審議ランプ、点灯

審議ランプ、点灯

(ダメダメなトレーナー視点。彼女の出番ほんのちょっと。担当ウマ娘たちは全員架空。みんなさびしい話)


まずい。やらかした。

僕は数十分前、もっといえば数時間前、果ては何も気づけなかった今までの自分を殴り殺したくなった。

無能にも程があるってものだろう。


昨日のシリウスステークスで僕の担当ウマ娘が優勝してくれて、今日は久々に恋人との食事。

今までの人生で最高の週末になる筈だったのに自分のせいで台無しだ。

鞄に入れていた箱を取り出してため息をつく。

中身は渡すはずだった婚約指輪。一応、彼女の好みは調査済みだけど心配だったので後から石を入れられるタイプのものにした。

こんなことになってしまったから渡せるのは当分お預けだろうけど。


今日は彼女の誕生日。

夏合宿が終わってすぐにレースの調整に入ってしまって、三ヶ月もろくに会えなかった彼女とデート。

二ヶ月前から予約をしていた海辺のホテルのレストランで、僕は彼女にプロポーズをする。

食事を終えたタイミングでポケットから指輪の入った箱を取り出して、結婚して下さいと言うのだ。

そして二人で夜景を見ながら散歩して、これまでのことやこれからのことを話す。

その後、どこかの休日で彼女のご両親へ挨拶に行く。重賞制覇でウマ娘競争に詳しくない人相手にでも胸を張ってトレーナーと名乗れるから、きっと彼女に相応しい男だと思ってもらえるだろう。

なんて考えていたのだが。





昨日のレース、担当ウマ娘が優勝した。勝機は十分だとは思ってたけど本番に弱いところがある子だからやっと努力が報われてくれて嬉しかったし安心した。

夜のライブ、担当ウマ娘のセンターにサイリウムを振り回してチームの皆とはしゃいだ。

ライブが終わってホテルに戻るとトレーナー仲間に捕まってお祝いに奢られて、あんまりにも喜んでたから酒量はセーブしたものの少し遅い時間まで飲んでしまった。

翌日、見事に初の重賞を獲得した英雄ウマ娘とチームの皆、応援に来ていた親御さんたちと一緒に祝勝会。

帰る前にちょっとだけ遊びたいと言う教え子たちを見送って、今回重賞をとったウマ娘とその親御さんと話をした。

そして新大阪駅で皆と合流。新幹線の発車時刻ギリギリまで親御さんとの別れを惜しむあの子を、まだ子供だものなぁ、と見守りながら能天気にこれからの予定のことを考えていた。

