少年よ、狂い給え
――端的に言えば『油断しすぎていた』としか言いようがない。
神代類は機械部品のつまったビニール袋を片手に、眼前の光景に背筋が凍るような思いを味わっていた。
つい数分前までギラギラとした灯りに包まれていた商店街の風景も、今では幻のように消え失せてしまった。今ここにあるのはゴーストタウンに相応しい無人の街であり、星の灯りすら見えないほどの暗黒のセカイだ。
――夜のシブヤ
ある日突然『音楽』と『バーチャルシンガー』が消え失せたこの世界に起きた、無視できない異変の一つだ。
夜の帳が落ちきった後、この街は無人の廃墟と化す。ただ数人の例外を残し、このセカイは化け物が闊歩する危険な領域となるのだ。
先日、先に思い出していた司の力もあって"音楽"を思い出せた類は、その大切な記憶と引き換えに危険なセカイへと足を踏み入れた。
もし自分を助けてくれた"勇者"の存在が無ければ、己はきっとすぐに死んでいただろう……そう思えるほどに、『夜のシブヤ』というのは命の保証が出来ない危険地帯だったのだ。
では何故、そんな危険地帯に一人足を踏み入れてしまったのか?――それこそが冒頭で述べた"油断"なのである。
サーヴァント……"音楽"を思い出した類たちに力を貸してくれる、一騎当千の英霊たち。
司がヨーロッパ史に名高い騎士王の英霊"シャルルマーニュ"を召喚したように、類もまた一人の英霊――幕末の維新の英雄"高杉晋作"を召喚し、彼と契約していた。
未だ彼らの全てを知っているわけではないものの、一般人の自分では絶対に敵わない化け物を数十体単位で瞬殺出来るほどの英傑たちなのは確かである。
ただ、彼らが完全なる無敵なのかと言えば、それは否である。
『類君、君は魔術師というわけではないのだろう?』
『はい。ショーとしての手品が出来ても、そういった類のものが使えたことは一度もなかったので……」
『なら現状の枯渇具合も納得だな。この特異点では純粋な"魔力"が必要というわけでも無さそうだが……それでも、僕らが万全に戦うにはほど遠い供給量だ。僕には"単独行動"があるとはいえ、もう少し安定して魔力がもらえるまでは、少しばかり節約する必要がありそうだな』
いくつかの戦いを経験した頃、高杉晋作から唐突に話しかけられた内容というのがそれだった。
彼ら英霊は本来マスターからの"魔力"供給によって顕現しており、これが足りないと奥の手とも言える"宝具"の使用は愚か、満足に戦うことも難しくなるのだと高杉は言っていた。
類はそういった非科学的なものとは無縁の人生だったのだが、それでも魔力に似た力が、確かにパスを通して高杉へと供給されてはいるらしい。だがその量も『高杉が所属していた組織のマスター』と比べれば雀の涙なのだとか。
("魔術礼装"という不思議な装備を手に入れられたとはいえ、依然僕や司くんではあの化け物相手に太刀打ちはできない。サーヴァントの二人が万全に戦えるように、僕も色々と考えて動くようにしないといけないね……)
高杉を召喚した時、連鎖的に手に入れた"セカイ式魔術礼装"という力(見た目は普段のショー衣装と然程変わらない)があるものの、元より戦闘と無縁だった類や司ではまだ上手く使いこなせない状態だ。
だからこそ、いざという時――それこそ、何者かの陰謀によって敵対してしまったバーチャルシンガー達と相対する時が来た時、文字通り彼らの力が命綱となる。それだけでなく、自分たちが足手纏いにならず、かつ生きて帰れるようにするための準備をする必要が類にはあったのだ。
一先ず色々とサーヴァントについて高杉に質問を重ねた類は、本来彼らが必要としない『食事や睡眠』をすることで、魔力の消費を抑えられることを知った。なので魔力が安定して供給できる方法がわかるまでは、高杉にそうしてくれるよう頼みこんだのだ。
