夜雨

夜雨



真夜中の埠頭。

鳴かぬ魚と波間に揺れる船たちは沈黙を保ち、耳に届くのはざあ、と潮が引く音だけ。曇り空は月と星の光を仄かに覆い隠し、辺りは深い闇に閉ざされている。歩き慣れた道であるとはいえ、万が一落ちてしまえば大事だ。アイスバーグは懐中電灯の細い光を頼りにゆっくりと海の方へと進んでいく。

草木も眠る丑三つ時、本来ならばこんな時間に出歩くことなどない。だが今日ばかりは事情があった、いや出来たのである。


こつ、こつと石造りの路を進み、目当てを見つける。黄色のセーターと黒いズボン、何時も羽織っている上着はその肩には見当たらない。夜の海に出掛けるにしては随分と薄着な格好で彼は───服部ヒョウ太と名乗る少年は、ぼうっと海を見つめていた。


「……ヒョウ太」

背後から声を掛けると、体を跳ねさせて彼はこちらを振り返った。手元の微かな明かりではヒョウ太を照らすことは出来ずにいたが、それでもどうしてここにいるのかという顔をしているであろうことは分かっていた。

「アイスバーグ、さん……なんで」

「今日はたまたまガレーラの社宅に泊まり込んでたもんで、お前が出掛けてくのを見つけた。ンマー、それで心配になって追いかけてきたんだよ」

何せこんな時間だ、と天を仰ぐ。今にも雨が降り出しそうな分厚い雲に覆われた空は相変わらず暗く、星ひとつ見えやしない。


……アイスバーグが社宅へと泊まっていたのは単なる偶然である、それは間違いない。だが、ヒョウ太が出ていくのを見かけたのは、そしてその後を追い掛けたのは自身の胸騒ぎが原因である。

虫の知らせとでも言えばいいのだろうか、今日に限ってどうにも眠れずにいたのはきっと、目の前の少年を──昼間にはそんな様子は一切見せずに笑っていたというのに、今は海へ飛び込んでもおかしくないと思わせるような雰囲気を纏った服部ヒョウ太をこのまま放っておいてはまずいと、本能的に感じ取っていたからかもしれない。


「ほら、戻るぞ」

そう言って手を差し出すと、ヒョウ太は少し躊躇う素振りを見せた後にそろりと握ってきた。陸風を受けていたからだろう、ひんやりとした感触の手を引きながら、来た道を戻るように二人足を進める。

ざざん、と波の音だけが響く中、ぽつりと小さな声が聞こえた気がして、アイスバーグは立ち止まった。少し遅れて、ヒョウ太の足も止まる。緩く結ばれていた手はあっさりと解かれた。

アイスバーグよりも少しだけ前に出た彼の揺れる髪が、そこにあるはずの表情を隠していた。


「……聞かないんですか、理由、とか」

凪いだ声。普段より低く、落ち着いた音程がぽつ、と落ちる。

「ンマー……お前が話せるのなら、な」

俯きがちな背中が紡いだ言葉に、静かに答える。彼の抱える問題は、アイスバーグが知っている限りのことだけであってもどうしようも出来ないものであるから、無理に聞き出すとは無責任であると分かっていた。


───異世界から来た少年。それが、服部ヒョウ太の持つ事情である。

たった十四歳の少年が、ある日突然知り合いなど当然いるはずもないこちら側の世界へ帰る方法も分からぬまま放り出された。普段のおちゃらけた振る舞いからは見えずにいるその心労は、アイスバーグには途方もないものであるように思えた。


「……夢を、見たんです」

ヒョウ太の声は震えていた。


「この世界の方が本当は夢で、少し眠っていただけだ、と。パウリーも、アイスバーグ先生も、おれのことをちゃんと覚えていて」


一人称が変わっていること、そして突然出てきた自分と部下の名前に目を見開く。……そういえば、ヒョウ太と会った最初の頃に、先生と呼ばれたことがなかったか?

疑問が生まれこそすれ、しかしアイスバーグは何かを言うことなく、ただ黙って話の続きを待つ。



「……だが、……ッだが!目が、覚めた、こちらが現実なんだと、嫌でも、改めて理解したッ!!誰もおれを知らない、この世界が……ッ!」


ぽた、と、雫が地面に落ちた。

雨だ。ぽた、ぽつと降り始めたそれは、瞬く間に勢いを増す。立ち尽くす二人に、ざあざあと叩きつけるようにして降り注ぐ。



「……海だけが、同じだったんだ。帰りたい……帰り、たい……」

ふ、と握りしめられた拳が開く。静寂を薙ぎ払った土砂降りの雨の中で、その声だけが鮮明に響いた。



「ヒョウ太、」

「ッ違う!!!」

掛けるべき言葉を探そうと口を開くが、思い付かないまま。彷徨う声の行き場所として名前を呼んで、それすら否定されたアイスバーグは思わず口を閉ざす。


「……ヒョウ太じゃない、違ェんだ」

振り返った少年の顔には、雨が伝って流れ落ちている。それが本当は何であるのかなど、判別することは出来なかった。



「…………服部ヒョウ太なんて人間は、存在しない」



「……なに?」 

思わず眉を寄せ、感嘆なのか疑問なのか自分でもよく分からない符が溢れる。それに答えずに、今までヒョウ太と名乗っていた少年は眉間をぎゅうと顰めていた。

息すら荒らげ、瞳孔は狭く。酷く錯乱した少年が、吐き出すように叫ぶ。



「ヒョウ太は演技でしかないはずなのに、何一つとして本当はねェってのに!元からおれなんかいなかったんじゃないかって、おれの頭がおかしくなっただけなんじゃないかって、不安で堪らなくなる……!」


何故演技をしていたのか。何故偽名を使っていたのか。それは、今はアイスバーグが考えるべき問題ではなかった。

───彼の言うように。服部ヒョウ太が演技であるならば、確かにそれは完璧であったのだろう。まるで本物であるかのように、ヒョウ太という存在は周囲に認識されていた。それだけに彼は、自分自身の存在を疑うに至るまで追い詰められていたのか。



「……じゃあ、お前は。お前の名前は?」

思わず問う。今の精神状態の少年にとっては何が劇薬となるかすらも分からないが、それでも聞かねばならないと思ったのだ。





「……おれ、は、……ロブ・ルッチ。なあアイスバーグさん、頼む、おれを、ルッチと呼んでくれ……」

「ああ分かった。ルッチ、大丈夫だ。お前はルッチだ」



告げられた名に、驚愕はあった。困惑もあった。

ガレーラカンパニーの元職長、裏切り者のCP9。知己の名前と寸分違わぬそれに、動揺しなかったと言えば嘘になる。

けれど。もしもそれに戸惑って言葉に詰まってしまえば、目の前にいる少年は壊れてしまうかもしれない。それに比べればこのような感情は些細なことであるのだとアイスバーグは切り捨てて、間髪入れずに名を呼んだ。



「安心しろ、ルッチ。お前はここにいる。お前のことは、おれが証明してやるから」

俯いたルッチの手を強く引く。抵抗はなく、アイスバーグよりも少し小さな躰は腕の中へ収まった。

「……ッ先生、アイスバーグ先生……!」

雨の中、内側から濡らす嗚咽が収まるまで。アイスバーグは暖かく、守るべき幼い子どもを抱きしめていた。

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