夜は短し
カーテンの隙間から差す月明かりが、瞼越しの視界をスクリーンのように白く照らしている。
とろける微睡みに身を委ねたまま、色褪せない思い出に浸っていた。完全記憶能力を持つノアは、なにも忘れることがない──夏風のひと吹きも、鼓動のひと跳ねも、なにひとつ。彼女にとって夢とは思い出の再上映だった。
──物語みたいで。
ユウカちゃんから話を聞くたび、ほんの少し羨ましかった。
幼い頃、自室の窓を開けてもあるのは壁だった。正確には上に庇(ひさし)と下に軒(のき)、更に言えばノアの家は天井が高い方だったようで、目の前の壁から少し上に視線を向ければ空も見えた。
しかし、子供の目には壁も空も大差ない。自分の部屋、リビング、教室、家族、クラスメイト。全世界と全人類が三つの部屋と二つの人種で出来ていて、その外側は背景だった。
そんなノアを知らない場所へ連れ出してくれるのが本だった。竜の飛び交う魔法の世界、探偵が事件を暴くミステリー、少年少女の甘い恋。
かすかな月明かりと共に文字を追う。映画のスクリーンのように情景が浮かぶ。何も忘れないとは、呼び起こされた空想すらもだ。彼女にとって読書は『誰か』の追体験だった。
主人公は夢に向かって邁進する直向きな少年だ。努力を欠かさないけれど、没頭するあまり身の回りのことを疎かにしてしまう仕方ない人。彼には幼馴染の女の子がいる──クラスメイトの女の子がそんな話をしていたっけ、とノアは思い出して、重ねていた。
ユウカちゃん。頭が良くて、算数が得意。融通が効かないようでいて、気づけばしょうがないわねと折れてしまう。優しい子なんだと思う。今日の帰り道、あまり話したこともない自分となんとなく一緒になったときも、間が持つようにあれこれお話してくれた。
毎日起こしてあげなきゃ学校サボっちゃうんだから。まったくもう、私がいなきゃダメなんだから──そんなエピソードのひとつひとつを聞くたび、ほんの少し羨ましかった。
『ものがたり、みたいだったなぁ』
羨ましいと思う、だけの自分だった。
ページをめくる。物語が進む。最後は夢を叶えてふたりは結ばれハッピーエンド。溜息と共に閉じた表紙を撫でて、撫でて、そっと手を置いた。
『もういちどひらいたら──』
私の物語も、始まらないかなぁ。
──とん、と。
物音がして──
「──……ん」
物音、というよりは足音だろうか。外から……いや、屋根だ。屋根を歩く音。
知っている音。
「……ふふ、まったく。仕方ないんですから」
ノアは隣のベッドで眠るユウカを起こさないように、こっそりと部屋を出た。
ノアは幼馴染の部屋に入る。案の定もぬけの殻。ユウカがいなくて心配したりだとかがあったのに、さっきの今でこれだから仕方のない人だ。
だから、自分のすることも仕方ない。
「ですよね、──くん」
ノアは屋根へ上がった。
「……ノア? 何をしてるんだい」
果たして、彼はそこにいた。
トラベラーズノートに万年筆で書き付けながら、彼は屋根の上で壁にもたれてくつろいでいた。
「……夜中に屋根へ上がる悪い人がいたもので、つい」
「ついで屋根に上がっちゃ危ないだろう。きみ、アスレチックに行ったら1ミリの段差で蹴躓くじゃないか。こんなとこにいたら転げ落ちちゃうぜ」
「『こんなに綺麗な外が悪い』ですよ」
「……純真無垢だったノアがすっかり穢れてしまって悲しいよ。誰のせいだいまったく」
「時代に逆行してアナログを愛する物書きさんのせいですね」
「モモイのせいか。ぼくの知る限りレトロゲーやアナログを嗜むシナリオライターはあいつだけだ」
「その物書きさんは純情で、自分の書くシナリオにヒロインとして好きな人を出しちゃうんですよ」
「なんだ、ミドリの方だったか。ユウカに伝えたらゲーム開発部もいよいよだね」
「言えるんですか?」
「…………それで、どうしてこんなところに」
「ふふ」
ひねくれてるようでわかりやすい幼馴染に小さく笑い声を漏らして、ノアは彼の隣で膝を抱えた。
「懐かしくなって」
「……さいで」
「びっくりしたんですよ? 本を読んでたら、いきなり窓から男の子が顔を出して。そのまますいすい屋根まで登ってしまうから、驚いて声も上げられなくて」
「……知ってるよ。驚きすぎて声が出たのは翌日ユウカの目の前でと来た。こっ酷く怒られた」
「知ってます」
あの日、月明かりを遮って彼が現れたから、ただのクラスメイトが幼馴染になった。
あの日、月明かりの差す窓の外へと世界を開いてくれたから、この物語が始まった。
「……ユウカの家に行き来するので慣れたから、屋根を伝って天体観測くらいできると思ってたんだよ。軽率だったとは思ってる」
ユウカと彼の物語の、脇役として。
「反省はしてないですよね?」
「もちろん。ネタになるならどこだって行くよ。ぼくはまだ知らないことが多すぎる」
彼の目は夜を吸い込んで深く、しかしキラキラと輝いている。幼い頃に読んだ本の主人公と同じ顔で遠くを見る横顔にちくりと痛む胸を知らんぷりしながら、ノアは笑みを作った。
「あんまり遠くへ行っちゃダメですからね。ユウカちゃんだっていつも捕まえられるわけじゃないんですし、そのままふたりでどこかへ行っちゃったり──」
「しない」
あっさりと言い切って、彼は振り向いた。
輝きをいっぱいに蓄えた瞳が笑みに細まる。
「置いてかない。きみが待ってるだろう?」
一瞬だけ、頭が真っ白になった。ノアは唇をきゅっと結び、むずむずと噛んで、それから大袈裟に溜め息を吐く。
「……ユウカちゃんに言ってあげてください」
「え、なんでだい。いっそ三人で住んじゃいましょうかって最初に言い出したのは──」
「そんなことばっかり覚えてないでくださいっ」
ひ弱なスイングでペっちんと朴念仁の頬を叩いて、ノアは少し危なっかしい足取りで室内へと戻った。
アルコールティッシュを拝借してきちんと足を拭き取る間も彼が追ってくる様子はない。変なところで頭が回らないからどうせ困惑しているのだ。ぷりぷり怒りながら廊下を歩き、寝室に戻る頃にはなんだかおかしくなった。
完全記憶能力を持つノアは、なにも忘れることがない。本の表紙に触れて焦がれたあの夜も、月明かりの下でときめいたこの夜も。
「……眠れなかったら、どうしてあげましょうか」
ベッドに倒れ込む。微睡みはすっかり遠い。