本人自体は飲み食いも睡眠もサーヴァント化した後もよくしていたようで、そこはあっさりと了承を得られた。今日の昼ごはんに持ってきた野菜抜き餃子を見た時は「おいおい、面白すぎるだろ……」と呟いていたので、現状不満も特になさそうだった。
今日の休みは一日中家にいると決めていたため、食事後に早々に昼寝を決め込んだ高杉を特に起こすこともなく、類も自分の機械製作に打ち込む……その予定だったのだ。
「しまった。ねじが切れていたのか……」
ただ、その予定が狂ったのが夕方に差し掛かった時のことだった。
化け物を追い払えるようにと作っていた機械に使う材料が、何の因果か幾つか足りなかったのだ。買いに行くのに時間は然程かからないだろうが、夜も近い。あの化け物がうろつく空間にいつ飛ばされるかわからない以上、買い物は明日にするのが賢明だった。だが……
(あの化け物が何時、日常に襲ってくるかもわからない……この道具の完成が遅れたことで、致命的な怪我を司くんたちが負ってしまったら……)
そう思う類の心は、本人でも無自覚なほどに焦燥に染められていた。
何せ実際に化け物に殺されかけ、大切な人たちから刃を向けられる様を見てきたのだ。いつ死ぬかもわからない状況は、ただでさえ自分の感情に鈍い類の心に、呪いのような傷を与え続けていた。
それに、まだ音楽を思い出せていない寧々やえむを守る方法も早急に必要だった。自分と同じように思い出せるとしても、サーヴァントが同時に来てくれるかは未知数だ。自衛手段はあるに越したことはない。
――類は誰よりも仲間たちが好きだった。その為なら自分自身を無意識に危険に晒せるほどに。
だからこそ、類は少し迷った後に、眠る高杉に何も告げないまま家を飛び出したのだ。
彼を置いていったのは、睡眠という魔力を補う行為を極力邪魔したくなかった……というお節介が理由だった。高杉晋作という男が史実だと病に苦しめられていたという事実も、類に躊躇わせた一因だ。
大丈夫。夜の帳が落ちる前に家には戻れるだろう。ねじだけ買って真っ先に帰ればそう時間はかからない。何も問題はないのだと――
それこそが、類の犯した最大の過ちだった。
「夜の、シブヤ……」
今、類はじわりと手に滲む汗を感じながら、眼前の廃墟に足を縫い留められていた。
思えば現実のシブヤと"夜のシブヤ"が入れ替わるタイミングを、類は完全に把握しきれていなかったのだ。そして彼は知らないことだが、この特異点は現在非常に不安定な状況である。例え前と同じタイミングで"夜"に入ると思っていても、イレギュラーが起こる可能性は十分あったのだ。
普段の彼ならもっと慎重に慎重を重ね、自分のサーヴァントを起こして連れていくか、安全な昼に買いに行こうと一考出来る余裕はあっただろう。それでも"非日常"という沼に足を捕らわれていた類は、彼らしくないミスを犯してしまったのだ。
――シブヤが"夜"に沈むと同時に、周囲から嫌な気配が溢れ出した。
路地裏から、割れたショーウィンドウから、大通りから、この世のものとは思えない呻き声が聞こえてくる。
セカイ式礼装なら対抗できるとしても、数の暴力に晒されれば全く意味がない。今の類がすべきことは、持てる力全てを使ってこの空間を脱出し、家へと駆け戻ることだけだった。
(まずは生き残ることを最優先に、いざという時は……)
その視線が一瞬己の手の甲――高杉晋作を召喚した時に現れた"令呪"へと向けられる。
たった三回限りの奇跡であり、これを使えば絶望的な劣勢すらもひっくり返せる可能性があるのだと彼らは言っていた。もし本当にどうしようもなくなった時は、これを使ってサーヴァントを呼び出せば……
(……いや、僕の完全なミスなのに、彼の手を煩わせるのは――)
それでも、類の頭に過ったのはそんな遠慮だった。
