夜を束ねて朝になる(後編)
(ここ、どこ……?)
ぱちり、と目蓋を開けて、スレッタは数度瞬きした。
暗い。陽の光が見当たらない。ぼんやりとした灯りが見えるが、あれは蝋燭の灯だろうか。
朧げな記憶を辿り、今の状況を整理しようとするスレッタに、冷たい声がかけられた。
「お目覚めかい、嘘吐きサキュバス」
ひゅ、と息を呑む。
声の方を振り向けば、そこには凍りついたような無表情のエランが立っていた。
「えっ、エランさん……!あの、」
「ここは教会の地下牢。僕以外に存在を知る人はいないから、誰かに助けてもらえるなんて考えないほうがいいよ」
「そんな……」
誰かに助けてもらえる、なんて。
スレッタはそんなこと考えていない。ただエランと話したいだけなのに。
エランに少しも想いが伝わらないことが悲しくて悔しくて、瞳にじわりと涙が浮かぶ。それを冷たく一瞥して、エランは言葉を続けた。
「言っただろ、『死ぬまで犯す』って。君は一生、この地下牢で僕に陵辱されながら過ごすんだよ」
「エランさん、待って……!話を聞いてください!私は、」
「サキュバスの甘言に耳を貸す神父がいると思う?君は僕を騙していた、それが真実だろ」
「ーーっ!」
スレッタは強く唇を噛み締めた。ただエランの側にいたくて、この人が好きで一緒になりたくて、それだけだったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。こんなことなら最初に自分がサキュバスであると話しておけばよかった。それでたとえ祓われてしまったとしても、今のような、こんな──心臓を凍った刃で千々に切り刻まれるような痛みよりは、遥かに良かっただろう。
踵を返して去っていくエランの背を見つめながら、スレッタはぽろぽろと大粒の涙を零し続けた。
そうしてスレッタは監禁され──異変はすぐに表れた。
(また、呼吸が浅くなっている……!)
ひゅう、ひゅうと苦しげな呼吸音を聞きながら、エランはぎりと歯噛みした。その眼前には、真っ青な顔で眠るスレッタがいる。
スレッタを地下牢に監禁して、僅か数日で異変は起こった。毎日のように神父の精を飲ませていたというのに、スレッタが弱っていったのだ。
血色の良い頬からは血の気が引き、鈴の音のような軽やかな声は途切れ途切れになり、宙を映したような青い瞳は伏せられるようになった。
みるみるうちに衰弱していくスレッタに、エランは焦った。
神父としての仕事も半ばで放り出し、半日かけてスレッタを抱いて精を大量に注ぎ込んでも、スレッタは回復しなかった。
教会にある書物を片っ端から読み漁っても、サキュバスを回復させる方法などどこにも載っていなかった。
考え得るありとあらゆる手を尽くしても弱っていくばかりのスレッタを前に、エランはもはや途方に暮れていた。
「スレッタ……」
「えら、ん、さん……」
ぐ、と細くなってしまった手を握ると、スレッタが薄っすらと目蓋を開ける。どこかぼんやりとした声に名前を呼ばれて、エランは思わず唇を噛み締めた。
(スレッタ、君が回復しないのは、僕が、)
──自分が、本物の神父ではないからか。
胸の内で問いかけて、けれどエランはそれをスレッタに聞くことができなかった。
エランは本物の、正式に認められた神父ではない。前神父の跡を継いだようなものとはいえ、きちんと学んだわけでもなければ、正規の手続きを踏んで洗礼を受けたわけでもない。
そんな紛い物の精を食らったから、スレッタは弱っているのではないか。
その可能性は、早いうちからエランの脳内に存在していた。それに気付かないふりをしていたのは、エランがそれを認めるのが怖かったからだ。
(僕は、君の餌にもなれないのか)
ふう、ふうと浅い呼吸を繰り返して上下するスレッタの胸を眺めながら、エランはその手を強く握り締めた。
だって、ずっと一緒にいられると思ったのだ。
自分の精を飲ませている限り、スレッタは健康体のまま自分の側にいてくれると、エランはそう思っていた。淫魔を監禁して手篭めにする神父など、天が許すはずもないのに。
それでも、それでもこうすれば、ずっとスレッタと一緒にいられるのだと、そう思っていたのに。
「スレッタ」
エランは俯いた。ぽたりぽたりと、黒い祭服に水滴が落ちて染を作る。
この涙がスレッタの栄養になってくれたらいいのにと考えながら、エランは一晩中スレッタの手を握り続けた。
♦︎♦︎♦︎
「ん……」
柔らかく髪を撫でられる感覚がして、エランはそっと目蓋を開けた。
いつの間にか眠っていたらしい。スレッタの胸元に顔を埋めるような形で眠ってしまっていたことに気付いて、エランの意識は一気に覚醒した。
弱っているスレッタを枕にするなんてと青褪めるエランを安心させるように、小さな手がゆっくりとその頭を撫でる。それがスレッタの手だと気付いて、エランは動けなくなった。
