太公望は決意しました。
御徒町の歓楽街のはずれ、川に臨んだ桟橋で、着物に身を包み町人に扮している太公望は趣味の釣りに興じていた。だが、その涼やかな顔《かんばせ》に浮かぶ表情は思わしくない。
(中々どうして、集まりませんねぇ……)
彼のマスター──由井正雪の身体に宿る惨たらしい機能を消滅させるために必要な数々の素材、その収集が思わしくないからだ。マスターが登城している時分に行っているのだが、霊地力は他の土地と段違いとはいえやはり生前より神秘の薄れた江戸の地だ。生前にありふれていた素材どころか代用品すら集まりが悪いのは、流石の彼も参ってしまう。
しかし、だからといって今以上に根を詰めたところで事態は好転するどころか悪化するだけだと経験則から知っている彼は、今日一日は気分転換にと賑やかしい町を背景に釣りをすることに決めたのだ。
(焦りは禁物ですからねぇ……今日一日はこうして頭と体を休め、英気を休めるとしますか)
そうして裡より湧き出る焦燥を追いやって、心の底から釣りに興じるその時だった。
「キャスター! 貴様、こんなところで何をしている!」
若く厳しい声色に、彼は普段よりやや鈍い動作で声の主へと顔を向ける。
「おや、セイバーに宮本伊織殿。奇遇ですね」
「何が奇遇だ白々しい! 大方日本橋の時のように我らを待ち伏せしていたのだろう!」
(あの時は確かに占いで出たからあの場にいましたが、今回は本当に偶然なんだけどなァ……)
思わず溜息をひとつ。生前の仲間よりお前は胡散臭いだ何だと云われ続けていただけに疑われることに慣れてはいるが、流石に今は些か応えた。
「その溜息は何だその溜息は!」
「落ち着けセイバー、ここは人が多い」
「ぐぬぬ……」
「ああ、ありがとうございます宮本伊織殿」
此方に噛みつくセイバーを抑えてくれたセイバーのマスターである青年に礼を云い、彼は釣りを再開した。川から吹く風に心地良さを感じながら釣りをするのは、やはり気分が良い。
「ところで、お二人は何故御徒町に?」
「道草だ、セイバーが御徒町に行きたいと煩くてな」
「んなっ! イオリ!」
「成程、因みに僕は息抜きです」
「だろうな」
その装いを見れば分かると告げる青年に、ですよねぇと彼は相槌を打つ。自分だけ除け者にされているようでセイバーは不満げの様子だが、彼も青年も構おうとはしなかった。
「どうです? お時間がおありなら共に釣りでも嗜みません?」
「んな! 誰がそんなことを──」
「ご一緒しよう」
「イ、イオリ!? キミは一体何を云っているんだ!?」
慌てふためくセイバーを後目に、青年は彼から予備の竿を受け取り隣に座って釣りを始める。正直断られるだろうなと思っていただけにその行動に呆気にとられた彼だったが、まァ良いかと再び釣りの体勢に入った。
「っっっ!! ~~~~~~ああもう!!」
斯様に暢気な二人に毒気を抜かれたか、或いは呆れたか。若干苛立っているようだがセイバーもまた諦めたように座り、二人の釣りの様子を眺めることに決めたようだ。
(とは云え、僕から決して意識を逸らさず何時でも剣を抜けるようにしているのは流石セイバー、抜け目がないですね……)
と内心で感心しつつ、何時でもこの場から逃げられるように土遁の準備を秘密裏にしておくくらいには、彼もまた抜け目がない。
賑やかな喧騒と心地良い風、それを浴びながら釣り糸を垂らした水面に意識を向ける。ただそれだけでささくれた心癒され、蓄積された疲労が抜けていくのは生前から変わらない。そして少し余裕が出てきたからか、若干思考が回り始めてきた。
(我々が友誼を結んでいる李書文殿と、僕個人が知り合った逸れのセイバー殿に時折手伝ってもらってはいますが、やはり足りない……)
かといって、これ以上協力者を増やすのも難しいと彼は思っている。