要するに浮かれすぎ。気の緩みすぎだ。

だから気づけなかった。

あの子がどれだけ我慢を押し殺して両親に笑顔を浮かべていたかを。

ドアが閉まる直前に駆け降りて、そのまま両親に抱きつき、わんわんと泣いているあの子を僕は動き出した新幹線の中から呆然と見送った。


まだ中等部の女の子が、親元を離れて厳しい勝負の世界に身を置いている不安と孤独は理解していたつもりだった。

だからメンタルケアにはずっと気をつけていて悩みを相談して貰える関係を作ってきたつもりだし、休日には一緒に遊びに行ったりしてストレスをためないようにしていた。

あの子もレース結果に落ち込むことはあったが強気な性格で、大抵は明るく笑っていたし、あの子のお母さんがたまに学園まで会いにきていたから安心してしまっていた。

情けない。

何も知らずに今日、ご両親とお茶をしながら心配するご両親に学園で元気で過ごしてますよと言ったバカなトレーナー。

あの子に本当は両親に会えなくて寂しいのだと打ち明けてもらえる関係じゃなかった。

そりゃあ、僕ができるのはあの子のお母さんが東京まで来れる日に丸一日お休みを作るくらいだけど。

それでも教えて欲しかったな。

あんな風に大泣きするまで我慢させてたのも知らなかったなんて、大人として本当に情けない。

僕は慌ててLANEですぐに新大阪駅に引き返すとあの子の両親にメッセージを送り、教え子たちに自分は次の停車駅で降りると伝える。


「トレーナー!私たちも一緒に戻るよ!」

「そうそう。ほっとけないもん」

「いや、君たちは先に帰っていてくれ」

「でもっ!」


仲間思いの優しい子たちが揃った結束の強いチーム。

特にあの子は一人だけ中等部の最年少で、チームメイトは妹の面倒を見るように可愛がっていたから心配も一層だろう。


「今から引き返してあの子と話をしてたら遅くなってしまうだろう?すぐに落ち着くとは限らないし」

「少し話すだけでも……」

「遅くなりそうだったら私たちだけで帰るから」

「ダメだ。余計に認められない。遅い時間に学生の君たちだけで帰らせることはできない。それに帰る時間が遅くなったら体に影響する」


強い語気で否定すると口々に心配の声をあげていた教え子たちは口ごもった。


「でも、私たちだって心配なんです」

「何かしてあげたい……」

「きっとあの子も君たちに迷惑をかけたくないからギリギリまで平気そうに振る舞っていたんだよ。だから帰ってきたときにいつも通りに接してあげればそれで十分だ」

「……じゃあ私たちまで巻き込んで遅くなったらダメか」

「トレーナーはどう話すの?」

「大丈夫。ちゃんと連れ帰ってくるから安心して学園に戻ってくれ」


どう話すかは正直無策だ。顔を見て、話を聞いてみなければ考えもまとまらない。

それでも安心を与えられるようにゆっくりと話せば、トレーナーがそう言うならと教え子たちは座席に戻ってくれる。

しかし、一人だけ耳をピンと立たせて僕の前から動かないウマ娘がいた。

最古参でチームリーダー。いつもチームを支え、未熟な僕を助けてくれるその子は僕を強い意志を感じさせる瞳でまっすぐと見つめていた。

長い付き合いだ。何を言いたいかなんて聞かなくても分かる。


「皆と一緒に帰りなさい」

「いやです」


そこから先は押し問答。理詰めで説得しても感情に訴えてもその子は一歩も引かなかった。次の停車駅が近づいてもその調子で、見かねたチームの子たちが僕のところにやってきて皆で連れて行ってあげてくれとお願いした。

結局僕が折れることにしたのは、その子の頑固さがまた一人ウマ娘が新幹線を飛び降りそうだと思わせるほどのものだったからだ。最古参の彼女がいれば安心だと微笑むチームメンバーたちに、僕一人じゃそんなに頼りなく思えるのかなぁとちょっと落ち込んだ。


「ごめんなさい。トレーナーさん。わがまま言って」


逆方向の新幹線が動き出してほどなくして無理矢理ついてきた教え子が謝った。真面目な子だから要望を叶えてもらった後になって大変なことをしてしまったと反省しているのだろう。


「いや、いいよ。あの子にはどうしても自分が必要だと思ったんだろう?」

「えっ、あ、あの!トレーナーさんだけじゃダメって信用してなかった訳じゃなくてですね、同じ立場だから言えることがあるんじゃないかって……」

「大丈夫。分かってるよ。君はリーダーとしていつもチームメイトのことを考えてるから。学園に帰るときにはそばにいてあげたかったんだよな」

「はい。あの子、寂しがり屋なのに格好つけて一人で抱え込むところがあるから……、でもそれを知ってたのに、気づいてあげれなくて……」

「自分を責めないで。君はよくやってるよ」

「……私は、自分を責めてるんでしょうか?ただ、チームメイトなのに教えてもらえなくて、分かってあげられなかったのが寂しいんです」

「うん。そうだね。皆も同じ気持ちだろう。だけどあの子は君のことが大好きだから心配をかけまいとしていたんだと思うよ」


逆方向の新幹線に乗り換えてからずっと暗い顔をしていた教え子はようやく顔をあげた。


「トレーナーさん、ちゃんと連れ帰って、皆を安心させてあげましょうね」

「ああ!……参ったな。僕の台詞をとられちゃったよ」

「ふっ、ふふっ。トレーナーさんったら」


おどけるように肩をすくめた僕に笑ってくれた教え子の様子にホッとする。

そこでちょっと肩の力が抜けた僕は大切なことを思い出した。


「あっ!」

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもないよ。ちょっと連絡を忘れてたことがあってね」


あの子がすぐに泣き止んで、帰りの新幹線に乗ってくれたとしても彼女との約束の時間には間に合わないだろう。元々担当ウマ娘たちとは東京駅で別れるつもりだったが、こんなことが起きたなら学園の寮まで見送らなくてはならない。

