夢渡り

夢渡り


そこは、居心地のいい場所だった。如何なる煩わしさも、騒音も、苦痛もなく。ただ、揺蕩う。外との境目がほどけて、消えていく。心地よい疲労を得た日の眠りに似ている。霧散していく自分の彼方で…誰かの声が、した。

(………?)

触れられる。俺の輪郭をなぞる。形を、取り戻していく。手。腕。肩。背中。脇腹。胸。腹。太もも。膝。足首。足の裏。一つひとつ、丁寧に。冷たい手が頬を包んだ。浮遊感が消えて、身体が柔らかく受け止められる。

「────ヴェル、起きて」

身体を丸める。まだ、眠っていたい。ここを出たくない。

ぺちん、と弱々しく頬を打つ感覚がした。しぶしぶまぶたを持ち上げる。浅黒い肌の少女が、目尻に涙をためて見下ろしていた。

「……ヴェルのおバカ。ねぼすけ」

「………か、ろ、ん」

確かめるように名前を呼ぶと、ぐりぐりと頭を押しつけられる。ぼーっとしたままそれを撫でるうちに、少しずつ視界がはっきりしてくる。

起き上がってみると、自分が横たわっていたのは天蓋付きの寝台だった。室内に明かりはなく、二つの大きな窓から差し込む青白い月光が薄ぼんやりと視界を確保させてくれる。ベッド以外の家具がない、なんとも生活感のない洋室だ。

「…カロン、ここは?」

「知らない。でもカロン、帰る方法は知ってる」

ぴょんと飛び降りたカロンが懐からなにかを取り出す。ぱちりという音がして、淡い光が広がった。ステンドグラスのカンテラだ。様々な数式の模様が現れる。

「はい。ヴェルはこれ持って」

ベッドから降りて床に足をつける。上等な代物なのだろう、絨毯は優しく素足を受け止めた。差し出されたのは針が木馬を模した方位磁針と、鈍く光る鎖。

「手、繋いで」

「ああ」

言われるがままに左手を差し出す。それを強く握りしめて、カロンはカンテラを掲げた。

「出発進行。ぶるんぶるん」

手を引かれ、抵抗するわけにもいかずついていく。ベッド以外なにもないと思っていた部屋には、しかし外に繋がる扉があった。カンテラを持つ手で器用に開かれたその先には、終わりが見えないほど長い廊下が続く。左右には無数の扉。

「ヴェル、行こ。メフィに帰るの」

「め、ふぃ」

「そう」

めふぃ。口の中で小さくつぶやく。聞き覚えがある。俺は、それを知っているはずだ。

足が重くなる。部屋から出たくないと心のどこかが告げている。しかし、行かなくては、とも思う。自分にはなにか、すべきことが、望みがあったはずだと。ゆっくり、一度だけ深呼吸をして、踏み出した。

ひたひた。ひたひた。暗い廊下に二つの足音だけが響く。カンテラが揺れるたびに左右の影も形を変える。声がした。

「代表」

場所は、左右の扉。なにもしていないのに開いていく。事務所のような空間が見えた。

(……あ…)