「だいじょ、ぶ、ですか……?」
弱々しく震える声が、エランに語りかける。一瞬何を言われているのか理解できなくて、エランは呆然としてスレッタを見た。
スレッタの瞳は柔らかく潤んでいて、それが真っ直ぐにエランを見つめていた。
「えらん、さん、ずっと、くるしそう、だった、から……。おてつだい、できなくて、ごめんなさい……」
途切れ途切れに告げられる言葉の意味を咀嚼して、エランは目を見開いた。
(ぼくの、心配を、してるのか)
スレッタの言葉は、ただ一心にエランを想っていた。
自分を無理矢理犯して監禁し弱らせている相手にかけるそれとは思えないほど、スレッタの瞳は優しく柔らかくエランを見つめている。何も言えなくて唇を噛み締めるエランに、スレッタはそっと手を伸ばした。
「えらんさん、えらんさん……。くちびる、かんじゃ、だめです。きず、ついちゃいます」
震える指先が、ちょんとエランの唇に触れる。そのままついと唇をなぞって微笑まれて、エランはもう堪らなくなって俯いた。視界に入るスレッタの肢体の細さに、エランはぐっと拳を握りしめ──一度だけ目蓋を閉じてから、ゆっくりと開いた。
カチャン、と音がして、スレッタの拘束が解かれる。
不思議そうな顔をするスレッタの頬を撫でながら、エランは小さく呟いた。
「……好きな男のところに、行っていいよ」
その一言を絞り出すのに、エランの胸が切り裂かれるような痛みが走る。どこにも行かないで、そばにいてくれと叫ぶ心を抑えつけて、エランは言葉を続けた。
「君一人で動くのが難しいなら、僕も手伝うから。隣町の、神父を、……紹介してもいい」
許されないようなことを言っている自覚はあった。サキュバスに餌を紹介する神父など聞いたことがないし、ましてや同じ神父を贄として差し出すなど、決してあってはならないことだ。
けれど、──けれど、それでも、たとえ地獄に堕ちるとしても、エランはスレッタに生きていてほしかった。
かたり、と微かな音がして、ゆっくりとスレッタが起き上がる気配がした。
スレッタはふらりと一瞬よろけて、──ぎゅう、と飛びつくようにエランに抱きついた。
「……!?」
「えらん、さん」
耳元で名前を呼ばれて、エランは目を見開いた。
触れ合った箇所から、じわじわとスレッタの体温が伝わってくる。とくんとくんと心臓の鼓動が感じられて、エランは知らず涙を流した。
ぎゅうと抱きついて離れないスレッタの身体を、エランが恐る恐る抱きしめ返す。それにスレッタが嬉しそうに微笑んで、ちゅ、と触れるだけの口付けをした。
「すき、です。エランさん」
「あなたの側にいるだけで、お腹も心も満たされて、幸せで、いっぱいになるんです」
「他の人のところになんて、行きません。私はあなたの側にいたいんです。……たとえ、それで死んでしまうとしても、構いません」
「そうして、あなたにこの命を捧げることができたらなら、──私の言葉は、あなたに届きますか……?」
スレッタは静かに涙を流していた。
大きな瞳から溢れ零れる大粒の雫は、薄暗い地下牢の僅かな光を受けてきらきらと輝き、スレッタの宙色の瞳を彩っていた。
それはまるで星の欠片のようで、エランは息も忘れて見惚れてしまっていた。
数秒その輝きに見惚れてから、エランはそっと指を伸ばしてその涙を拭った。スレッタが受け入れるようにして顔を傾けるのに、どうしようもなく胸が締め付けられて、エランはスレッタを強く抱きしめた。
「ごめん、スレッタ」
「私も、黙っていてごめんなさい」
「君が好きだ。大好きだ、スレッタ」
「私も、あなたが好きです。大好きです、エランさん」
「どこにもいかないで。ずっとそばにいて」
痛みを感じてしまうほど強く強く抱きしめて、エランはずっと告げたかった言葉をようやく口にできた。
くしゃりとした笑顔で応えてくれるスレッタの言葉が嬉しくて、抱きしめ返してくるスレッタの腕の力が、徐々に強く確かなものになっていくのが嬉しくて、エランはぽろぽろと涙を溢した。
♦︎♦︎♦︎
「スレッタシスター、またねー!もう風邪ひいちゃだめだよ!」
「はい!ありがとうございます」
夕暮れ、大きく手を振って帰路につく信徒たちを見送りながら、スレッタは微笑んでいた。やがてその影が見えなくなってから教会に戻ると、黒い祭服を纏った若い神父が待っている。
スレッタはぱあっと顔を明るくして、神父に駆け寄った。
「神父さ、──エランさん!」
「お疲れ様、スレッタ」
二人きりの教会で、スレッタは甘えるようにすり、とエランに抱きつく。ぎゅうと抱きしめ返してくれるエランの手が、徐々に下に下がっていくのに気付いて、スレッタの頬がぽっと赤らんだ。
「スレッタ、……お腹、空いてない?」
「……はい♡」
スレッタの耳元に唇を寄せ、低い声でエランが囁く。その言葉にうっとりと瞳を蕩けさせたスレッタの腰を抱きながら、二人は教会の奥へと溶けていった。