逸れのアーチャーは何処の陣営がやらかしたのか些か気が立っているように見受けられ、逸れのランサーはアーチャー陣営に近しく、逸れのバーサーカーはバーサーカーのマスターに忠誠を誓っている様子であり、逸れのライダーは協力を取り付ける以前の問題だ。
(宮本伊織殿のお蔭で今は無害になっているだけで、彼女が危険な存在であることに変わりはない……下手に突っついて大惨事になるのも困りますし、現状維持が妥当ですね)
残るは小石川にいる逸れのキャスターと、浅草で商売をしている逸れのルーラーなのだが、正直に云うと難しいだろう。
(どちらも一筋縄ではいかなさそうな方々ですしねぇ……まァ、ルーラー殿の方は江戸で得た珍しいものを差し出せば素材を融通してくれそうではありますが……)
そう何度も取れる手段では無いだろう、と彼は判断する。逸れのルーラーに頼るのは最後の手段だ。
八方塞がりだなァ、と釣り糸の先を眺めながら内心で息を吐いていると、突然セイバーが立ち上がった。
「どうしたセイバー?」
「暇だ!」
「……は?」
「イオリも! キャスターも! 一向に魚が釣れていないではないか! 時間が無為に過ぎるばかりで詰まらない!」
吠えるセイバーに、彼と青年は互いに顔を見遣った。どうやら、考えていることは同じみたいである。
「穴場でもない限り、釣りとはこういうものだぞセイバー」
「そもそも此処、良い釣り場ではありませんから当然かと」
「じゃあ何で二人してこんな場所で釣りをしているんだ!!」
「「気分転換」」
「息を合わせるな!!!」
もう知らん! 私はその辺で暇を潰してくる! と市場の方に一人駆けていったセイバーに、彼は呆気に取られた。いくら暇であるからと云って、同盟を組んでいない敵サーヴァントのところに自身のマスターを普通置いていくものだろうか。いや無論彼にその気はないのだが、あまりにも不用心に過ぎる行動に途方に暮れてしまった。
「…………如何した、ライダー」
「っああいえ、僕にかなり警戒していた彼が、自身のマスターを置いてどこかに行くという行動を取ったことに驚いただけで──おや? 何時から僕がキャスターで無いとお気づきに?」
「セイバーが初めて貴殿をキャスターと呼んだその時から、貴殿の反応を見るに違うとは思っていた。ライダーだと判断したのは消去法だ」
「ほう、あの時点で僕の様子に気付いたのですか? 君にとっては訳が分からない事態の連続でしたでしょうに、周りを良く見ていることだ」
「日頃の癖だ、気に障ったのなら謝罪する」
「感心しただけですよ、そう卑屈に取らないでください」
そう、本当に彼は深く感心していた。生前の立場上、彼は自身の心の機微を隠すことに長けていた。それ故に、初対面であった青年に察せられるとは思いもしなかったのだ。
──だから、だろうか。
「と云うわけで、鋭い君にひとつだけ質問に答えて差し上げましょう!」
「……うん? 待て、一体どう云う理屈だ?」
「単純に、僕が君を気に入った、と云うだけのことです。ああ勿論マスターの不利になることは流石にお答えしかねますが、それ以外のことであれば何でもお答えしますよ!」
彼は無性に、青年を試したくなった。あの逸れのライダーを意図せず無害化できている時点である程度の為人は察しているが、この問答で更に深い部分を知ろうと思ってしまったのだ。
斯様な思惑を含んだ彼の申し出に、青年はやや困惑しているようだった。当然だろうとは思ったが、彼は笑顔を崩すことなく問いを待つ。
果たして、目の前の青年は一体何を問うのだろうか? 久方ぶりの心躍る時間は──
「……では、ひとつ」
──次の瞬間別のものへと変化した。
「貴殿は、何をそんなに焦っている?」
予想外の問いかけに、彼は言葉を逸した。
「貴殿らに襲われセイバーを召喚した夜、貴殿は常に周辺の被害を抑えるよう立ち回っているように思えた。弱い俺相手だけならともかく、途中で乱入してきたランサーと、あのセイバーを相手にしてですら、だ」