僕はLANEで彼女に今日の約束は果たせないことを伝えると、すぐに既読になって返事がきた。


『ごめん。今日のデート、行けなくなった』

『何かあったの?』

『ちょっと僕の担当が久々に会った両親と離れたくなくて泣いちゃって。もうレストランの予約の時間には間に合わないと思う』 

『それは大変だ!』

『君の誕生日を祝いたかったのに。本当にごめん』


どれだけ僕がデートをすっぽかしたことを申し訳なく思っていても、メッセージはたった二行で終わってしまう。

気持ちを伝えきれないもどかしさで僕に文豪の才能があれば、とないものねだりをする。もっともこの後悔は文豪の文章力があっても書ききれる気がしないものなのだけど。


『早い連絡ありがとう。私のことは気にしないで大丈夫だよ!今の時間なら友達に連絡すれば誰かつかまると思うからね。あなたがくれた誕生日プレゼントのフランス料理はちゃーんと楽しんできます』


連続して二つ送られてきた面白い表情でおどける謎の生き物のスタンプに、悶々としていた心が和む。

彼女には頭があがらないなぁとしみじみ思った。


「トレーナーさん、大丈夫でした?」

「ん、ああ。大丈夫だよ。わかってもらえた」

「そういえば、今日は東京駅で解散の予定でしたよね。何か用事があったんじゃ」

「うん。でも問題ないよ。あの子には黙っててね。知ったら気にするだろうから」

「はい。わかりました。内緒ですね」

 

二人で新大阪駅に戻ったが、結論から言えばあの子を連れて帰ることはできなかった。

一度、強がりで固めていたものが崩れてしまっては、すぐには元に戻らない。

新幹線の窓越しにご両親に抱きついているのを見てから三十分ほど経っているのに、あの子はほとんどそのままの姿勢でいた。

あの子の両親は優しく抱きしめて慰めていたが絶対に離れないというようにあの子は耳を後ろに絞って、更に力強くしがみつく。

僕が慰めてもいつも世話を焼いていたチームリーダーが慰めてもお母さんと離れたくない、帰りたくないと泣き止まなかった。注目を集めるからと、ひとまず場所を変えるのにも一苦労で。

どうしますかと困った顔を向けてくる最古参の彼女に、僕は横に首を振った。

ウマ娘の彼女なら、泣きながらお母さんの隣に座っているあの子を無理矢理立たせて新幹線に乗せることも可能だろう。だけど、それはしてはいけないことだと思った。

僕とご両親との話し合いの結果、あの子には今日は家族三人で一緒に実家に帰ってもらうことにした。

あの子の頭を撫でて、たくさん甘えてきなさいと言えば、あの子は大きく頷いた。そして涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でごめんなさいと謝っていた。


「大丈夫でしょうか……」

「大丈夫だよ。あの子のご両親も言ってたじゃないか。だから、大丈夫」


帰らないの一点張りで、最後にはもう重賞をとったのだから学園を辞めたいとの発言まで飛び出したから、彼女にはショックだっただろう。

隣で不安そうな顔をしている教え子に笑いかける。安心してほしかった。


『大丈夫ですよ。この子はレースも学園も、あなたたちのことも大好きですから。一度吐き出せたなら泣き止んだときにトレセンに帰りたいって言い出しますよ』

『頑張るのが嫌になっちゃったんじゃなくて少し寂しくなっちゃっただけなのよね?』


あの言葉は不思議なほど僕の胸に残った。僕の直観がその言葉が正しいと言っている気がしたのだ。

きっとご両親の言う通り、あの子はまた笑って学園に通うだろう。

それまでにあの子が寂しさに負けずに頑張れるようになるために何をしてあげられるか考えて、迎えに行こう。


「うわっ!?もうこんな時間!?」


僕は電光掲示板を見てつい大声を出してしまう。帰りの時間が心配で急いでスマホで帰りの経路を調べた。

この時間だとトレセン学園に帰れるのは十時半くらいだ。

教え子は大げさにうろたえる僕が面白かったのか尻尾を高く振りながら笑って許してくれたが、これはトレーナー失格だ。

ウマ娘全員が規則正しい生活を送れるように気を配らなくてはいけないのに、あの子のことに気を取られて隣でフォローしてくれようとしたこの子の睡眠時間がどのくらい響くのかを失念していた。