視線が固定される。そちらに歩いていこうとして、くんっと手を引かれた。

「だめ。一緒に帰るの、ヴェル」

「かえ、る」

あそこが、あの場所がそうなんじゃないのか。泣きたくなるほどまぶしいそこには、もう、居場所じゃ。

ちゃり、と手首で音がする。腕を持ち上げると、鎖が戒めるようにきつく絡みついていた。木馬の首はまっすぐ廊下の先を示している。

「ヴェル。ヴェル、帰ろ。カロンたちのバスに。お願い」

ますます強く握られた左手を、彼女は自身の眼前に持ち上げて祈る。涙をにじませる声に、靄がかっていた思考が晴れる。

「…ああ、帰ろう。道案内、頼めるか」

「うん」

涙をぬぐったカロンに導かれ、再び歩き出す。

「代表」

声は無視することにした。もう、戻れもせず、帰れないから。

「代表、ちょっと、無視しないでくださいよ」

「なんかえろう冷たいやないですか」

「せっかくですからゆっくりしましょうよ」

「そうですよ。ほらこれ、子供たちに持ってくんでしょ?」

「ねえおじさん。僕、こんなに強くなれましたよ!おじさんのおかげですね」

「たすけて…たすけて、おじさん…いたいよお…」

「ほら、ほら見て、私を!あはは、あはははは!」

「今さら、なんだっていうの?罪滅ぼしのつもり?」

「これ以上やっても意味ないってこと、知ってるでしょ?」

扉が開いていく。中からあふれだす。見慣れた事務所。瓦礫の孤児院。ねじくれた実験室。血の海となった公衆トイレ。くるしい、いき、が

「ッ…!」

「あっ」

走り出したカロンに引きずられるように自分も駆け出す。声が、気配が、追ってくる。つんのめるようにして突っ走る俺たちの前に現れた扉に彼女は躊躇なく突っ込んだ。

「……は?」

目の前に広がるのは、雷雨が渦巻き荒れ狂う大海。それに臆することなく飛び出したカロンは、岩だらけの岸に繋がれた小舟に乗り込んだ。

「来て、ヴェル!」

その声に弾かれたように、自分も豪雨の中に飛び込む。気がつくと小舟は海の上で大きく揺れていた。上下にぐぅん、ぐぅんと、何度も。全身びしょ濡れになってもオールを手放さないカロンを抱きしめる。

「カロン、カロン…!」

「ヴェル、大丈夫。カロンは渡し守。絶対に、バスまで連れていく…!」

怖かった。彼女を失ってしまうことが、恐ろしかった。激しく揺らめく船が一際大きく跳ね、なにかに叩きつけられた。一瞬意識が遠のき、目を覚ますと、砂浜で横たわっていた。

「……カロン!?」

慌てて起き上がり叫ぶ。その直後に、少女は隣でぐったりと目を閉じていたことに気づいた。カンテラは腰にくくりつけられている。

(…俺は、なにをやってるんだ…!)

自身への怒りで握りしめた拳が震える。守りたいものがあるのなら、今度こそそれを手放してはならない。失う恐怖に震える暇があるなら、戦え。なにもかもを無くしてしまった俺にだって、そのための力は残ってるはずだろうが。

カロンを抱えあげ、方位磁針を確認する。相変わらずの雷雨のなか木馬が示す方向に丘を登っていけば、その先には戦場が広がっていた。ああ、これなら話は単純だ。いつの間にか手にしていたグラディウスを構える。血煙で赤く染まる空のもと、カロンを抱えて疾走する。虫の腕を斬り裂き銃弾を弾く。走って、走って、抱きしめた温もりを頼りに走り続けて。いつの間にか、俺たちは雪がしんしんと降る路地に立っていた。

「……ん…ヴェル…?」

「おはよう、カロン。どこか痛いところはないか?」

「ん…カロンは気分がいい」

下ろして、という要望に従って慎重に彼女を立たせる。そういえばカロンは靴を履いているが、自分は相変わらず裸足なので雪の冷たさが沁みる。

「寒くないか?」

「ヴェルがいるから。それに…ううん、なんでも。ヴェルは?」

「俺も、そうだな。カロンがいるから、そこまで寒くはない」

不思議なことに、本当にあまり寒さを感じないのだ。それはきっとカロンがそばにいるからというだけではない。思えば、雷雨も荒れる海も戦場も、自分はどこかで親しみのようなものを意識していた気がする。雷雨と戦場はともかく、海とは縁がなかったように思うのだが。

俺の言葉に嬉しそうに微笑んだカロンがまた手を引く。今度はそれに引きずられるのではなく、隣に立って一緒に歩き出した。

「運転手さん、今度はどこに行くのかな?」

「カロンたちはあそこに行きます、ぶるんぶるん。あの中を通れば帰れるよ」

そう言いながらカロンが指さした先には、豪奢な屋敷があった。朱色を基調にした寄木細工のように幻想的な城堡(しろ)。そこに近づくにつれて暗い空は青く晴れ渡り、白い雲がたなびいて空気も温かくなる。整備された石畳を踏みしめて俺たちは屋敷の中へ入った。

意外だったのは、入ってすぐ出迎えるのが玄関ではなくリビングだったことだ。蝋燭が部屋の中をほんのりと優しく照らす。テーブルの上には料理が並んでいるが、よく見るとそれはオブジェのようだ。隅に飾られているクリスマスツリーが、ひどく、物悲しい。

リビングを抜けた先には奇特な部屋があった。クリーム色の壁にたくさんの鏡がかかっている。どれも曇っているように見えるが、よくよく見つめようとするとそれは確かに機能するようだ。映っている自分の姿は記憶にあるものと些か違うようだが。それはまるで、可能性を映し出しているような。

