国を中心とした周辺諸国の国交は今なお続いている。


 資料を見るうちに軽い頭痛を覚え、黒衣の男は眉間を揉んだ。


 結論から言えば。

 計画は上手くいった。


 狙ったのはドレスローザを含む周辺諸国。数カ国で互助関係を築き、何とか加盟国の要件を満たす地域だ。

 この互助関係に入り込むこと、否、正確には、周辺一帯のパワーバランスを大きく突き崩すことが今回の計画の目的だった。

 世界政府は均衡の崩壊を極端に嫌う。元より、政府にとってトラファルガー・ローという存在は厄災の象徴に等しい。潜伏を止め唐突に表で動き始めたとなれば、それだけで脅威を感じるはず。

 だが、既に強大なネットワークを作り上げ、信奉者を抱えている己を消せば、それこそ均衡を崩しかねない。

 おそらく、政府は己に首輪をつけようとするだろう。

 例えば、王下七武海のような。

 それでいい。

 目的のためならば、従順さなどいくらでも装える。海軍とて人間の集団、一角を堕とすのは容易い。十年もあれば三割程度は削れるだろうか。

 世界政府は大海原の主のように振る舞っているが、所詮は図体がでかいだけだ。構築済みのシステムで騒乱を起こし続けて加盟国という鱗を一枚ずつ引き剥がし、七武海として中から臓腑を食らってやれば、勝手に溺れ死んでくれるだろう。

 今は、時間をかけてゆっくりと、生きていけない身体に仕上げてやればいい。


 つまるところ、取り入る国などどこでも良かった。

 方法も同じく。

 力を求めるなら武力を、発展を求めるなら支援を。どんな形であれ、入り込む隙などいくらでも作れる。


 ただ、今回は偶然、かつて撒いた悪意の種がちょうど収穫の時期をむかえていた。これを利用し、辺りの掃除も一度に終わらせようと考えただけだ。


 ドレスローザで暴動を起こした加盟国の市民組織。

 トラファルガー・ローが様々な勢力を介し、一切顔を見せることなく継続的に支援してきた地域で、それは生まれた。


 きっかけはN国の大災害。これはもちろん狙って引き起こされたものではない。単なる自然災害である。

 ただ、N国はあるエネルギー資源の産出国であり、その資源に関し、周辺諸国はN国に依存していた。

 災害により資源供給が中断。周辺諸国でコスト高による急激な物価上昇が起こる。

 『善意の外部団体』による長年の生活融通で国内の生産力が落ち、デフレ傾向にあったN国周辺諸国は、ものの数ヶ月でスタグフレーションを引き起こし、結果、貧困層がさらなる生活難に喘ぐようになった。