就寝時間は遅れるが、夕食は新幹線の中で食べればいつも通りになる。

駅弁を選んでいるウマ娘を視界に留め置きながら学園に連絡を入れて、次に彼女へ電話をかけた。

2コール目で電話は繋がり、明るい声がスマホから聞こえてくる。


「もしもし。今、大丈夫かな」

「うん。大丈夫だよ。電話かけてきたってことはそっちの問題は一区切りついた感じかな?」

「うん、一応はね。今日はご両親と実家に帰ることになったけど」

「そっか。おつかれさま。がんばったね」

「ごめんね。約束すっぽかした上に心配までかけて」

「気にしないでいいよー。トレーナーはウマ娘を一番に考えてあげないと、だよね?」

「うん……ありがとう」


トレーナーの先輩方だったらウマ娘を優先したとしても彼女とのデートくらいはちゃんとできる筈なんだ。

こうやって皺寄せが誰かに及ぶ度に自分の至らなさが身にしみる。


「大丈夫。私の方はレストラン一緒に行く子見つかったから楽しんでくるね」

「そっか。ならよかった。それと、さ……明日は月曜だっていうのに申し訳ないんだけど」


今から東京行きの新幹線に乗って、トレセン学園まで担当ウマ娘を送っても日付が変わるギリギリ前に彼女のマンションに行ける。

いつも8時過ぎの電車に乗って会社に行く彼女は、日付が変わる頃にようやくベッドに入ることもままあるから、指輪はもう渡せないけど誕生日おめでとうと言って帰るだけなら許されるんじゃないか。

約束をドタキャンしておいて就寝間際に押しかけるのは気が引けるけど、どうしても彼女の特別な日に会って、ただ一言でいいからおめでとうと言いたい。


「誕生日おめでとうって直接言いたいから、君のマンションに行ってもいいかな?教え子を一人、寮まで届けないといけないから部屋につくのは日付が変わる10分前くらいになっちゃうんだけど」


電話口の向こうで彼女が息を飲んだ気配がした。

戸惑っている彼女に構わず続ける。


「えっ、でも……」

「明日は月曜だし、泊まらないし部屋にもあがらないから。本当にお祝いだけ伝えたらすぐ帰るから」

「来るのはいいんだけど、あなたが寮に変える電車がなくなっちゃうよ?泊まって行ってもいいけど明日も朝練があるんでしょう?眠る時間がなくなっちゃう。体壊しちゃうよ」

「大丈夫。君に会えたら元気になるから」


朝練に間に合うように彼女の家を出るなら早朝に起きなくてはならないのがちょっとつらいが、そこは根性でなんとかする。

彼女は少し黙っていたが、電話の向こうで仕方ないなぁというようにふっと息を吐く音が聞こえた。


「いいよ。来て。私も会いたかったから」

「ありがとう!じゃあ行くよ。またあとで」

「待ってるね。気をつけて」


やっぱり君も会いたいって思っててくれたんだね!

