寂しさについて
ゾウに到着して二日後のことだった。ローは酷い熱を出した。
「医者の不養生とはこのことね⋯⋯」
「いいからもう寝てろ。疲れが出たんだよ」
長年計画してきたドフラミンゴ失脚の成就。そのまま他人の船でゾウまで航海したせいで疲労がピークに達したのだろう。
複数の能力者の協力もあって全快したとはいえ、一度は右腕が取れて腹に鉛玉を撃ち込まれている体だ。いくら治癒していたとしても、心がキャパオーバーを起こすのは何らおかしくなかった。気心知れたクルーとも合流を果たせて、やっと気が緩められるタイミングだったのだ。むしろこうして体が限界を訴えただけマシだった。
「でも早くワノ国に行かないと……」
「どのみち時間は必要って話し合ったろ?ワノ国に着いたらゆっくりも出来ないんだからここで癒しとけ」
過労による発熱だという。一晩経てば熱も下がるだろうという見立ては優しい声をしたヤギの医者によるものだった。
「お前のクルーも、お前が元気じゃなきゃ気が気じゃなくて航海どころじゃねェよ。元気になるのが今のお前の役目」
布団を肩までかけてやる。とにかく静養が必要だとくじらの森にある家屋を借りてローを寝かせていた。ハートのクルーは先程まで代わる代わるキャプテンであるローの様子を見に来ていたが、「おれ達がいると寝られないだろうから」と結論づけて物資の補給や船の点検など、ローが不在の間に出航の準備を進めることにしたようだ。おれもその手伝いに加わろうとしたがローに引き止められていた。
「コラさん、ここにいて。私が眠っても傍にいて」
「分かってるよ。ちゃんといるから」
熱のせいで声は弱々しいのに、おれのコートを掴む手は力強い。何度かここにいてと念を押し、おれがベッドのすぐ隣に座っていてもローは手を放そうとしない。このままでは眠りの妨げになると思っていても、ローは頑なだった。
「ほら、もう寝ろ。手も放せって」
「やだ」
子供のような言葉遣いで否定される。可愛いと胸を鷲掴みされたような気分になるのは、もう反射だ。十数年前に別れたときから姿形が変わっても、おれはいつもローに惹きつけられてしまう。
「大丈夫だからほら」
本当はコートではなく、おれの手を握らせてしまえばいいのだろう。そうすればローがわざわざ手を伸ばす必要は無くなっていくらか楽な姿勢が取れる。でもおれにはそれが出来ない。ローに対して邪な感情を抱いた日から、おれはいつも細心の注意を払ってその体に触れてきた。恋のようにただ一挙一動に心拍数が上がるだけだったらどれほどいいかと何度繰り返したか分からない。
でもこれは確かに情欲だ。おれは自分の心ではなく、体でローを求め続けている。それがどれほど最低なことかも理解した上で、自分の中の獣じみた情動を制御しかねている。
おれが手を一晩中握り続けるのは、ローの安全を脅かす。
「そうだ、コート貸してやるよ。そしたらちょっとは安心出来るか?」
手の代わりに己のトレードマークにもなっている黒いコートを指し示す。いそいそと脱いで枕にでも毛布にでもしろと差し出した。
「違う、コラさんが一緒にいて」
「いるよ。心配すんな」
「うっ、う~~~~っ……!!」
「ロー!?おい、どうした?」
ヤニ臭いコートではお気に召さなかったのかローが泣き出した。元々熱で瞳は潤んでいたが、感情が飽和したかのようにみるみる涙が溢れてきてぎょっとする。
「ごめんなさい……」
「なんでっ!?」
泣いたと思えば謝罪されて混乱してしまう。何も謝られるようなことはされていない。
「わかってるのよ、無理強いしたって……。でもああしないとコラさん二度と会ってくれないじゃない」
「んっ?」
「一緒にいてって無理に頼んだの、コラさん困ってるのも知ってるのに、私無理矢理引き留めた……」
「ロー、ちょっと落ち着け。熱上がるぞ、なっ?」
「コラさん!!」
起き上がったローが胸に縋り付いてきた。薄い生地で出来た夜着越しに豊満な体を押し付けられて、ドッと背中に嫌な汗をかく。そらみたことかと、己の理性が嘲笑う。
「私のこと嫌いにはならないで……!」