 そんな中、突如『善意の外部団体』が姿を消す。

 彼らの元に残ったのは、海賊対策と称して与えられた武器だけ。


 彼らは喰うに困り、徐々に過激な市民組織へと姿を変え、金を搾り取るだけの自国と世界政府へ呪詛を吐くようになった。


 芽吹き始めた悪意。

 彼らを動かすのはそう難しくない。

 例えばそう。資源問題の見通しついでに『N国は周辺加盟国同士で助け合って危機を脱した』と世間話をしておくだけ。

 孤立し奪われるだけの国と資源に恵まれ助け合う国。彼我の差は羨望を生む。

 羨望はやがて嫉妬、そして憎悪へと変貌。果てに、世界政府よりも手近な標的、『輪に入れてくれなかった』加盟国への暴動を企てるに至った。


 そして、悪意は害意をも呼び寄せる。


 海賊しかり、汚職海兵しかり。さらに漁夫の利を狙う賞金稼ぎが集結すれば、そこは瞬く間に地獄と化す。

 各勢力を緻密に操る必要などない。

 彼等は少ない資源を奪い合う間柄。互いが互いを喰らい尽くそうと機を狙っていた。態々情報を流さずとも、自ら嗅ぎ合って動いてくれる。


 こうして、惨事は引き起こされた。


 予想外だったのは、リク・ドルド三世の行動。まさか身を挺して、子どもを守るとは思わなかった。


 本来、王が取るべき選択ではない。例え子どもを見殺しにしてでも生き残るべき責務が彼にはあったはずだ。

 己が身の重要性を十分に理解しているだろう賢王が、何故あんな無謀な行動に出たのか。

 トラファルガー・ローは理解してしまった。


 あれは、本能だ。


 幼き命は守るべきだと、美しく培われた道徳心を以てそう考えたのではない。ただ、咄嗟に身体が動いてしまっただけ。


 こんな王族がいるのか。

 そう思った。


 リク王の娘、ヴィオラも変わっていた。ドレスローザについて語る言葉には深い愛があり、また、心を覗き本性をみた上で、彼女は海賊トラファルガー・ローの安全を願った。

 国民もそうだ。自らもひどく傷付いているのに、海賊を労わり友のように扱うのだから。


 当初、暴動はドレスローザではなく他国で起きるはずだった。

 たまたま、決行直前になって海流に大きな異変があり標的が変わったと後に知る。


 トラファルガー・ローは悪党だ。どの国が被害を受けてもいいと考えていた。


 ただ、一瞬。

 ほんの少しだけ。

 ドレスローザでなければいい、と。

 そう願った自身の弱さも自覚していた。


 本当は、N国を救おうとする王族の姿に、幼い頃の自分が少し、ほんの少しだけ救われたようなそんな思いがして、気が進まなかった。


 それだけだ。


 かくして、故意に引き起こされた戦乱は幕を閉じ、ドレスローザは海賊トラファルガー・ローを受け入れた。

 計画は概ね順調に進行している。

 そう。形はどうあれドレスローザには関わるつもりだった。善人ごっこの隠れ蓑にはちょうどいい、清廉な国だったのだ。

 侵攻開始直後から島全土のみならず周辺海域を含む超広域でROOMを維持し続け、さらに想定外の施術と移動を繰り返したせいで体力消費はかなりのものだったが、それだけの価値があった。想定以上にうまく取り入ることができている。

 ドレスローザには海賊拿捕の懸賞金が入り、損害に対する補償も行われた。ヴェルゴは掌握済みのドレスローザ周辺からG-5への左遷という形で撤退。また、自身はドレスローザ防衛で名を上げたという名目で七武海に勧誘され、それを承諾。

 何もかも思う通りに進んでいた。

 問題は何もない。


 揺れる己の心以外には。


 黒衣の男は小さくため息を吐く。


 無意識は制御できないものだ。

 行動や認知を修正することはできても、根底の性質が変わるわけではない。

 トラファルガー・ローは自覚している。自身の気質は本来、悪に向かない。それは生来の性質がどうというより育った環境によるものだ。

 親に愛されて育った。守るべき妹がいた。多くの友と友誼を交わした。

 裕福だった。教育があった。信仰があった。道徳があった。

 それらに育まれた幼い哲学は、それら全てを喪った今も彼の内に根付いている。

 感覚は随分と薄れたが、実のところ、善行を尊ぶ心は未だ死に切らず、戦乱には忌避感がある。人の死には重く鈍い痛みを感じ、ごく稀にではあるが、己が引き起こした事件への罪悪感で眠れぬ夜もあった。


 端的に言えば、トラファルガー・ローには悪の素養がないのだ。


 ただ、善悪の基準が明確であるが故、冷徹な思考を経た行いは悪辣を極める。

 ある時は、護るための戦いなどと嘯いて武力を売りつけ、その金で食糧をばら撒いた。そうすれば戦火は延焼し続ける。言うなれば、人の死で人の生を買い、人の生で人の死を売るだけのこと。

 またある時は、見捨てられた人々の生活水準を引き上げ、生きる希望を説いた。そうして不自然に生まれた光は同時に闇を生み、救われなかった者達が略奪を始める。あとは一本のナイフを与え、一言二言囁いてやるだけでいい。

