孤独のグルメ 第8話 東京都府中市のカツ丼とコーヒーたち

孤独のグルメ 第8話 東京都府中市のカツ丼とコーヒーたち


「府中も久しぶりだ……」

トレセン学園の正門を抜け、井之頭五郎はひとつ息を吐いた。

トレセン学園。

日本最高峰のウマ娘レースのために全国からエリートが集まってくる、トゥインクル・レースのための学校。

今回の依頼主はその食堂職員からで、今度メニューに新しくデザートの枠を増やすから、そのためのデザート用食器を仕入れてほしいというものだった。

「しかし、すごい数だったな」

トレセンの在学生徒数は2000人を超える。

その生徒たち全員に他教員やトレーナー、職員が同時に頼んでも足りるだけの食器を、という要望で。

「――久しぶりに、ビッグビジネスになりそうだぞ」

コネのある各所からかき集めることにはなるだろうが、五郎はまとまった金額の皮算用に足取りも軽い。

「いくよー」

「スイーツ! スイーツ!」

『スイーツ! スイーツ!』

「カツ丼! 天丼!」

『カツ丼! 天丼!』

「おっと……」

ゆっくりと府中の道を歩いていた横、車道のウマ娘専用レーンを赤いジャージの列が追い抜いていく。

やけに多いトラックの通行量にも負けることなく、トレセン生だろう集団の声がはしゃいでいる。

「未来のスターたちか。頑張れよ……」

あっという間に小さくなっていくジャージとしっぽのたなびきを見送っていると、腹が鳴った。

「ああ……」

そうだ。

「――腹が、減った」

彼女たちのランニングの掛け声を聞いてしまい、余計に腹が減る。

こうしてはいられない。早く店を探さなくては。

「今日の俺は何腹なんだ?」

懐には余裕がある。

今日は大きな取引を掴んだこともあり、少し豪勢に行きたい気持ちもあった。

「スイーツ……天丼……カツ丼……」

あの子たちの掛け声がこだまする。

カツも天ぷらもスイーツも、確かにお祝いのごちそうにぴったりだ。

「――よし」

腹は決まった。

あとはその条件にあう店を探すだけ。

しばらく街並みを歩いていると、風にはためく二色の、のぼりが目に入った。

「コーヒー……カツ丼……?」

……なんだこれは。

およそ一緒に並ぶことがない二つの単語が、それぞれ焦げ茶色ときつね色で主張している。

「メニューがある」

スタンドに置かれた、ビニール加工されたメニュー表を開く。

トップページには店名だろう、「カフェ まんはったん」との文字と、コーヒー豆の写真。

しかしメニューの一枚目には大きくカツ丼やとんかつ定食が並び、コーヒーやケーキは最後のページに追い込まれてしまっている。

……うわあ、なんだかおもしろい店を見つけてしまったぞ。

カツ丼というのは今の気分に合っている。

……よし、この店にしよう。

飴色のドアを開く。

ちいさくベルが鳴り、店員のウマ娘が「いらっしゃいませ……」と小さく会釈した。

「ひとりなんですが……」

「でしたら、こちらのカウンターへどうぞ。こちらメニューです……」

「あ、どうも」

店内は落ち着いたカフェらしい内装と什器で調えられている。スローなジャズも流れ、完全に純喫茶といった装いだ。

だが、客層は違うらしい。

ほとんどの客はがたいの良い男性で、皆一心に大盛りのカツ丼やどんぶり飯をがっついている。

……カフェ まんはったん、ますます謎だ。

「ここのカツカレー旨いっすねセンパイ!」

「だろ?でもな、ここにはカレー以外に通好みの隠れた名物があるんだよ」

「隠れた名物?なんすかそれ」

「コーヒーだよ。ここのコーヒーやたら旨いんだよ。なんか味のバランスが良いと言うかな〜、香りが他より華やかと言うかな〜……とにかく旨いんだ」

「へぇ〜俺コーヒーに旨い不味いあるの知らなかったッスよ……」

背後の作業員らしき二人組がしている会話を流し聞きながら、メニューを眺めること2分ほど。

最初に頼むメニューは決まった。

さっきから漂う出汁の匂いを鼻に吸い込み、五郎は黒髪のウマ娘に声をかけた。

「すみません」

「はい、お伺いします……」

「この、カツ丼を一つお願いします」

「…………」

一瞬の間。

「カツ丼……ですね。お飲み物はいかがいたしましょう」

「あ、えーっと」

メニューをめくる。

つつましく、しかしメニュー数で主張しているコーヒーの欄に目を通し、

「この、ダッチコーヒーというのは?」

「ダッチコーヒーは……冷水でじっくりとドリップしたものです。お湯で抽出したものに比べて……雑味が抑えられるのが特徴です……」

「なるほど。じゃあそれを」

「はい。ダッチコーヒーと、カツ丼ですね。お待ちください……」

少しだけ来る時よりも耳を小刻みに動かしている店員が裏に下がる。

置かれたおしぼりは石鹸が香るあたたかいもので、ここまで歩いてきた身にはじんわりと嬉しい。

「さてさて、どうなるか……」

焦ることはない。

自分はただ腹が減っているだけで、もう注文も終わっているのだ。

「お待たせしました。お先にダッチコーヒーです」

「ありがとうございます」


●ダッチコーヒー

真っ黒いオトナの飲み物。

氷までコーヒーな配慮が嬉しい。

ひとくち飲めば、遠くオランダの風を感じるかも?