そう言ってもらえただけで疲れが吹っ飛んだ気分だ。

通話を終えると教え子の方も駅弁を買い終わったようだ。

ビニール袋を両手に下げてこちらを見上げていた。


「トレーナーさんの分のお弁当も買ってきましたよ」

「ありがとう。先に帰った皆はもう学園ついたってLANE来てたよ」

「そうですか。じゃあ私たちも行きましょうか!」

「おいっ。走っても発車の時間は変わらないぞ」

「こっちですよーっ」


走り出した教え子を追いかけて、僕は新幹線に乗りこんだ。


なぜかトラブルが重なる日っていうものがある。

間違えて逆方向の新幹線に乗ったと気づいたとき、僕は心臓が止まった。

乗るはずだった新大阪駅発18時57分の東京行き。

教え子を追いかけてホームにのぼり、意外と時間に余裕があるなぁと座席に座って一息ついていたところで新幹線が動き出す。

だが、新幹線のアナウンスから聞こえてきたのは次は新神戸駅と伝える声。

汗はドッと噴き出てるのに身が凍るようで、震える手で時間を調べ直せば次の駅で降りて、東京に折り返すと学園に戻れるのは11時過ぎになるらしい。


「すまない。本当に申し訳ない」

「い、いいんですよ。トレーナーさんは謝らないでください。間違えた新幹線に乗り込んだのは私なんですから」

「いいや。確認せずに乗って、アナウンスも聞き逃してた僕のミスだ」

「いえ、本当に私が悪いんです」

「君は悪くないよ。子供がこういうミスをしないように大人が監督してるんだから」

「…………」

「電話しないといけないから、デッキに行こうか」


通話ができる新幹線のデッキに向かって、帰る時間が遅くなったと学園に訂正の電話をする。

その数歩後ろで、教え子は固い表情でこちらを見つめていた。責任感の強い子だからまた自分を責めているのだろう。

乗り間違えたことに僕より先に気づいたこの子は新幹線の扉が閉まってからずっと耳をバラバラの方向に動かして不安そうにしていた。


「学園に電話をしてたんですか?」

「ああ、もう寮のドアは閉まってるだろうから帰る時間は伝えておかないとね。また電車間違えて遅れるなよって叱られちゃったよ」

「そうなんですか……さっき、私が駅弁を買ってるときも連絡してたんですね」

「ああ。僕の分のお弁当も代わりに買わせてすまなかったね」

「いいえ。ご馳走になるんですからこのくらいはっ」

「ありがとう。助かるよ。そういえば何を買ったの?」

「え、えっとですね!」


教え子は気まずさを誤魔化すように駅弁について話し出した。

だが耳がぺたんと寝ているままなのがかわいそうで、申し訳なかった。






ここまでが数十分前。

そして話は冒頭に戻る。

僕たちは新神戸駅で降りて今度こそ東京行きの新幹線に乗り、夕食の駅弁を食べた。食事が終わると教え子は眠ってくれて、ようやく一人で落ち着ける時間ができた。

そしてこうして後悔の真っ最中という訳だ。

鞄に指輪の箱を仕舞って、彼女とのLANEが開きっぱなしのスマホに触る。


『ごめん。本当にごめん。間違えて逆方向の新幹線に乗ってしまって日付が変わる前に会いに行けなくなった』


なんとか彼女の住む街への電車は残っているが、学園に帰ってから彼女のマンションに向かえば到着は午前1時。

当然彼女はもう寝てる時間で、僕は朝練のために彼女が起きる時間より前にマンションを出なければならないからお邪魔しても彼女の安眠を妨げるだけだ。


『あらら……ドンマイ。疲れてるんだよ。今日はちゃんと担当の子を送り届けたら寮に帰ってゆっくり休んでね』


メッセージに添えられたちゃんと寝なさい!と怒っている謎の生き物のスタンプ。

ふっと頬が緩む。

僕はメッセージなんかじゃどうやっても謝罪の気持ちが伝わらないと悩んでいたのに、彼女はたった三行とスタンプ一つでこんなに上手に優しさと労りの気持ちを届けてくれる。

長い顔の額から鼻先まで続いている白い模様が特徴のよく分からない生き物を見ていると、じんわりと温かいものが込み上げてくるようだった。

だからこそ、こんなに優しい人をぬか喜びさせてしまった自分のどうしようもなさが嫌になってしまう。

今日だけで二回。しかも一回は少し気をつければ気づけたような簡単なミス。

言い訳をするつもりはないが彼女の言う通り疲れているのかもしれない。

