少年と鰐

少年と鰐


今日はよく晴れていた。東の海のとある小さな村で、夏の終わりを感じさせるような風が吹く中、少年はずっと走り回っていた。

何か理由があったわけではない。少年にとって、それは日常であった。手頃な棒を手にしては振り回し、誰もいない海辺で足を海水に浸しながら、濡れた砂に残る足跡が打ち寄せる波で消えるのを喜ぶ、普通の少年であった。

その日も少年は遊んでいた。一人で遊ぶことに寂しさはなかった。いつものように、裸足のままで砂浜を走っていた。ただし、少年は、いささか辺りに気を配っていなかった。母親からきつく言いつけられていたにも関わらず、少し遠くへ行き過ぎてしまった。

少年の住む家から少し離れた場所には、誰も近づかない古い屋敷がある。以前の主人が亡くなってからは誰も住んでいないその屋敷に、数週間前、新たな住人が訪れた。少年は新しい住人について知らなかったが、母親は「恐ろしい人」だと少年に話した。行ってはいけない、危険だと何度も言っていた。

しかし、無垢な少年にとって、禁止されることはすなわち甘美な体験と同義であった。少年は母親の言いつけをやぶることに、背筋がさわさわと羽で擦られるようなこそばゆさを感じた。自分がここから帰ることが出来ないかもしれないという恐怖よりも、この先何があるのかを見たい好奇心が勝っていた。

屋敷は、浜辺からほど近い場所にあった。周囲を椰子の木が囲んでいるせいか、薄暗い雰囲気をまとってはいたが、隙間から差し込む光は柔らかかった。少年は、手に持っていた棒を捨てると、そっと屋敷の近くへと歩き出した。

どんな人間が住んでいるのか、少年は気になっていた。だが、大きくそびえ立つ重厚な扉をノックし、中に踏み込む気には到底なれなかった。少年は屋敷の周りをぐるりと一周すると、ちょうど光が差す場所に、大きな窓があるのを見つけた。

少年は背が高いわけではなかったが、その窓は少年が思い切り背伸びをすれば、辛うじて目元が届くくらいの高さにあった。近くを探すが、踏み台になるような岩はない。少年は胸の中に例えようもない高揚感を抱えつつ、窓枠に手をつくと、背伸びをして窓の中を覗き込んだ。


人間が二人は優に座ることができそうな広い椅子に、誰かが腰掛けていた。少年は慌てて頭を引っ込めたが、恐る恐るもう一度中を覗くと、その人物の視線がこちらに向いていないことに気がついた。

少年から見えたのは横顔だった。真っ先に目に飛び込んできたのは、顔を真一文字に横切る傷跡であった。歪なそれは、少年がいつか読んだ童話の中の、継ぎ接ぎの化け物を思い出させた。しかし、不思議なことに、少年はその傷跡に何も怖いとは思わなかった。

椅子に腰掛けていたのは、男だった。撫でつけられていた黒髪がやや乱れ、ひと房、額の方へと垂れていた。男は目を閉じ、背もたれへと体重を預けていた。左手は隠れて見えなかったが、右手は腹へと伸びていた。

冷たく見える横顔が、腹をさする時にほんの少しだけ綻んだのを、少年は見てしまった。その時、少年の脳裏に、妹を腹に宿していた母親の面影が浮かんだ。早く生まれないかな、と母の周りをちょこまかと動き回り、だんだんと膨らむ腹に手を当て、たまに伝わってくる衝撃にいのちの重みを感じていた記憶は、まだ少年の中に鮮明であった。

だが、目の前にいるのは、どう見ても男である。少年はまだ幼かったが、子供を産むことができるのは女だけであることは理解していた。しかし、少年は、この男がそう遠くない未来のうちに母親になることを、本能のような何かで掴んでいた。

窓ガラス越しに見える光景は、少年のまだ初恋も迎えていない純な心をかき乱すのには、十分なほどだった。心臓を素手て掴まれたような痛みと、体の芯からふつふつと沸き立つ熱の正体を、少年は知らなかった。いつか見た天使の絵画のような、触れてはならぬ世界がそこにあった。少年はごくりと唾を飲み込んだ。

数分か、数時間か、とにかく短くもあり長くもあるような間、少年は窓の傍に立ち尽くしていた。はっと正気に戻ったのは、ずっとつま先を立てていた足の痛みが、ふと気を抜いた時に襲いかかった時だった。

少年は慌てた。自分が何か、いけないものを見てしまったということは分かった。だが、自分が見たものを、人に教えたくないという欲も混ざっていた。あの横顔を、腹を撫でる手を、自分だけが知っていればいいと思った。

音も立てず砂浜を駆ける少年を、潮騒が包み込んでいた。

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