置かれた細長いガラスのコップと、銀の小さなトレーにミルクとガムシロップ。

いかにも、”喫茶店のアイスコーヒー”だ。

……さて、行こうか。

細く白いストローを吸い込むと、冷たいコーヒーの味が広がる。

「おお……」

確かに、これはうまい。

アイスにしたとき特有の酸味や苦すぎる味がなく、すっとコーヒーの味が舌の上に滑らかに広がっていく。

氷がやけに黒いと思ったが、これはコーヒーを凍らせたものなのだろうか。

時間が経っても味が薄くならない、店の心遣いが感じられて好印象だ。

……うん、いいじゃないか、ダッチコーヒー。

一瞬でマブダチ気分だ。

後のカツ丼の事を考えてひとくちにとどめておくが、このまま飲み干してしまいたくなるくらいにはうまい。

……これは、いい店を見つけたかもしれないぞ?

そう考えていた時、横からトレイがやってきた。

「お待たせしました。カツ丼です……」

「おお……」


●カツ丼

みんな大好き、カツ丼。

出汁をしっかりと吸い込んだカツの衣と玉ねぎが魅力的。

半熟卵の白と黄色が王道を予感させる。

ランチタイムはみそ汁がサービスでついてくる。


置かれたトレイの上にはどんぶりとみそ汁の椀。

湯気のたつそれを前に、一度深呼吸。

「いただきます」

一礼し、まずはカツをひとくち。

衣の軽い感触のあと、じゅわりと卵と出汁がしみだしてくる。

しっとりとした肉も嬉しい。

……うん、うまい。

予想よりはるかにうまい。

二口目にカツをほおばり、急いで白米を口へ。

「うん、うん……」

やっぱりだ。

カツと卵、出汁、玉ねぎに白米。

カツ丼は全てを一度に食べることで初めて完成する料理なんだ。

一度それを認識してしまったら、あとはもうがっつくだけだ。

カツ、玉ねぎ、白米、白米、カツ白米。

合間にしっかりとかつおで出汁が取られたみそ汁を挟んで、またカツ白米。

口内がさっぱりと、しかし出汁の風味だけはずっと残り続ける。それがいい。

分厚く切られた豚肉も、粒が立つ白米も。

すべてが完璧な状態に整えられている。これは美味い。パワー系の兄ちゃんたちが集まるわけがわかる。

「おっと……」

一度箸を置き、ダッチコーヒーを吸い込んで。

カツ丼とコーヒー。およそ並ぶことはないと思っていた二つが、ここで異例のタッグマッチだ。

「ん……!」

これは良い。

甘いカツ丼の出汁と肉の風味が、一度滑らかなコーヒーの香りと苦みでリセットされていく。

そしてまたカツを食べれば、新鮮な気持ちで甘い出汁に向き合える。

……いいじゃないか、カツ丼とコーヒー……!