昨夜はお酒はちゃんと飲みすぎないようにセーブしてたつもりだけど時間としては少し遅い時間まで飲んじゃってたし。レースが終わるまでは気を張り詰めていたし。

考えれば考えるほど自分の未熟さを思い知る。

トレーナーとしてウマ娘を指導する立場なのに自己管理もできないし、男としては彼女とした約束も守れない。

優しさに甘えてばかりいないで、ちゃんと彼女に相応しい彼氏になりたいと思って努力してきたんだけどな。

と、いけない。

僕はパンッと両頬を叩いた。

ネガティブになっていても理想から遠のくだけだから、せめて態度だけでもシャッキリしないと。

それにこの言葉は感謝と祝福だけを込めて伝えたい。

気を取り直して僕は誕生日おめでとうとお祝いの言葉を入力した。


「あっ」


送信ボタンをタップする前に彼女がメッセージを送ってきた。


『もう待ち合わせの子が来るから返信できないかも。先におやすみなさいって伝えておくね』


「あああぁ……」


タイミングの悪さに頭を抱える。つくづくうまく行かない日だ。

僕は送信ボタンをタップした。


『誕生日おめでとう。君の大切な日に直接会って言えなかったことが悔しいよ。大好きだよ』


君にとってのこれからの一年がいいものになりますように、とまで打ち込んで文字を消去した。

これは祈るんじゃなくて僕がそうしなきゃいけない。


「トレーナーさん……」

「あっ、ごめん。起こしちゃったかな」

「いえ、大丈夫です。えーと、お茶をください」


教え子は受け取ったペットボトルのお茶を少しだけ飲むとまた眠った。

僕は新幹線に乗っている間、スマホの画面を見つめていたが僕たちが学園に帰っても送ったメッセージは既読にはならなかった。

そうだよね。

急な誘いに応じてくれた友達と食事をして、せっかく遠出したんだからとちょっとぶらついて、帰って明日の準備をする。もしかしたら誕生日だからとちょっとお酒も飲むかもしれない。

そりゃあ、通知で気づいていても後回しにしたくなる。

LANEの返信が面倒臭くなるような誕生日を彼女が過ごしていてくれるなら、きっとそれはいいことだ。

学生寮の入り口で教え子に別れの挨拶をする。

言うまでもないが事前の届出もなくこんな時間まで生徒を連れ出したことをたづなさんに守衛さんにと物凄く怒られた。

明日は始末書を書いて、寮長のウマ娘にも怒られるだろう。


「じゃあおやすみ。君は明日の朝練には出ないでゆっくりするんだよ」

「分かりました」

「こんな時間まで本当にごめんね。それと、あの子のためありがとう」


教え子は悲しそうな、困ったような目をして微笑んだ。このお礼をどう受け止めていいのか分からないのかもしれない。

きっと、この教え子は連れて帰ることができなかったあの子のことが今も気がかりなのだ。


「ごめんなさい、トレーナーさん。もうあんな風にワガママ言ったり、間違えたりしませんから」

「いや、いいんだ。君は悪くないよ」

「……それでもです。ごめんなさい。トレーナーさん」


教え子は深々と頭を下げた。

その神妙な顔には何を言っても無駄な気がして、早く寝るんだよとそっと肩を叩いた。


まったく、今日は大変な一日だった。

学生寮に背を向けた僕はトレーナー寮へ向かう道の途中で足を止めた。

僕はこのまま部屋に戻ってベッドに入って眠る。

明日も7時から朝練があって早く寝ないと支障が出るかもしれない。彼女にもゆっくり休めと言われている。

合鍵を使ってこっそり入っても寝顔が見られるだけで、寝ているところに起こせないから話だってできない。

なのに再び歩き出した僕の足はトレーナー寮ではなく駅へと向かっていた。

彼女に、僕の恋人に会いたい。

寝てる時間にやってきて、起こすなんて迷惑はかけたくない。でも、せめて寝顔を見るだけでも。

そう考えていた瞬間、ポケットに入ってい?スマホがLANEの受信を告げる。

彼女かと思って素早く取り出すと、泣いていたあの子からチームのみんなに送られたメッセージだった。


『今日はみんなに心配と迷惑をかけてごめんなさい。学園には明日の午後戻ります。お父さんとお母さんと会えないのは嫌だけどやっぱり走るのもみんなのことも好きだから一緒にがんばりたいです。明日からまたよろしくおねがいします』


