夢のような世界で・前
一二一それを見た瞬間、これは夢だと思った。
だってその船はもうこの世には存在していなくて。
二度と見ることができない筈だったから。
深海へと沈められたのを映像越しに見ていたから。
だから悪夢じゃない幸せな夢の中におれはいるのだと思ったのだ。
ローは幸せな夢なんてずっとずっと見ていない。見ることができたのは、実際は見たわけでもない仲間達がドフラミンゴに殺される光景。死なせてしまった人達からの罵声、怨嗟の声。あの敗北の日のフラッシュバック。
それから───。
『全部あんたのせいだ』
『テメェのせいでおれ達は死んだんだ』
『どうして貴方だけが生きているの?』
暗闇の中で、血に染まった仲間達が。
巻き込んでしまった同盟相手が。
憎々しげにローを睨みながら罵詈雑言を浴びせてくる光景を何度も見た。彼らがこんな事を言うはずがない、と以前なら断言出来たのに。心も身体も限界まで擦り潰された今のローには最早判断が出来なかった。
現実の延長線上のような拷問の日々も夢に見ることもあった。どちらが現実でどちらが悪夢なのか、区別が付かない時もあって一体どれだけ絶望しただろう。
だから───光が溢れる中で黄色の船体が見えた瞬間、ローの目からは涙が溢れていた。
太陽に照らされた青い海に浮かぶ懐かしい潜水艦がそこにはあって。
嗚呼、青い海を久しぶりに見た。
太陽の日差しの熱を久々に感じた。
これはきっと幸せな頃の夢なのだ。
今もきっとローの身体はあの狭い鳥籠の中だろうけど。それでも、こんな色彩に溢れた夢なんて本当に久しぶりで。
自然とローの身体は船へ近づくためにフラフラと歩き出す。ドフラミンゴに着せられた白いフリルシャツの右袖が振動でひらひらと揺れる。動きを制限する硬いズボンも、足を締め上げるよう履かされたブーツの痛みも、今は感じない。
もう一度だけ会えるなら。
いや、元気な姿を一目見れたら。
ただそれだけでよかった。
「もう戻ってたんですね、キャプテン」
背後から、クルーの明るい声がした。
もう二度と聴けないと思っていた声。
その声にいつもの幻聴と違って憎しみの感情は乗っていない。ずっとずっと、会いたかった。ローは夢でさえまともなクルー達には会えなかったから。
こんな声を聞けることなんてなかったから。
振り返って、いいのだろうか。
失望されるかもしれない。
だって守れなかったのだ。
あの男に勝てなかったせいで、死なせてしまった。ああでもこれは夢なのだから、何をしたっていい筈だ。ならごく普通の会話だって出来るかもしれない。
そう思って、涙を少し拭ってから左側から振り返る。
右からじゃなかったのは腕がない事を悟られたくなかったからだ。これが所詮夢だとわかっていても、慕ってくれるクルーの前で右腕がない姿なんて見せたくなかった。
「────ペン、ギン。………意外と、早くようじが済んだんだ」
そして、そこにいるペンギンを見た。
ハートの海賊団の白のツナギに身を包み、特徴的な帽子を被ったその姿。
なにもかもあの頃のままだった。
「そうなんですね。ベポと本屋行くって言ってたからもっと掛かると、思って…て……」
だがペンギンの声が不自然に途切れる。
先程まで笑顔を浮かべていたその顔が見る見るうちに強張っていくのが見えた。
ローには何故ペンギンがそんな表情をするのかわからなかった。
暴力が日常的になっている今のローにとって、顔の怪我も痛みも最早気にするものではなくなっていた。だから顔にある傷のことも忘れて、普通に対応しようとしたのだ。
「一体なにがあったんですか!?」
「……な、なにがって」
「あんたが顔にそんな傷を負うなんてッ、相手は!?いや……そんな事より! 手当しましょう手当!」
