家を出るまでに知っておきたい最低限
ゴリラもうこんな家は嫌だバイトか就職先を見付けて独り暮らしをするんだ。
そう心に決めたのが何歳頃だったか、覚えていない。中学校に上がる前だったような、気がする。
当然、親には言えなかった。兄姉や弟にも言えなかった。
学校に通えるのも、腹一杯三食口にできるのも、毎日風呂に入れるのも、親の稼いだ金あってのことだ。自分に費やしてくれた金額を返しもせず、自分勝手に出ていくのは不義理だと感じていたし───当時はそこまで言語化できていなかったが。
ぽん、と出奔したところで先立つものがなければホームレス、良くても日雇い労働か住み込みか寮生活。果たしてそれに耐えられるだろうか、と。
なので調べた。学校のPCありがとう。新聞雑誌が目茶苦茶読める公立図書館ありがとう。
帰宅が遅れる言い訳に、勉強だと告げると家族の反応は微妙だった。頭がおかしい扱いされたが知ったことか。
勉学に励むと言い訳した以上、下手な成績を残すわけにはいかない。効率のいい勉強法、興味が持てる参考書、勉強意欲の維持といった言葉で検索し、全教科で一点でも多く取ろうと心掛けた。ネット塾や家庭教師の愚痴をこぼす同級生が、羨ましくてたまらなかった。
ピンポイントで弱点克服とか、おのれ恵まれた奴らめ。鬱陶しいとか面倒くさいと言うならこっちに貸してくれ!
仕方がないので、放課後に教師を追い掛ける。部活の顧問で時間がなかったり、性格が合わなかったりなので、一日一教科一問答×5、を意識して。
最初はひとをガリ勉扱いしてきた同級生たちも、休まず続けるこっちを見て段々畏怖の念を向けてきた。人間じゃないとか機械だとか、うるせえ機械の方が遥かに気持ちが楽だったわい。
徐々にテストで高得点を取るコツを掴めるようになったので、本命に邁進しようと思っていたら。
真面目にやってるのに成績が悪い、と嘆く同級生が寄ってきた。自分みたいに先生捕まえて訊けば、と返したら、なんか怖いと縋り付かれた。
仕方がないので、短時間限定で勉強を見てやった。放課後の時間は有限なのだ。こっちは勉強以外に調べなきゃならないことが山積みなのだ。
加藤という名の同級生は、全教科びっしりノートをとっていた。先生の与太や雑談までコラムのようにメモがあって、なんでこれで成績が悪いんだろう、と不思議に思っていたら。
会話の中で気付かされた。漏らさずノートをとってりゃどうにかなる筈だ、という思い込みに。
「んなわけないじゃん、ポイントがあるんだって」
「ポイントってどこ?」
蛍光アンダーラインでカラフルなページに、書き込みいいかと確かめてから赤ボールペンでチェックを入れる。
「これじゃ全文暗記しなきゃってなるじゃん、年号・人名・出来事……も単語だけでいい。最低限の塊で。テストの文章にはこの中のどれかが出るから、セットで覚えときゃあとはクイズと一緒だ」
「クイズかあ」
「数学や化学はもっと楽。公式だけでいい。足し引き掛け割りできるなら、どうにでもなる。規則性さえ覚えときゃ、時間はかかっても解ける」
「ボスキャラの倒し方みたいに?」
「ゲーム知らん。英語も同じ。構造さえ分かればこっちのもん。長い単語は大体分割できる。impossibleなら否定のim/possibleの後ろはableだから、なんかできねえって感じ」
「パズル?」
「国語は頭と最後だけ読めば、文章問題の答えが大体ある。たまにど真ん中もあるから、問題文に出てくる熟語や人名で探せ」
「形を覚えてアイテム探すみたいな?」
「だからゲーム機持ってねえ」
「スマホアプリだよ」
「スマホも携帯も持ってねえ」
「嘘。中学になったら買ってくれない?」
「くれない」
「……見てみる? ほら」
「心の友よ」
加藤という友ができて、一日は短くなった。休み時間は教室移動と準備と復習に充てるようになり、給食時間はひたすら喋った。独り暮らしを目指していると漏らすと、加藤は自前のスマホであれこれ調べてくれた。
「家賃と電気料金と水道料金、ガス料金、食費、通信費……」
家庭科の教科書にもあったな、と引っ張り出して照らし合わせていたら、横から加藤が県内物件の平均値や基本料金を書き込んでいく。
「県の最低賃金が時給これだから」「ぬお、バイト一日十一時間半で」「一日当たりの労働時間って上限があるんだって、掛け持ちでも合計時間が越えちゃダメ」
「そんなんぶっちぎってる職場わんさかあるだろう」
「自営業や個人事業主はそうみたいだね、でも雇われるならダメみたい」
「ぬおおおお、こっちが生きるために働けると申告してもダメなのか」
「体壊したら元も子もないでしょ」
と、言った加藤は、少し考えて。
「二人暮らしだったら割安になるんじゃない?」
そう、目から鱗な提案をしてきた。
「1K二部屋より2K一部屋の方が安いよね」