ああ、よかった。本当によかった。

あの子の両親の言った通りだった。

泣いて、吐き出して、また頑張ろうと戦う気持ちになったのだ。

安堵しているとチームの子らも気になっていたのか続々と既読がつき、返信でマナーモードのスマホが震えっぱなしになった。

おいおい、夜更かししすぎだぞ。

これは明日の朝練の時間を遅らせた方がいいかもしれないと考えながら僕もあの子にメッセージを送る。


『また一緒にがんばろうな。待ってるよ』

『はい!』


あの子は一言だけ、元気のいい返事をしてくれた。

心配していたあの子が明るさを取り戻してくれたことに気分が上向いた僕は、足取りも軽く電車に乗り込んだ。


そして日付が変わる一分前、スマホがメッセージの受信を伝えた。

今度こそ彼女からだ。

恐らく返信しなければと思いながら友達と遊んで帰ってきて、眠る直前にやっと落ち着いてスマホを見れたのだろう。

いつの間にか僕が送信した誕生日おめでとうというメッセージには既読がついている。


「夜景撮るの下手だなぁ」


遊び疲れたのだろうか、僕以外には肩を寄せ合って寝ている大学生のカップルしかいない車両で一人言を呟いた。

彼女のメッセージにはぼやっとした夜景の写真もついている。

今度は絶対に僕も一緒に夜景を見よう。


『ありがとう。あんまり気にしないでね。直接おめでとうって言ってもらわなくたって大丈夫だよ。あなたのおかげで綺麗な夜景を楽しめたからね』

『いつも気遣わせちゃってごめん』

『いいんだよ。トレーナーはウマ娘の未来を背負う大事な仕事だってわかってるから、ちゃんと見てあげないとね』


がんばれ!と言いながら暴れる変な生き物のスタンプがぽんと画面に現れる。

ありがとう。

仕事はまた明日から、ちゃんと頑張るから少しだけ元気をもらってもいいかな。

合鍵でこっそり部屋に入って、寝顔だけ覗いて帰るなんて気持ち悪がられるかもしれないけどどうしても顔が見たいんだ。

気にするなって言うけど、そんなの無理だよ。クリスマスイヴも一緒にいられない男が何を言ってるんだと思われるかもしれないけど、僕は僕のために君の大切な日を一緒に過ごしたかった。

だって会えないと寂しいし、ちょっと不安になる。

彼女は素敵な人だから僕の知らない間に誰かの心を奪ってるんじゃないかとか、他の男の人に取られてしまうかもしれないとか。そんなことあるわけがないって分かっていても、一旦考え出すと止まらない。

いつも笑って許してくれるのが実は彼女にとっての僕は大したことじゃないからなのでは……なんて。

会えなくても許してくれる彼女に甘えてばかりなのに、彼女にも同じだけ寂しがって、僕に甘えて欲しいなんてワガママ過ぎるよな。

僕はマンションにつくまで彼女のくりっとした目を隠す瞼のことや、寝息を立てる小さな鼻のこと、サラサラした髪のことを考えた。


音を立てないように慎重に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。

そっとドアを開けるとダイニングの椅子にかけられた細かい刺繍がされているレース生地のドレスが、オレンジ色の照明に照らされていた。ちゃんとハンガーにかけていないから、これは帰ってくるの、結構遅い時間だったかな?

おしゃれした彼女の姿を見逃したことにがっかりしながら薄暗いリビングを通り抜けて寝室を目指す。

ふと、リビングのゴミ箱の中に捨てられたウマ耳のカチューシャと紙切れが目に入った。

ゴミ箱にそれだけしか入っていないから目立ったのだ。

このウマ耳は彼女が家でレースの中継を楽しむときにたまにつけているもので、大学時代はそういうプレイにも使ったことがある。

最近はめっきりそういうことはしてないが彼女の寝室のクローゼットにはメイド服とかナース服とか、メジロマックイーンの水着風衣装とかがしまってあることだろう。トレーナーになった癖に当時学生のメジロマックイーンをそういう目で見てたのかとは言わないでくれ。あの頃は若かったんだ。


「間違えて落としちゃったのかな」


それとも一見問題がないようだけど、どこかにヒビでも入ったか。

僕はゴミ箱からウマ耳カチューシャを拾い上げた。するとカチューシャに引っかかってひらりと紙切れが床に落ち、それがレシートだったことに気づく。

一番上には見覚えのあるロゴがあって、このレシートはあのホテルのレストランのものだと分かった。

この食事代は僕が出さなければと思ってレシートをチェックする。


「えっ……?」


レシートには一人分の料理しか記載されていなかった。

理解ができなくて頭が真っ白になる。

だってレストランに一緒に行く子が見つかったって明るい声で言っていた。

夜景を楽しめたと写真も送ってきた。


「……っ」


見つめた寝室のドアの向こうで彼女は眠っている。

開こうと思ってたドアが鉄の塊のように重く見えた。



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