静かに息を呑み、傍らのカロンを見つめる。俺の目的は二人を取り戻すこと。そうしたらこの子は。ちらと視界の先に捉えた鏡の中で、自分は彼女と笑っていた。そして、そこには俺たち二人だけでなくほかにも何人かがいて。なんでもないような日々を穏やかに生きていくんだ。

鏡の部屋の一角は切り取られたようになっており、その先は蝋燭の光がぽつんぽつんと続く以外は暗闇に沈んでいる。

「ヴェル、あと少しだよ」

「そうか。……カロン」

「?」

振り返った彼女を抱きしめる。少しの間硬直してから、ゆっくりと抱きしめかえされた。

「今日のヴェルはあまえんぼ」

「悪いな…もう少しだけ」

「カロンは許してあげる」

「うん…ありがとう」

暖かかった。握りつぶしてしまいそうなくらい脆く、柔い。いずれ手放さなければならないとしても、いまはただ。この子を、カロンが、よすがだというなら。俺はそれを手放してはならないと、目を背けてはいけないと。とくとく、鼓動が聞こえる。

「…ありがとう。もう、大丈夫だ」

「じゃあ出発。終点は、もうすぐそこ」

今までと同じく、眼前に広がる暗闇もさして恐ろしいとは思わない。踏み入った床は木でできているようだ。微かに軋む床板にはところどころに血が垂れている。蝋燭の光がぼんやりと足元を照らす。歩みを進めるうちにそれがにわかに強くなって思わず目を閉じると、次に開けたときには「廊下」に変わっていた。「廊下」?なぜ……いや、思い出した。

いまの自分を見下ろす。俺は、地獄紀行の案内人。囚人たちと管理人を地獄へ誘う者。この先にあるはずの扉を開ければ、その役目に戻ることになる。あのトンチキ共の面倒をまた見る羽目になるのかと思うとため息が出そうになる。しかし、なぜだろう、本当に少しだけ懐かしい気分になった。

思い出したからだろうか、それほど歩くことなくバスに繋がる扉にたどり着くことができた。その前に佇んでいたのは。

「……ダンテ?」

思わず呼んだ名前に彼が振り向く。時計に置換された頭部は見間違えようがない。俺が導いている管理人は、自分たちを視認してあからさまに安堵した様子を見せた。

《よかった…戻ってこれたんだね》

「ッ!?」

理解できる。彼の時計の音が意味を成して受容される。自分は契約した囚人ではないというのに。

「うん。カロンはみんなと時計頭にお礼を言ってあげる」

《それはどうも。体調はどう?》

「とても疲れた。起きたらねむねむするから起こさないで」

「……ダン、テ。これは」

《ああそっか、ここなら私の声聞こえるんだね》

便利だな、と呑気な感想を宣う管理人を睨む。

「先ほどまでの状況についてなにか報告すべきことはないですか、ダンテ?」

《報告って言ったって…きみ、ずいぶん深いところまで落ちてたから、カロンしか潜れなかったんだよ。でもそうなるとまず帰れないからみんなで「こっち」までの道を必死で補強して。一番最初が危なかったけど、それさえ乗り越えればあとは勝手に上ってこられるし。めちゃくちゃ強いからね、ヴェルギリウス》

「………はあ」

《いやごめんて。感覚的なものだから私も説明しずらいんだよ。起きたあとならファウストあたりがもっとわかりやすく解説してくれるだろうから》

「それにせいぜい期待するとしようか」

「ヴェル、早く」

「ああ…待たせたな、カロン」

バスの扉に手をかけ、開く。眩い光があふれる。

《おかえり、ヴェルギリウス》

ただ一つ。この「声」が聞けなくなるのは、惜しい気がした。



目を開き、周囲の状況を確認する。懐に潜って眠っているのはカロン。ベッドの縁に時計頭の炎がちらりと見えた。場所、メフィストフェレスの私室。起き上がると床に囚人どもが転がって眠りこけている。寄り添って眠る7番と8番。5番を挟む2番と3番。おい12番、13番に関節技をキメようとするな。9番が6番に腕枕をしていて、11番と1番と4番は団子になっている。みな起きる気配はない。

「…ただいま」

一人、小さくつぶやいてみる。寝息だけが響く部屋の中で、それは確かに届いたのだろう。異口同音のおかえりが聞こえた。


𝑭𝒊𝒏.

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