夢の通ひ路

夢の通ひ路


「東風と氷解」「雪解けて、春。花芽吹く」とは多分別の世界線か時間軸

・12歳ぐらいのミヒャエル・カイザー

 ・完全に捏造

 



「食べられるなら良かった」

だんまりのままの自分に何が面白いのか、目の前の見慣れない青年は楽しそうに話しかけてくる。滑稽な独り芝居のようだが、自分を無視しているわけではないし、お人形のようにみているわけでもないことはちゃんと伝わってくる。

見知らぬ場所、見知らぬ人、聞きなれない言葉。初めは異国にでも売り飛ばされたかと思ったが、それにしては丁寧に扱われている。拘束も、暴力も、暴言もない。目の前の青年は何も強要してこない。食事だって、ただ自分が手を伸ばすのを待っていただけだ。

警戒するのが馬鹿らしくなるほど、目の前の男は何もしてこない。否、油断した所で暴力を振るうつもりかもしれないが、この食事が対価と思えば安いものだろうか。腕っぷしも強くなさそうなので、襲われても逃げ切れるだろう。

「じゃ、俺ちょっとこっちでやることあるから、なんかあったら声かけてくれ」

それだけ言うと、男は何かの紙に向かってペンを走らせ始めた。自分が男の意識の外に入ったのを理解し、息をつく。逃げようとも思えず、されどないかしたいことも思いつかず、ぼんやりと男と同じ部屋で、周囲を観察する。

雑多だが、ゴミが落ちているわけではない。細かな物は多いが、壊れている物はない。異臭もしない。与えられた服だって手触りが良くて清潔だ。先ほど食べた料理も、食べ慣れない味ではあったが、不味くはなかった。

周囲を見終わってしまい、男に目をやる。男はまだ仕事をしているようで、こちらを見ない。意識されていないので、じっくりと観察する。

自分よりも背丈は少し高いぐらいだろうか。見慣れない顔立ちは幼くも感じられるが、恐らく自分よりも年上で、この部屋を整えるだけの財力なり権力なりを有している。

(あれとは違う)

乱暴だったり、自身の感情に抑えが効かないような人間とは違い、生ぬるい空気の中に清涼な気配を感じる。悪意も害意もない。少なくとも、自分には。そういった空気を隠せる人間もいるのは知っているが、そういった人間とも違う。

「よし、仕事終わり!」

ぐっと腕を上げて、背筋を伸ばす男が、ゆったりとこっちを向いた。目が合う。

(怒鳴られる)

差っと目を反らすが、男は別に気分を害した様子もなく、また、特にそれについて何かを述べることもなかった。

「よし、晩御飯だ」

昼と同じように、温かい料理が出された。やはり、目の前の男はドイツのモノではないのだろう。俺の家ではなかったが、ドイツの夕食は冷たいものが多いと聞いたことがあるからだ。それ以前に、誰かと同じ席について料理を食べることもなかったが。

男は二本の棒を器用に操って料理を食べている。自分はフォークとスプーンを用意されていたが、手づかみで食べてもにこやかに許容されただけで何も言われなかった。

「うし、風呂入るか」

風呂とは何だろうか。男が初めて自分の居る空間から違う部屋に行こうとするので、慌てて後ろをついて行った。

「一緒に入るか?」

男が辿り着いたのは、シャワーと見慣れない四角い箱のある部屋だった。見慣れない四角い箱に水を入れる。

体を水で拭くのは寒いが、身がさっぱりするのも事実なので、頷く。男は笑顔でこちらに手を伸ばしてきた。

(殴られる)

咄嗟に、頭を庇う。だが、その手が俺の頭に伸びてくることはなかった。眼を開けると、男は何も変わらない笑顔で、俺を静かに見ているだけだった。

(殴られなかった)

服を脱いで風呂とやらに入る。シャワーから出てくるのは身を切るような水ではなく、温かなお湯だった。男が何かを手に取ってこすると、白いものが手に膨らんだ。それを、男は自分の体につけていく。体に害のあるものではなさそうだと判断して、観察する。

「やるか?」

俺が観察していることに気付いていたのか、誘われる。俺は素直に頷いた。

「~♪」

鼻歌を歌いながら男が泡を俺に付けていく。眼に入ると痛いらしく、髪の毛を洗うときは眼を瞑るように言われた。

(柔らかい)

