女の髪の毛には大象も繋がる

女の髪の毛には大象も繋がる



ぱきん、と音を立てて櫛の歯が折れる。

「あっ……!」

人が少なくなってきた食堂に、立香の声が小さく響いた。

遅めの昼食を摂る前に髪を結おうとした彼女は、プラスチック製の櫛を使っていた。折り畳み式の持ち運びやすいものだ。髪を整えようと梳いたところで、櫛の歯が折れてしまったらしい。

「伊織……破片が髪に残っちゃったかもしれない……」

眉を下げた立香は、目の前に座っていた俺に助けを求めてくる。ここには鏡も無いので、どこに残ったか分からないのだろう。背後に回って、失礼、と髪に触れる。やや癖のある彼女の髪は、朝焼けのような橙だ。

「これだな。怪我はしていないだろうか」

「大丈夫! ありがとう、伊織」

櫛の破片を取って、立香に手渡す。

この櫛ももう寿命かあ、と呟く彼女を見て、ふと思いつくものがあった。



食事を終えたマスターと別れて、自室に戻る。

プラスチックの櫛で梳いたマスターの髪は静電気を帯びていた。ならば、材料は静電気が起こりにくい柘植が良いだろう。ああ、少し癖のある髪だったな。やや荒めの歯にした方が良さそうだ。持ち歩きやすい大きさにして、出先でも髪を梳くのに使えるようにしよう。誰の物か分かりやすいように、藤の花も彫り入れてみようか。彫り終えたら、椿油も染み込ませた方が良いだろう。

櫛作りの計画を構想する。これは時間がかかりそうだ。早急に取り組まなければ。



その日から、櫛作りは手慰みの彫仏に取って代わった。特に歯の間隔を整えるのは一苦労で、彫仏とはまた異なる技術を要する。貴重な柘植だ、そう簡単に失敗は出来ない。

時折遊びに来るセイバーが覗き込んでは「ほほーう……」と口にしているが、気にしないことにする。

納得のいく歯が出来たところで、次は藤の花を彫る作業に移る。あまり装飾に凝り過ぎては、立香が気後れして使えないかもしれない。普段使いできるような、さりげない彫刻に留めることとしよう。

全体を磨き上げて、最後に椿油を染み込ませる。歯の奥まで油を充分に浸透させて、拭き取った後に乾燥。つげ櫛は、椿油での定期的な手入れが必要になるが、そこまで高頻度ではない。立香に伝えれば、きっと上手く使ってくれるはずだ。

それに、椿油が櫛に馴染むと、梳かす度に髪を潤してくれるのだとか。

……立香の髪に触れたあの時。この橙を美しく保ってほしいと、そう思ったのだ。



「これ、伊織が作ったの!?」

立香の反応は予想以上に良かった。

「ああ。以前、櫛が折れてしまっただろう? 代わりにこれを使ってくれ」

櫛を見つめる琥珀色の目は輝いている。

「本当にいいの? こんなに良い櫛……」

「手慰みに作ったものだ。折角出来上がったのだから、使うべき人の下にある方が良い」

藤の花まで彫っておいて、何を言っているんだ俺は。

立香が顔を上げる。

「ふふ、ありがとう! 大事に使うね!」

その笑みを見つめながら、ふと気がつく。

この櫛は髪飾りではなく、髪を梳かすためのものとして作った。そのはずなのに、当世では髪飾りとしてあまり使われないのだったな、などと、残念に思う己がいる。

「……?」

何故、そのようなことを思ったのだろう。理由を理解したいのに、探ろうとすると靄がかかる。

「伊織?」

心配そうに立香が声をかけてきた。

「……ああ、何でもないよ」

それより今は、手入れの仕方を彼女に伝えなければ。

思考を切り替えて、そちらに集中することにした。



「髪飾りに使われないのが惜しい、か」

自室の畳に座って考える。

……俺は立香の髪飾りを作りたかったのか?

いや違う。櫛が折れてしまったから、こちらで新しいものを作ろうと思った。故に作って、先程渡したばかりだ。

では、この晴れない気持ちは一体?

考えあぐねていると、セイバーが訪ねてきた。

「ほほーう……その様子だとまだ分かっていないようだな、イオリ」

「藪から棒になんだ、セイバー」

何故かニヤニヤしているセイバーにせがまれて櫛の委細を話すと、「そんなことだろうと思った」と呆れた顔を向けられる。

「そこまで気になるのなら髪飾りを作ってしまえばいい」

「しかし……」

「作ろう! うん! 私はバレッタが良いと思う!」

「ばれった……?」

彫仏を再開するのはまだ先になりそうだ。

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