あるいは、この時の類は心のどこかでまだ大丈夫だと思っていたのかもしれない。圧倒的力を見せつけたバーチャルシンガー達と比べれば、"その辺の化け物"はまだ自分だけで対処できる範囲である……と。
「――untitled」
音楽の喪失によって白紙へと巻き戻った自分たちの"想い"の名を、小さく唱える。すると一陣の小さな風が駆け抜けると同時に、類の服装は舞台に立つ時のショー衣装へと瞬く間に様変わりしていた。
礼装は見目で言えば普段と変わらないが、それでも直前まで感じていた恐怖は溶け落ち、この困難に立ち向かう勇気を類に与えてくれた。この礼装で出来ることもある程度把握できている、今回はただ急いで家へと帰れば良いだけだ。そうと決まれば――
『Grrr――――!!!!』
「っ!?」
逸れかけた意識が、背後で突如響いた咆哮によって引き戻される。
殆ど反射的に動いた身体が全力で横へと飛べば、直後類が立っていた場所に巨大な塊が振り下ろされた。持っていた袋は裂けて中身が飛び散り、類も粉砕された石畳の雨を受けながら地面を転がることとなった。
――礼装を纏うのが遅れていれば、今の一撃で自分は死んでいた
否定しようのない事実に心が凍てつく感覚を覚える。されど礼装のお陰か、その死の恐怖はモヤがかかったように瞬く間に消え去った。そうして転がった先で咄嗟に体勢を整え、すぐに顔を上げれば――目の前に現れた脅威に目を奪われた。
「ライオン……?」
唸りを上げる獣はライオンによく似た体型だ。だがその図体はライオンよりも何倍も大きく、何より細かい部分でおかしかった。
ライオンの胴体に生える黒いヤギ、そして大蛇の尾……伝説に伝えられるような"キメラ"の化け物がそこにはいたのだ。
今まで類たちが対峙してきた化け物といえば、骸骨の兵士や狼の獣人、猪の魔物といった小型なものばかりだった。数さえ少なければ類たちでもギリギリ対処できるような、言わば雑魚のようなものだ。
だが、目の前の化け物は違う。あの一撃は礼装を纏っていても受ければ確実に致命となっていた。
バーチャルシンガー達に匹敵せずとも、今の自分では絶望的な力量差のある怪物……それがあのキメラだったのだ。
この時点で類の中で相対しようという考えは消え失せていた。
生きて帰るために、彼は自分が出来る全力で生きるために動き出した。
『Grrr……』
【止まれ!】
『……!』
右手を銃のように見立て、人差し指をキメラへ向けて"唱える"
その途端、まるで金縛りにあったかのようにキメラが硬直した。
高杉たちから又聞きした魔術の中でも一番有用と思える"足止めの呪い(ガンド)"を、類が見様見真似で形にしたものだ。連射も出来ずクールタイムもあるが、こうして怪物を容易くスタンさせることは十分可能だ。最も、効力時間はそれほどないが……逃げに徹するなら十分である。
「今のうちに……!」
コートを翻し、商店街からの脱出のために駆けだす。不穏な気配が特に強い此処さえ抜け出せれば……そう類は考えていた。
『アオーン!!』
「なっ!?」
だが、その青臭い考えを許す者などいなかった。
不意に横の路地から黒い塊が飛び出したかと思えば、駆ける類へと襲い掛かったのだ。咄嗟に右腕を庇うように出せば、鋭い痛みと衝撃が走る。
【燃えろ!】
『ギャン!?』
先ほどのガンドと似た要領で言霊を紡げば、腕を噛んでいた狼の形をした化け物が発火を起こす。
セカイ式礼装の力を借りた魔術の真似事だが、この程度の雑魚なら十分ダメージを与えられる。右腕に浅くない傷を負ってしまったが、礼装の力で回復できる範囲だ。それよりも急がなければ……
『グルルル……!』
だが、類の行く手を阻む者はまだ存在していた。
その音が聞こえた前方へと振り向けば、複数の群れを為した狼たちが行く手を阻んでいたのだ。
いくら礼装で戦えるといっても、先に言った通り多勢には全く歯が立たないのが現状の類だ。使える魔術もどきだって単体のものしかない以上、この群れを即座に突破する方法は無い。
