幕間―グエルが恋に落ちた経緯妄想―
地球寮の居心地はいい。グエルにとっては同郷の人たちが集まっている場所だからこそ何となく波長が合うし、寮の人びともグエルには好意的だった。心が休まる場所だ。勿論親友たちと一緒にいるのも楽しいけれど、それとこれとは話が別である。
ただ、今回に関してはみんな遠巻きにこちらを眺めている。それも仕方がないことだろう。どこから来たかもわからぬガンダム使いで、孤立にもめげずひたむきに決闘を挑み続ける少女。学園の多くの人にとって得体が知れない存在だろうし、グエルにとっては明らかな警戒対象だ。現在進行形でグエルの目の前で課題と見つめ合っているその子の名を、スレッタ・マーキュリーという。
「そこ、間違ってるぞ」
「え、ホントですか!?」
声をかけられたスレッタはびくり、と肩をはねさせて、こちらと課題とを交互に見やる。分かりやすく顔に衝撃、と書かれているスレッタにちょっとだけ笑いをこぼして、訂正すべき箇所を解説していくと、根が真面目な彼女は真剣に理解しようと頭をひねり始めた。その様子が何だか小動物みたいで、思わずほおを緩めてしまう。グエルのことを慕ってくる子どもたちを思い浮かべる素直さだった。……この状況下では、愚直と言い換えられる類の性質だ。
正直、見ていて心配になる。シャディクが簡単に負けるとは思っていないが、相手がガンダムなら話は別だし、スレッタ自身の技術も確かなものだ。だから、彼女が一向にシャディクに勝てないのは、精神的な面も大きいのではないかと踏んでいた。シャディクには勝ち続けてもらいたいものだが、こうして負け続ける少女を見ているのも、流石に心が痛むというか。
「あまり無茶をしない方が良い。決闘だって、むやみにやってもいいことはないんだから」
そしてシャディクへの挑戦はあきらめてもらえると非常にありがたい。親友の恋路は真剣に応援しているのだ。本人に悪気がないのはわかっているし気の毒だとも思うけれど、あの不器用な二人がようやくいいところまで行っている。二人が結婚したあかつきには赤飯を炊いて祝おうとグエルは誓っていた。その時にグエルがそばにいる保証は全くと言っていいほどないけれど。
その声にばっと顔をあげた少女は、うう、とまた唸り声をあげる。丸っこい眉が分かりやすくひそめられたが、すぐに真剣そうな顔を浮かべた。でも、と紡ぐ言葉はどこかかたい。
「お母さんのために、頑張らなきゃだから」
「……そうか」
彼女と出会ってから、幾度となく聞いた言葉だった。そのたびになぜか、グエルは遠い記憶を手繰り寄せている。
グエルにとって、母の記憶はすでに薄まりゆくものだ。それでも、弱っていく姿と、その中で自分に笑いかける柔い表情が、今でも深くに残っている。幼かったグエルは、そんな彼女をただ見ていることしかできなかった。忘れもしない、最初の喪失の記憶。
ソフィやノレアたちのことは大切だ。フォルドの夜明けの子どもたちのことを、心の底から守ってやりたいと思っている。だからこそグエルは、ガンダムに乗ったときに味わった苦痛を呑み込むことが出来た。今だって、親友やその大切な人、グエルのことを気にかけてくれる先輩や同級生に対して、自分が彼らの脅威となりうる存在であることを隠し続ける痛みに耐えることが出来ている。だから、家族のためにと立ち上がるスレッタの心境は、共感できる類のものに感じる。
だけど、グエルに親と言える存在はいない。オルコットはどちらかと言うと師匠だったし、他の大人たちも仲間という感覚が近かった。親がいない子供なんてありふれていたから、気に留めたこともなかったけれど。
目の前で問題とにらめっこをする少女に、父を慕って駆け出していった幼い少女の姿が重なっていく。もし、あの時のグエルに力があって、母を生かすことが出来ていたとしたら。そんなこと、考えても仕方がないことだとわかっている、のに。
「ボブさんのお母さんは、どんな人なんですか?」
ふと思いついたかのような気軽さで放り込まれた問いかけだった。思考に沈んでいたグエルが口を開いたのは、本当に無意識のうちだった。
「良く笑う人、だった」
言ってから、グエルは自分の失態に気が付いた。こぼすつもりなどこれっぽっちもなかったのだ。フォルドの夜明けの面々相手ですら、言わないようにしていた話題だったというのに。いつもは深くに仕舞われたその記憶があふれてやまないものだから。
表情が硬くなったグエルを不審に思ったのか目を丸くしたスレッタは、しかしその事を追求はしなかった。ただ、そうですか、と表情を緩める。ほんのりと赤くなった頬や、光を反射する瞳に、なぜだか目が離せず、ただ意識が研ぎ澄まされていく。結果としてグエルは、その言葉を一文字も聞き洩らさなかった。
「素敵な、お母さんだったんですね」
「……そう、だな」
何とか絞り出したその言葉を、今度のスレッタは不審に思わなかったらしい。そのまま再び課題に向かい合い、今度は迷いながらもペンを動かしていく彼女を、グエルはそのままぼんやりと眺める。
(もし、母さんが生きていたら)
考えたところでどうしようもない問いであることは変わらない。ただ一つだけ、確かに変わったことがあったとしたら。
大切な家族のために、逆境の中でも前を向く少女。何の衒いもなく、誰からも忘れ去られていくグエルの母を認める言葉をくれた人。
また唸り声を上げ始めた彼女のことが、グエルにはどうしようもなく眩いものとして映ったということだけ。
その正体に気が付いて……というより、指摘されて、グエルがどうしたものかと天を仰ぐのは、しばらく後のことになる。