夢中で食べ続けていると、米粒ひとつ残さず食べ終えてしまっていた。

しまったな、と一度息を吐く。

この店のカツはかなり美味い。

揚げられているのに衣は軽くさくさくで、肉もしっとり柔らかく。

そんなカツを味わい尽くす前に食べ終えてしまった。

……仕方ない。

「――すみません」

「はい……」

「カツカレーを、お願いします」

「カツカレーですね、承知しました……。お飲み物は、おかわりされますか?」

「え? あ……」

見れば、ダッチコーヒーも飲み干してしまっている。

おかわりも良いが、それ以上にこの店のコーヒーをもっと楽しみたい気持ちが勝っていた。

「じゃあ、このアイスウインナーを」

「アイスのウインナーコーヒーですね、ありがとうございます」

……さて。

一度息をつき、五郎は改めてこれから来るカツカレーを待つ態勢を整えた。

店内に漂うのは揚げ物特有の香ばしさと、少しのコーヒー。

客層もメニューも完全にカツが売りの定食屋なのに、店内は純喫茶といった設えだ。

……いいじゃないか、カフェ まんはったん……。

店前ののぼりを見た時からは考えられないくらいに好印象だ。メニューが何故二極化しているのかは全くわからないが、それでも手を抜かずすべてを提供しているのが好い。

「お待たせしました、アイスのウインナーコーヒーです。お好みでこちらのチョコシロップもどうぞ……」

「どうも、ありがとうございます」


●ウインナーコーヒー

コーヒーにウインナーが添えられたもの……

ではなく、クリームが浮かべられている。

お好みのチョコシロップでコントラストも鮮やか。


……チョコシロップとは、いいじゃないかいいじゃないか。

いろいろな店でコーヒーを飲んできたが、この店の心遣いはとても楽しい。

ツノが立つくらい硬めのクリームがつんと氷の上に立っている。

グラスを持ち上げてみて気づいたが、先ほどより太いストローが刺さっていた。おそらくはクリームを吸い込む想定でのことだろう。

……ほー。いいね、こういう気配りができる店は良い店だ。

ひとくち吸い込むと、先ほどより苦みの強い深煎りのアイスコーヒーが広がる。

一度ストローを持ち上げて、端のクリームを慎重に混ぜると真っ黒だった液体がブラウンに変わりはじめて目にも楽しい。

「うん、うまい……」

豆の産地や種類は正直わからないが、メニューに合わせて焙煎の度合いや味を変えていることは感じられる。

全体として、とてもコーヒーに力を入れてこだわっていることが感じられて好印象だ。

「お待たせしました、カツカレーです……」

「お、きたきた」

「こちら福神漬けとらっきょうです」

「ありがとうございます」

「ごゆっくり……」

影のように音もなく離れていく店員にどこか背筋の冷たくなるものを感じながら、五郎は紙ナプキンで口に当たる部分が包まれたスプーンを持ち上げた。


●カツカレー

名物のカツと厨房担当のこだわりが詰まったカレーを合わせた一品。

隠し味にコーヒーを使っていることはコーヒー担当の店主には内緒だ。


どんと構えた楕円形の深い皿。

7:3で器を分け合うカレールゥと白米。

そして6つに切られてカレーの上にのるロースカツ。

……さあて。

まずは箸を手に、カツの真ん中のものを一切れ。

さくっと前歯に当たって軽い感触がかえってくるが、そのころには舌が分厚いロース肉の肉汁とうまみを十分に堪能している。

とんかつというものは肉と衣、その間に挟まるものが少なければ少ない程、肉本来の脂の甘みと衣の香ばしさが際立つものだ。

その点、この店のかつはものすごくレベルが高い。

本当に美味いかつにはソースは要らないのだろう。

「それじゃあ、カレーを……」

ひとくち分をすくって口に運ぶと、スパイスの刺激が口内にガツンと広がる。

しっかりとしたガラムマサラの辛みの向こうからやってくるのは、魚介のうま味だろうか。

そば屋のカレーのように、どうやらルゥを出汁で伸ばしているらしい滑らかさだ。

「うん、うまい」

カレーをひとくち。カツをカレーに浸してひとくち。カレーをひとくち。

クリームを溶かしきってコーヒーブラウンに色が変わったウインナーコーヒーで辛みをリセットして、またカレー。

「はふ はふ」

こども時代に戻ったように一心不乱に食べている中、カツを一切れルゥの海の中に沈めておく。

気分は宝物を隠す子どものようで、年甲斐もなく心が踊ってしまう。

結局のところ、だ。

……いくつになっても、男はカレーが大好きなのさ。

気がつくとカレーもコーヒーも食べ終えて、五郎は前のめりになっていた体を背もたれに戻す。

「ふう……」

満足げに吐きだす息にもカツとカレーがわずかに香る。

夢中になって食べ進めてしまった。

くちくなった腹を抱えて休んでいると、また音もなく店員が近くに来ている。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございます。食後のドリンクがサービスになっていますが、いかがでしょう……」

「ああ……」

見ると、店員の手にはコーヒーをドリップするときに使う口が細長いケトルがある。

うちは喫茶店です……と言外に主張しているように思え、五郎は「じゃあ」と声をあげた。

「ブレンドを。ホットで」

「はい、ありがとうございます」

すっといなくなった店員を探していると、すぐにソーサーつきのカップが運ばれてきた。

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

立ちのぼる湯気を嗅ぐとかぐわしいコーヒーの香り。

先に飲んだ二つともまた違う香りをゆっくりと楽しむ。

店内は一番最初に入店した客たちが出て、次の組が入り始めている。

カウンターといえど、ランチタイムに長居するのも悪いだろう。

しっかりとカップの中のコーヒーを飲み干し、五郎は席を立った。

「ごちそうさまです」

「ありがとうございます……。お会計、2600円です」

「じゃあ、3000円で」

「はい、400円のお返しですね……」

店員のウマ娘さんは、おつりの硬貨といっしょにチケットらしきものを渡してきた。

「これは?」

「スイーツセットとコーヒーのクーポン券です。コーヒー、お好きなようでしたので、ぜひ」

「へえ……」

見ると、スイーツセットとコーヒーで500円になるらしい。確かメニューでは750円だったはずだから、破格のクーポンだ。

「期限は特に定めていませんので、いつでもおこしください」

「ありがとう。また来ます」

「ありがとうございました」

店のドアベルと店員に見送られて外に出る。

いやあ、とお腹を撫でて一息。

……おいしいからとコーヒーを三杯も飲んでしまった。

今日は眠れないかもしれない。

……カフェ まんはったん。客にまで不夜城の摩天楼を味わせてくるとは、すごい店だ。

今度府中に来た時は、きっとスイーツセットも頼もう。

そんな気持ちで、まだ口の中でかすかに香るコーヒーを消さないように。

食後の一服は無しにして、五郎は駅へと歩き出した。

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