そして――
『Grrraa――――!!!!』
背後より響く、恐ろしい咆哮。
狼の足止めによって容易く呪いの効果時間は過ぎ、恐ろしい獣が動き出したのだ。
類が稼いだ距離などあっという間に埋められると、キメラが石畳を蹴って走りだす。逃げようにも前方が狼の群れで塞がれている以上、類は一歩を踏み出すことが出来なかった。
(何とか、しないと……でも、僕は――)
その一瞬の迷いは、戦場では確実に命取りとなる。だが彼がそうなってしまうのも無理はなかった。
そもそもたった数日前まで普通の高校生だった少年が、このような命のやり取りを行うこと自体が異常なのだ。礼装でも拭えないほどの恐怖に硬直した彼を、責める者などいなかっただろう。……最も、此処で死ねば責めてもらうことすらできないのだが。
死が音を立てて駆けてくる。
残り数秒の命となった時、彼は――
「……誰か」
"助けてくれ"
あまりにも遅すぎる言葉を、口から静かに零れ落とした。
「……ちょいとばかし遅すぎるが、まぁ良いだろう」
――そして、少年が落とした救援を拾い上げる"英雄"は、確かに此処に存在した。
それは一瞬の出来事だった。
『ギャオン!?』
『Gaaa――!!』
身構えていた痛みはどれも襲ってこず、その代わり獣たちの悲鳴じみた咆哮が夜を震わせた。それだけでなく、視界が一瞬白く染まれば"ダダダダダッ!" "ドゴン!"という乾いた音や爆発音と共に、白い横殴りの雨が狼たちへ――そして背後のキメラへと襲い掛かったのだ。
狼たちは瞬く間に蜂の巣となって倒れ伏し、またキメラも苦悶の声を上げて吹き飛んだ。
一瞬の間に起きた蹂躙劇を前に、類は自分の立場も忘れて呆気にとられる。放心しながらもその視線は"銃撃"が放たれた方へと向けられた。
「――――♪」
――音楽のないセカイだというのに、それは確かに"歌"の形をしていた。
場違いな鼻歌と共に、ガリガリと石畳を削る金属音が静寂に響く。月明りが無い暗黒の闇夜の中から、その人物――いや、"英霊"はゆっくりと姿を現したのだ。
「高杉、さん」
――燃える焔のような赤い髪をなびかせ、白い和装を纏った英霊が目の前から歩いてくる。鈍い光を放つ刀で石畳をなぞりながら、彼は鼻歌を奏でる余裕すら見せていた。
その人物……高杉晋作は、閉じていた瞼を開くと同時に、その紅の瞳をまっすぐに類へと向けた。
彼が助けに来てくれた。その安堵が張り詰めていた糸を緩ませ、類の止まっていた呼吸を再稼働させる。そして心の赴くままに、彼に声をかけようと――
「"まだ"だ」
英霊が静かに告げた言葉に、反応することなど出来なかった。
"それ"が発された瞬間にはもう、高杉晋作は地を強く踏みしめ疾走していた。類の傍らを嵐のように過ぎ去ったかと思えば、ガキン!と重い金属音が背後から響き渡ったのだ。
『Grrr――――!!!!』
獣の低い唸り声が聞こえると同時に、類は咄嗟に振り返る。
そこには血だらけのキメラの大口を刀で押し留める高杉晋作の姿があった。
「おいおい!あの量の弾を受けてまだ息があるとは、中々根性があるじゃないか!流石の僕もヒヤッとしたぞ!!」
暴力的な獣の牙を受け止めているというのに、高杉の顔には獰猛な笑みが浮かんでいる。
あるいは"狂気的"と例えても良いだろう。少しでも力を弱めれば喰われるというのに、その男の顔には死への恐怖というものがごっそりと抜け落ちていたのだ。
「だが、これはどうかな?――アラハバキ!」
不敵な笑みと共にそう呼び声を発すれば、突如として天より駆動音が響き渡る。
そのまま大きな影が暗黒の空に現れたかと思えば、真っすぐにキメラへと落下してきたのだ。
『Gaaa――!!』
絶叫と共にキメラは白い塊――プロトアラハバキに押しつぶされる。