丁寧に髪の毛を梳かれる。頭を触らせているのに、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、頭を手で丁寧に撫でられることが気持ちよかった。眼を瞑っているせいか、音や匂い、掌から男の感情がより強く伝わってきた。優しい、優しさを伝えてくる、温かい、傷つけない、柔らかなモノが、伝わってくる。

風呂から出ると、ぼんやりとソファに座った。ふかふかで、身を預けても体が痛くならない。すうっと体から力が抜けていく。視界が変わったせいか周囲を見ていると、とあるものが目に入った。

(似ている)

自分に似ているが、自分とは違う男がそこにはいた。怯えているばかりの自分とは違う、自信に満ちた笑みを浮かべている。

(誰だろう)

「ん?ああ、その写真か」

それを見ていると、男がそれを手に取って手元に持ってきてくれた。手に取って、近くで見る。やはり、その中にいる男は綺麗だった。

「これ、大きくなったお前だよ」

耳を疑うようなことを男は述べた。信じられなかったが、男の口調はただ事実を述べているだけで、騙そうとする気配は感じなかった。

(俺が?)

だが、信じられなかった。薄暗い世界で、暴力に怯えて、盗みを働いている自分が、こんな煌びやかな人間になれるとは到底思えない。

「うーん、今のアイツと被るしなあ」

何だろうと、隣に座った男を見る。口元に手を当てて、軽く、特に何も考えず、ただ、その方が便利で、当たり前だという風に。

「ミヒャエルって呼んでいい?」

何を言われたのかが分からなかった。それが自分の名前だと認識しているが、こんなに温かに呼ばれたことは無かったから。

「うーん、嫌?でもカイザーだと今のアイツと被るんだよなあ」

「ミヒャエル」

「ん?」

「ミヒャエルでいい」

「そっか。ありがとうな、ミヒャエル」

名前を呼ばれただけなのに、すごく心が温かくなる。くすぐったい気分になる。体がホカホカとして、頭がふわふわする。凄く、目の前の男が綺麗に見えた。

「名前」

「ミヒャエル?」

「お前の、名前」

「俺?潔世一、ヨイチ=イサギ。ヨイチがファーストネームで、イサギがファミリーネームな」

「ヨイチ」

少し男と発音は違ったが、ミヒャエルの拙い声でも、男は花が咲いたように笑った。眼を奪われる。

いいこ、と男が自分に手を伸ばそうとして、止まる。だが、ミヒャエルが自分から男の手のひらに頭を擦り付けると、褒めるように撫でてくれた。

手を伸ばすと、抱きしめられる。何度も何度も名前を呼ばれて、頭を撫でられて、体を抱きしめられる。男の心臓の音が、包み込むようにミヒャエルの心臓の音と同期する。1つに溶けてしまうような体温が、心地よかった。

「大きくなったら、ヨイチと会うのか」

「あ~。うん、まあ、会えるだろ」

「何かあったのか?」

「まあ、ちょっとな。でも、俺にとっては必要なことだから。会えなくても、見つけに行くよ」

「そうか。なら良い」

何をしたのかはわからないが、それでも、ヨイチにとって必要であるというのなら、見つけてくれるというのなら、問題はない。この一時を忘れてしまっても、いずれ巡り会うと思うと、それだけで地獄を歩める気がした。報われると分かっていれば、耐えられる。

「待っていろ、ヨイチ。お前に逢いに行ってやる」

「おう。待ってるよ、ミヒャエル」

 

 

汚い部屋だ。薄暗い部屋だ。酒を飲んだくれる 男が、怒鳴り散らす。

何か、温かな夢を見ていた気がする。

ミヒャエルと、呼ばれたこともない音階で自分の名を呼ぶ声を聞いた気がする。

(…ヨイチ)

聞きなれない音が、舌の上で転がる。何を指しているのかも、誰の事なのかもわからない。それでも、自分にとって重要な音だと、何故か理解していた。

抱きしめられたこともないのに、体が暖かくなる気がした。きっと、この声が自分にとっての福音で、この音が運命なのだと根拠もなく思った。

 

いつか、運命に巡り合える。その日が来ることを、ミヒャエル・カイザーは確信していた。

 

 



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