もっと傷をよく見せろと、正面に回られてペンギンから無理矢理帽子を取られてしまう。
そしてペンギンは驚愕に目を見開きながら顔を青褪めさせていく。その表情を見てようやく、ローは今の自分の姿を思い出した。
白い色の混じった伸びた髪に、血塗れの顔面。青痣や細かい傷が幾つも顔にあって、きっと隈も酷いに違いない。ない方が好みだからと、髭ともみあげを剃られた。
ペンギンの視線が顔から下へと下がっていく。
レースとフリルの付いた白のドレスシャツが首元まで覆い、中身のない右袖は風に揺れていてそこに右腕がないという事を主張していた。足をピッタリと覆う硬い生地で作られた黒いズボンの上から、膝下までピンクの紐が目立つ編み上げブーツを履かされているのがアンバランスで。
仲間達と旅をしていた頃とあまりにかけ離れた容貌。
そんな姿を、見られたのだとようやく気付いたのだ。
「……ぁ、…………」
「なん、何が……え…………は?」
───見られた。
見られて、しまった。
どうして夢なのに上手くいかないのだろう。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「す、まねェ……」
気がつけば、口から出ていたのは謝罪の言葉で。
───ドフラミンゴに負けたことか。
───こんな惨めな姿を晒したことか。
───クルー達に尊敬されるキャプテンでいられなかったことか。
何に対して謝っているのかロー自身わからないまま、無意識に左手で右腕の断面を強く強く握りしめていた。
「なに、を…謝ってんですか…!? とッとにかく今は治療を…怪我の治療しないと…!!」
「わる…かった……」
ローは再び謝り、地面に膝をついた。
こんな姿を見られたくなくて、小さくなるように蹲る。
どうせ目覚めたらなかった事になる。
治療なんて意味がない行為だ。
「キャプテンッ………ローさん!!」
蹲るローを見ても、見捨てずにいてくれるペンギンの優しさが嬉しかった。
嘲りも何もない言葉を掛けられるなんて本当に久しぶりだったから。
「(でもこれは夢だ………)」
いつかは終わってしまう夢なら、自分の好きなタイミングで終わらせたい。
夢の中だからか、今のローの首にも腕にも海楼石の枷はない。
ならば今なら使える筈だ。
左手に力を込める。
見慣れた、青いサークルが現れた。
それに安堵しながら、ローはサークルを限界まで大きくする。
とにかく広く、広く。
「!!! 待てよッ!あんた何して───」
「………“しゃん…ぶるず”」
震える指を捻れば、一瞬で景色は切り替わった。目の前にいたペンギンは消え、ローの身体は太陽の輝く外から薄暗い室内へと投げ出されていた。
衝撃で床へと倒れ込む。
「ぐゥ……づ……アアッ!!」
ただでさえ体力がない中で能力を使った反動が来たのだ。それに加えて、さっきまでは忘れていた全身の痛みが一気に戻ってきた。
ローは身体をくの字に折り曲げて、痛みに耐える。それと同時に、こんな激しい痛みでも夢から目覚めない事に恐怖も芽生えていた。
「くそ…くそっ……早く起きろよ…もういやだ……」
夢なら早く醒めてくれ。
そう思うのに。こんなに痛いのに、景色は変わらない。薄暗くて、目に見える範囲で何か大量の荷物が積まれている部屋のままだ。
いつもであれば。普通なら目が覚める筈なのに、一向にその気配はない。むしろだんだんと意識がハッキリとしてくる。
───もしかしてこれは、夢じゃなくて現実なんじゃないか?
そんな馬鹿なことを考えてしまいそうになってしまう。
あの逃げ場のない空島から、奴の元から逃れられたのだと期待してしまう。
「(でも、そういえば───この場所に来る前はおれはなにをしていたんだっけ…)」
ローがそう考えたとき、ガチャリという音と共に光が部屋に差し込んだ。