先ほどの射撃で大ダメージを負っていたキメラでは、その機械から逃れるほどの力を持てなかった。それでもまだ息の根があるのか、必死にもがいて鋼鉄の巨人から逃れようとする。
「その生き汚さは褒めてやるが、こちらも時間が無いんでね。悪いが、此処で終わりにさせてもらおうか」
もがくキメラを前に、高杉が懐から何かを取り出す。まるで試験管のようなガラス瓶だが、その中では燃え盛る赤き光が煌めいていた。
それを不意に宙へと放り投げれば――
「――派手に燃えなァ!!」
炎宿るガラス瓶を叩き斬ると同時に、刀が熱く燃え盛る。その刃は真っすぐにキメラの脳天へと振り下ろされ――派手な火柱となって獣の身体を包み込んだのだ。
そのあまりの熱量と光を前に、類は反射的に顔を覆って目を瞑ることしか出来なかった。
……初めて彼を召喚し、あの白い巨人に助けてもらった時からそうだが、彼の戦い方はあまりに無法極まりすぎていた。歴史に伝え聞く"高杉晋作"とは思えない程に、その戦い方は並外れたものばかりだ。流石の類もこれにはちょっと引……ではなく、唖然とするしかなかった。
そうして派手な光が薄まり、類がようやく目を開けた頃にはすべてが終わっていた。
キメラは見るも無惨な黒焦げとなっており、絶命しているのは明らかだった。自分を殺しかけた相手だというのに、類が思わず罪悪感を抱いてしまったほどだ。
だが、その獣を弔う暇など類にはなかった。
「そらよっと!」
「うわっ!?」
ひょいとプロトアラハバキに飛び乗った高杉は、そのまま何かを操作したかと思えば、巨人の手を類へと伸ばした。そのまま呆気なくつかまれてしまえば、類もひょいと操縦席へ放り込まれてしまう。
「目的を果たせなかったのは残念だろうが、今日のところはさっさと退散するとしよう!芸事で稼いでるなら、部品の一つくらい失っても懐は痛まないだろう?また日を改めて買いに行くと良い!」
類の返答を待たないまま、白き巨人は空へと飛び出した。
騒ぎを聞きつけて集まりだした化け物たちを容易く振り払い、一直線に巨人は類の家目指して飛行していく。
眼下で流れる街の光景は、常時であれば己も興奮気味に見ていたかもしれない。しかし今の類にそれを楽しむ心など欠片もなかった。
(僕は……紛れもなく、死にかけた。彼が助けにきてくれなかったら、今頃は――)
――礼装を着たままでいたのは幸運だったかもしれない。
さもなくば、音楽や仲間を取り戻すという目的を果たす前に、自分の心に癒えない傷がつけられていたかもしれないからだ。
(僕は馬鹿だな……どうしてまだ"日常"に居れると思ったのだろう。自分なら大丈夫だと、そう思ってしまったのか……)
夜風を全身に受けながら、類は静かに目を閉じる。
機械人形の駆動音と風だけが聞こえる世界で、類は自分の愚かな選択を恥じ続けていた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「僕から言わせてもらえば、君は実に馬鹿だな。疑いようもない大馬鹿者だ」
「うっ……」
安全な自宅に辿り着いて早々、仁王立ちする高杉から直球で投げられた言葉に、類は呻くことしか出来なかった。
「まず散々"夜"の脅威を目の当たりにしたというのに、それでも君一人で出かけるところからして有り得ないぞ。大方、眠って魔力を節約していた僕に変な気でも使ったんだろう」
「それは……はい」
「はぁ……第一、眠って節約できる魔力なんてたかが知れているし、君を助けるために全力でアラハバキを動かしたから、収支で言えば大赤字だぞ。これで僕が本当に寝入ってたら、君のところに駆け付ける時の魔力も合わせてすっからかんになっていただろうな。僕が君を素寒貧にしなかっただけでも有難く思いたまえ」