不動産サイトの画面を見せられて、唸る。確かに。この家賃二等分なら、万単位で違う。
「家事を分担すれば、負担も減るよね。等分じゃなくても」
「……だったら、外食より自炊の方が安くつく」
「病気になって通院するより、定期検診や毎日……ジョギングや縄跳びすれば」
「安いスニーカーと百均の縄跳びなら、時給二時間未満だな。お互いに体調管理できて、緊急時に勤め先に連絡できて、フォローし合えばメリットはでかいな」
そうか、こっちの最大目標は「家を出る」であって、「独り暮らし」はあくまでもそれに付随するものだ。何故気付けなかった。
半年経たないうちに、計画はより具体的になっていた。進路展望という意味でも。
アルバイトの掛け持ちはいざという時のデメリットが大きい。一回体調不良になれば、二つの職場シフトに穴を空けることになるし、あくまでも最終的な選択に留めておくべきだ、とか。
正社員就職の方が、給料でも拘束時間でも生活リズムの面でも、社会保障や信頼度でも───効率がいい、とか。
その分、ストレスや拘束度合い、責任や義務も大きくなるが。
「学歴って、選択肢の数になるんだな」
「専門学校だと狭まる分、特化してるから強いよね。国家資格取るとほら、初任給が違うよ」
通学路にあるコンビニで貰ってきた無料求人雑誌を開いて、加藤と二人で唸る。何故こんな大事なことをしっかり教える教科がないんだろう、株だの経済だのよりもっとこう、独り立ち科とかがあってもいいんじゃないか。ないのは保護者会の陰謀か。
あと、この半年で加藤の成績はちょっと上がったらしい。
「あとこれ、母に一日の家事を聞いてみた」
「ぬあ、何時間かかるんだこれ!」
おはようからおやすみまで、掃除洗濯炊飯は隙間時間にちょいちょい雑にやる意識だったが、加藤の家は違うらしい。衣類によって別洗濯、干しと取り込みと畳み方、箪笥やクローゼットにしまうまでが洗濯です、と几帳面にまとめられていて、加藤との血の繋がりを感じた。
料理に至っては、冷蔵庫管理と買い物と物価把握、栄養バランス(可能ならざっくりとでもカロリー計算)。ついでのように持ち出し袋の保存食とローリング・ストックまで書いてある。
「……やべえ、加藤のかーちゃんに弟子入りしてえ。これが出来たら独り暮らし無敵になれる」
「二人暮らしでしょ?」
「おう、それなんだがなあ、よく考えたら相手がいねえ。ネットで募集かけてもトラブりそうだし」
「僕がいるじゃない、心の友よ」
「マジかよ! いいのかよ心の友よ!」
がっしと手を取り合った。
家を出ようという計画は、親友によって強固になる。
コツコツが習い性だった加藤は、技術高専への進学を選んだ。自分と一緒に図書館にも通って、たまにうちに来て、案内した倉庫に居合わせたクソ親父に何故か懐いた結果、機械の面白さに目覚めたと言っていた。分からん。
「技術者になって、いざとなったらお前一人くらい養ってやるよ」
「やだ加藤の男前!」
卒業証書の挟まったソフトバインダーでばしばし背中を叩くと、笑われた。
自分は兄姉と同じく、親父の母校に通うことになった。無言の圧力というか、自分だけ違う高校に行きたいと言えなかったというか、どうせ近いうちに出ていくんだから最後の親孝行と思うことにしたというか。
調べれば調べるほど、ちょっとずつ加藤のかーちゃんに「普通の家事」らしきものを教わるほど、両親の凄さが分かるようにも、なっていたから。
早朝から日没まで、幼い娘息子たちをも駆り出さないと追い付かない畑仕事。
選別と洗浄と出荷、その隙間に家事をどうにか片付けるパワフルな母。
でかい農機の操縦とメンテナンス、農協や同業者との価格交渉や作付相談、耕作計画にと年中、体と頭をフル回転させている父。
しょうがねえ借金ごと継いで俺がゼロにしてやる、と意気込む兄と。
好い人とご縁があるまでは、と両親をサポートする気満々で、ついでに兄に合いそうな友人を紹介している姉。
誰に似たのか、近場の耕作放棄地を買い取って独立農家になると宣言した弟と。
まあ、その、農業高校を卒業するまでは、一緒に暮らしてもいいか、と思ったのだ。
あの、ほら、農業高校ってさ、結構潰しのきく国家資格取れるからさ! できるもんならバイトも可能、ってあったし。軍資金貯められるじゃん!
「……あんた卒業したら、加藤くん家に嫁ぐんでしょ。人生計画猛スピードすぎん?」
「はあ? 加藤とは親友ですけどー? 結婚じゃなくて二人暮らしですけどー?」
終わりなきブラック職場でなく、安定した雇われ社畜になって二人で自由と責任を謳歌するのだ!
まあ、たまには手伝いに来てやってもいいかな! 収穫期とか!
「……こんなガサツな妹が私より先に……解せぬ……解せぬ」
うっさいなぁねーちゃん、あんたがよく来る農協職員の若い人と四年以内でどうにかなる方にこの種芋賭けてやらあ!