あえかな声は心を握り潰したかのような悲痛さに満ちていた。同時に氷水でもぶっかけられたみたいに頭が冷えていく。あれだけ体の中で蠢いていた欲が、嘘みたいになりを潜めた。
十数年前におれはローを置いて旅に出た。あてのない旅だった。ローから離れるという、たった一つの目的のために出た旅だったからだ。
恋のようにただ一挙一動に心拍数が上がるだけならどれほどいいか、何度そう繰り返したか分からない。
でもおれがローに対して抱いているのは情欲なのだ。おれはいつも自分の心ではなく、体でローを求めてしまう。だからおれは、自分がローに何かしでかしてしまう前にローの元を去った。
嫌われたくない一心だった。可愛くて、可愛くて、何より大事にしたくて、箍の外れた自分を見られたくなくて、見られて嫌われたくなくて、置いていった気持ちは今も変わらない。
ローにだけは嫌われたくないと思った。そして嫌われないために取った行動は酷く寂しい道のりだとも分かっていた。
ドレスローザで成長したローと再会したとき、おれはすぐにローから離れるつもりだった。本当は会うつもりもなかったのにローがおれに気付いたのだ。
子供だったときよりも子供らしく、顔をくしゃくしゃにして涙も鼻水も流しながらおれに駆け寄って「一緒にいて!!」と懇願された。どんな手を使ってでももう放さないと、本人が無理強いと称するぐらいにはあの手この手で引き留められた。
実際困ってはいた。おれはおれの危険性を知っている。一緒にいればローの慕うおれではないおれが顔を覗かせる日も来るだろう。どうにかして離れなければと内心では考えていた。
でもローがどう思っているかまでは考えが及んでいなかった。おれがローのためを思って取った行動は、ローからすれば好意から程遠いものに見えたのだ。だから「嫌わないで」なんて言葉が飛び出した。
泣きじゃくるローの肩をそっと抱く。華奢な背に負わせてしまったものが少しでも軽くなるようにと撫でた。
「ごめんな、寂しかったよな。嫌われたくないって考えるの寂しいよな」
「うん」
「そんなのおれが一番よく知ってるのに、お前に寂しい思いさせてたんだよな」
「うん」
寂しいことがいかに辛いかなんて身を以て知っている。不安と後悔との戦いだ。相手の姿が見えないから自分の選択が果たして正しいのかの確証も得らない。いざというときに駆けつけられもしない。負の感情に押し潰されそうになりながら、一人で戦うしかないのだ。そんな思いをおれはローにさせていた。
ゾウなら物理的におれがどこにも行けないと分かっているから、ローはやっと安心したのだ。安心して気が緩んだら、疲弊しきった体がとうとう限界を訴えた。単純な話だ。ローが熱を出したのは半分はおれのせいだったのだ。
つまり状況的に可能であればおれはすぐいなくなるだろうと、ローをずっと不安にさせていた事になる。ローは聡いから、おれの態度でおれの考えていることを正しく感じ取っていたのだろう。
ぽってりと赤みの引かない頬に手を添える。じっとおれを見つめ続ける瞳はもう泣いていなかったが、切々と寂しさを湛えていた。
「どこにも行かない。ローが望むまで一緒にいる」
「ほんとに?」
「約束する」
本心だと大きく頷くと、ずっと強張っていたローの体から力が抜けた。抱え直して寝床に戻そうとしたところでふと思いついた。
「コラさん?」
靴を脱ぎ、コートを丸めて枕にしてしまう。ゾウ特製の広々とした寝床に腕の中のローと共に滑り込んだ。
「っ……!!」
「久しぶりにサイレントで寝かしつけてやる。安眠なら任せろ」
「う、うん……」
置いてかれまいと不安なら好きなだけ触れていればいい。そのせいでおれの欲が大変なことになっても、おれが理性を手放さなければいい。離れておれの知らないところでローがこんなに泣くぐらいならなんとかしてみせる。
ずっとローのいない寂寥感と戦っていたおれならきっと大丈夫だと、根拠はないが今はそう思えた。
心なしか頬の赤みが増した気がするローの頭を撫でて、子供のときにしてやったように優しく抱きしめた。
数ヶ月後に恋人として心を通わせるようになったローから「あれはあれでドキドキして眠れなかった」と打ち明けられたのはまた別の話だ。