普段こそ破天荒な類も、この時ばかりは正座で高杉の説教を受けていた。徹頭徹尾全てが正論であれば、その言葉を否定する理由は何もない。それでも、高杉のある言葉に少しの引っかかりを覚えた類は顔を上げた。
「その、高杉さん。"本当に寝入ってたら"というのは……」
「あぁ。流石にこの状況で完全に寝る僕じゃないぞ。この家だって本当に安全かはわからないし、警戒を怠って坂本君が寺田屋で遭遇したような事態になったら元も子もないからな。だがまぁ、まさか君が僕に黙って無防備に外へ出るとは思わなかったわけだが……」
「ま、待ってください。もしかして高杉さんは、僕が出かけた後もついてきてくれたんですか?」
「そうだぞ。霊体化してこっそりとだけどな」
燃える焔の瞳が類を見降ろしている。
それに射抜かれるような心地を覚えれば、類はただただ自分の失態を反省し、高杉の"気遣い"に感謝する他なかった。
「まぁ、僕から言わせてもらえば……君がギリギリまで僕に助けを求めなかったことが、一番気に入らないかな」
そんな中、高杉晋作は静かに言葉を零す。
そこに込められた不満の感情を感じ取れば、類は英霊に謝罪をするため深く頭を下げた。
「……本当に申し訳ございません。僕はある意味、貴方の力を侮るような行為をしてしまったと思います」
「…………」
「こんな状況なのに、僕はまだ"日常"にいる気分のままだったんです。敵対してしまったカイトさんたちに敵わなくても、それでも普通の化け物相手なら僕自身でも何とかなると思ってしまった。驕っていたと言っても良いでしょう。僕は確かに大馬鹿者です。だから……」
「君、やっぱりわかってないな」
類の謝罪を遮るように、その声は響き渡った。
類は内心焦燥にかられながら、高杉の言葉に応えようと必死に頭を巡らせ――
「……え」
ぽん、と頭に暖かい手が置かれる感覚に、思わず思考を奪われた。
そのまま恐る恐る頭を上げれば、そこには『やれやれ』といった表情で類の頭に手をやる"維新の英雄"の姿がそこにはあったのだ。
「マスター君……いや、神代類君。ここ数日君を観察していてよくわかったが――君、人に頼るのがド下手くそだろう」
そうして、唐突に高杉の口から飛び出した衝撃的な発言に、類は言葉を完全に失ってしまった。
「そ、れは……」
「ああ良い。皆まで言うな。君を見ているとどうにも"昔"を思い出すからな……まぁ、君みたいな存在に覚えがあるとだけ知っておけば良い」
ぽんぽんと類の頭を軽く叩けば、彼の手が離れる。そのままどかっと類の隣に腰を下ろせば、高杉は頬杖をつきながら類をじいっと見つめた。
「あの座長君も自慢していたが、君の頭脳は確かに凄い。散らばっていた図面や機械を一通り見させてもらったが、此処にある機械は所謂"エンタメ特化"とはいえ、僕が生産した機械に並び立てるほどだったぞ」
「え?それは、本当ですか?」
「ああ、本当だとも!この僕が褒めているのだから、その点に関しては胸を張ると良い! だがそれほどの頭脳があるというのに、君には足りないものが一つだけある。それが何かわかるか?」
高杉の称賛に喜ぶ暇もなく、類は突然難題を押し付けられる。
先ほどの高杉からの言葉を考えるなら『人に頼る力』かもしれないが、何故か類の中でその答えはしっくりこなかった。では一体何が足りないのか……類がその答えを探し出すよりも早く、高杉の人差し指がずいと類の眼前へと突き出された。そして――
「君に足りないもの、それは――"狂気"だ」
痛いほどの静寂の中で、その英雄は少年の欠点を突きつけた。
「……きょう、き?」
「ああ、そうだ。君は確かに時として狂気的に生きられるが、肝心な部分で妙な理性を働かせるきらいがある。召喚された時から薄々感じていたが、君は僕を"従者(サーヴァント)"でなく"英雄(ヒーロー)"として考えていたんじゃないか? だから妙に遠慮しがちで余所余所しいし、しまいには壁を作って一線を引こうとしていた。違うかい?」