 また、善人面で取り入ることも容易い。多少伝わりやすいように演技はするが、『本当に感じていること』を表に出すだけ。それだけで、人は騙されてくれる。


 悪は、簡単だ。


 何より簡単なのは、それらを悪だと罵り泣き喚く幼い己を黙らせること。

 何をせずとも、瞼にこびりつく炎が、耳を貫く叫びが、手に残る骨の感触が、何度でも己が善性を殺してくれる。


 そして何より、トラファルガー・ローはバケモノだから。


 ヴェルゴがラミと接触すると聞き、秘密裏に後を追ったあの日。林に響いた声を彼は今でも覚えている。


 結局、彼女の言う通りだった。

 バケモノはバケモノらしく、世界を道連れに地獄へ堕ちねばならない。


 善悪の秤を、正義を、世界全てを壊す。

 幾重にも折り重なる屍の山。そこで生まれた悪心こそが彼の指針。


 目的のためならば、己の心や他者の幸福など簡単に切り捨てることができる。

 これまでと同じく、今回も割り切ることが出来るはずだ。


 本当に?


 寝不足のせいか、どうにも思考がまとまらない。意識を切り替えるべく、トラファルガー・ローは立ち上がった。向かうのは医学本が集められた書架だ。

 専門家がいないのか、他よりもやや雑に分類分けされたその棚。既に目を通したものも多く、新たな発見はない。

 しかし、ある一冊の本の前で、彼は立ち止まった。

 著者名に見覚えがあったのだ。

 それは父の友人の名だった。

 何となく手を伸ばし、指でタイトルをなぞる。挙げられた症例は然程珍しいものではない。彼は軍医であったから、著書を寄贈したのだろう。

 本を開く。

 献辞にはこう記されていた。


『愛する家族と、友人Tに捧ぐ』


 動揺を自覚。かぶりを振って頁を進めた男は違和感に気付く。

 何か挟まっている。

 整理が雑な場所だ。そんなこともあるだろう。不自然に膨らんだ頁の隙間に指を伸ばし、男はそのまま手を止めた。

 息を呑む音が書架に消える。

 しばらくして静寂に落ちたのは、小さな水音だった。


 ぽたり、と。


 金の瞳から溢れた涙が頁を濡らす。それは堰を切ったように次から次へと溢れ、次第に頁を歪ませていく。


 己が泣いていることにも気付けないまま、男は震える吐息を零した。


 そこにあったのは古ぼけた一枚の写真。


 二組の家族が笑う。

 何の変哲もない、

 ただ、幸せな光景だった。





(蛇足)

 正解は普通に黒幕、ただし運命力が足りずにベストルートに乗らない、でした。

 普通に八百長式海賊襲来を書くつもりだったはずが、『原作はリク王に異変があったし、それくらいは踏襲すべきかな』とか思ったら大変なことに……。

 原作のDR乗取時にもちらりと名前が出ていたので、最後はヴェルゴ大佐に出張ってもらいました。

 PH汚職疑惑の時、ヴィオラだけはあの時の人かなと思ってる感じですね。


 何気に、ifローを倒れさせるのが一番の難所でした。

 立てば辻医者(フィジカルタフ)!

 座れば教祖(メンタルタフネス)!

 歩く姿は覇気ゴリラ(ゴリラ)!!

 ……なイメージなので、どうあっても倒れなくて無理矢理寝ていただく形に。

 それでも無理がありそうなので、最近出来たお友達のところで直前まで鬱憤晴らししてたとか、いい感じの理由付けをしていただければと思います。


 スタグフレーションは、大雑把に説明すると『賃金上がらず大変なのに物価は跳ね上がっていく不景気コンボ』みたいなものです。

 ifローは『戦争か資源難が起これば経済が傾きそう』と思った加盟国に予め不景気土壌を作っておき、狙ってスタグフレーションを引き起こした感じですね。世界政府への迂遠な嫌がらせの一環です。これで非加盟国落ちしたらそれでよし、暴発するならそれもよし、という感じ。

 情けは人の為ならず、悪の収穫大感謝祭でした。


 最後の写真は現像したものをフレバンスに送る前に……のイメージでした。

 写真は二枚あり、センゴクさん所有分がT医師撮影分、本に挟まっていた方が軍医さん撮影分です。


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