敵マスターの情報を問うたならば、些か落胆はしただろうがまだ分かる。
何故そんなに疲れているのだと云う問いかけであれば、人間観察に優れた人物だと称賛しただろう。
「儀に関係の無い者へ配を怠らない善性と、あのセイバーを相手にしてですらそれを為してみせるほどの余裕を持つ貴殿が焦る理由──それを、俺は知りたい」
(ああ、これは──誤魔化すことは、出来ないなァ……)
確信の籠った深い色の瞳に見抜かれ、彼は白旗を上げるように顔を手で覆い空を仰ぎながら、口を開く。
「…………それを聞いて、君は如何するおつもりですか?」
「もし俺に何か出来ることがあるのならば、貴殿を手伝いたい」
「……………………は?」
「その様子からして、先程の俺の問いは答えられることなのだろう? それ即ち貴殿のマスターである由井正雪殿の不利にはならない──つまり、儀に関係の無いことだと云うことだ」
其処で一度、青年は一息入れた。
「俺は……盈月の儀に参加したのは成り行きだが、セイバーから儀についての話を聞き、このままでは江戸に住む無辜の民が騒乱に巻き込まれる、それは悪しきことだと考え行動している」
(んん? 何やら少し引っかかるような……)
「故に例え儀に関係が無かろうと、それが江戸に災いを齎すものであるならば──俺は、それを捨て置くわけにはいかない」
青年の云い回しに引っ掛かりを覚えた彼だが、青年の申し出は彼からしても有難い話である。
「……全く、それ程の頭がありながら何故浪人のままなのか。君ならば仕官すれば疾く家老まで登り詰められるでしょうに」
「それは貴殿の買い被りすぎだ。俺は未だ二天一流を極められていない不肖の身、仕官なぞ出来るはずも無い」
(ああ~そう云う類の人かァ……)
これと決めたことは達成するまで愚直に突き詰める求道者。ただ只管にひとつのことを追い求め、より高みに至るためならば倫理感すら容易く置き去りにする。青年──宮本伊織という男は、そう云う部類の人間なのだ。そうであるにも拘わらず、剣を極めるに最適な現状を良しとしない青年の在り方に、彼は強い好感を覚えた。
そして願わくは──その在り方を変えないままで生涯を悔いなく生き抜いてほしい、とも。
「…………実はですね、素材を探しているのです」
「素材?」
「はい。詳細は告げられないのですが、少々厄介なモノを見つけてしまいましてね。それが発動してしまった場合、最悪江戸はおろか日ノ本全土を危険に晒し兼ねない代物でしたので、それを無力化すべく必要な素材を集めている真っ最中なのです」
「失礼だが、正雪殿には?」
「伝えていません……というより、伝えたくない、と云った方が正しいでしょうか」
一体如何して、彼女へ真実を告げることが出来ようか。三六五柱もの神を封じた彼をして惨いと云わしめる、彼女の身体に備えられた機能のことを。彼女がそれを知ってしまえば、無力化できる方法があると諭したとしても、自責の念から自死するだろうことは容易に想像できる。誠実かつ責任感が強いところは彼女の美徳ではあるが、此度ばかりはそれが悪い方向に働いてしまうのだ。
それは、彼にとって許容できないことだった。
「僕は、マスターを気に入っています。だからこそ、マスターに気付かれぬ内に、この件を解決したいと思っているのです」
何のしがらみも持たず、マスターと深い関わり合いもなく、魔術に対して理解があり、善意でもって協力してくれる──そんな稀有な人材など、存在しないと思っていた。しかし如何したことか、彼の目の前に今合致する人間が居て、こうして手を差し伸べてくれている。
「まァそういうわけですので、お手伝いいただけるのはこちらとしても助かります」
「分かった、何を集めれば良い?」
「えーっとですね──」
ならば今はそれに甘えよう。そして目的が完遂したその時は、目の前の青年が今の在り方のまま悔いなく生きられる道標を灯してみせようと、そう、心に決めた。