「それは……」
否定できない。
実際、サーヴァントという強大な存在を前に、彼らに迷惑がかからないようにと無意識に思ってしまったことは事実だ。"魔力が足りない"という部分に意識が囚われ、理性が彼らを酷使することを咎めた部分もあるだろう。
「……良いか。この高杉晋作が、君に有難い忠告を聞かせてやろう。耳をかっぽじってよく聞くと良い」
そうして、狂気的に見えて理性という大きな枷を持つ少年を前に、その男は――少年と似た過去を持つ英雄は、力強く言葉を紡いだ。
「――理性に足を捕らわれるな。"そうしたい"思ったらそう行動し、"そうありたい"と願うなら遠慮なくそうすれば良い。その甲に刻まれた奇跡(令呪)だって、君が死ねば何の意味もないゴミだぞ。墓場にもっていけない程度の財なら、ぱっぱと早くに使い切った方がずっと得だ。どうせなら『令呪をもって命ずる。高杉晋作よ、僕の機械製作を手伝いたまえ~』くらいの願いでも良いんだからな」
彼の顕現と共に刻まれた赤き奇跡を"その程度"扱いし、維新の英雄はからからと笑う。
生前からして破天荒を極めた男にとって、理性的な考えなど一笑に付すようなものなのだろう。多くの人にとって眉根を寄せるような生き方ではあるが……この時の類は彼の在り方を見て、強い衝撃を覚えたのだ。
「僕の恩師の言葉を借りるなら……『少年よ、狂い給え』、だ」
そうして、火花のような一生を駆け抜けた英雄は、未だ道の途中にいる少年へその言葉を送った。
まるで破滅の道へと誘うような言葉でありながら、不思議と類の心の中にすとんと落ちるような……そんな清々しい助言だった。
それまで一枚壁を隔てた先にいると思っていた英雄が、自分の隣に腰を下ろして笑っている。その頼もしさと身近さを前に、強張っていた類の心が解けていくのも自然なことだった。
神代類というのは孤独に慣れすぎた人間だ。そして孤独を何より恐れる人間でもある。
失ってしまった繋がりを取り戻し、そして大切な人々を守るためなら、彼はその理性でもって何でもできてしまうだろう。時に自分を削ってでも、彼は大切な人たちを優先する。その生き方はすぐには変えられず、近い未来に仲間や英雄にまた苦労をかけさせてしまうかもしれない。
それでも……彼はこの時、確かに想ったのだ。
(……僕も、この人のように生きられるだろうか)
誰よりも自由に、破天荒に、我が道を突き進む狂気的な英雄――その男の生き様に、一人の少年が淡い憧れを抱いた瞬間だった。
「――さて、今日のところはさっさと休むと良い。礼装の力で治したとはいえ、結局包帯を巻く怪我が残ったことに変わりはないからな。そのまま学校に行って、あの座長君の大音量説教を間近で受けると良い。いやはや、流石の僕でも鼓膜が破れると思ったぞ……」
司の声量を思い出したのか、耳を庇うように塞ぎながら高杉がそう言う。
類の右腕には確かに包帯が巻かれており、解けば獣につけられた噛み跡が残っている有様だ。完治が出来ず誤魔化しも出来ない以上、司の追及と説教は避けられそうにない。だがそれ以上に"生きて皆と再会できる"事実があれば、類の心には自然と嬉しさの感情が溢れ出してもいた。
「……わかりました。おやすみなさい、高杉さん。僕が寝ている間はよろしくお願いします」
「あぁ、安心すると良い。今日は君にこれ以上傷はつけないさ」
手をゆるく振れば、高杉は立ち上がると同時にその姿をかき消した。霊体化したことで彼の気配が消えれば、類はそのまま疲れた身体を引き摺って、ソファベッドへと倒れこむように寝転がったのだった。
――これは、後に狂気を纏って駆け抜けることとなる、二人の絆の物語。
孤独を嫌って一人で為そうとした男と、孤独を受け入れ諦念と共に生き続けていた少年が、大切な仲間の為、互いに肩を並べて破天荒に戦場を駆け抜ける日も、そう遠くはない。