執筆中のやつ
※ATTENTION※
・これを経験したトラ男なので正当なヤンデレ(正当なヤンデレとは???)
・散々曇らせた責任を取るべくオチはハッピーエンドにする予定ですが、執筆途中故に今回は全然不穏な尻切れトンボ
・前作読まなくても全然普通に通用するSNOW本編なので過去作はぽくぽくちーんで忘れてもらっても大丈夫なやつ
・例によって何でも許せる人向け
灰白の空が冬島を覆っていた。
獣の気配ひとつない、目眩がするほど透明な銀世界。天からこぼれ落ちる玉屑が大地に広がり、無窮の雪原に変化する。耳鳴りにも似た静寂を見下ろす、星ひとつない曇り空。鬱蒼とした森も、高波が打ち寄せる岩肌も、全てが青白い霧雪に包まれ、その姿を霞ませていた。
停滞した空間に亀裂が走る。
ブウンという音が響き、深青の光がじわりと広がった。光が薄青くほどけた瞬間、新雪の上に人影が投げ出される。
現れたのは背の高い男だった。身に纏った白いシャツは歪に裂け、痩せた手足を無防備にしていた。虚空を眺める横顔には深い慟哭の痕が刻まれ、彼を実年齢よりも老け込ませている。
「ここ、は」
老爺のように枯れ果てた声。彼はよろめきながら身を起こし、乾いた目で空を仰いだ。
そこにはなにもなかった。しんしんと降りそそぐ冷たい花弁だけが、停滞した時を動かす全てだった。網膜に焼きついたままの赫灼も、魂を炭化する熱波も、ここには存在しない。
ゆっくりと息を吸う。
肺を凍らせる冷気が全身に満ち、手足の先が痺れ、やがて刺すような痛みに変化する。彼の思考も、同じ速度で凪いでいく。蜂蜜色の瞳には、ここではない場所が映し出されていた。
大海原を往く一隻の船。男に背を向けて凛と立つ小柄な少女。風に揺れる黒髪と、真新しい麦わら帽子。鼻腔をくすぐる陽だまりと潮風の匂い。抱き寄せようと手を伸ばした途端、意識が現実に引き戻された。
風が強く吹きつける。地面から舞い上がった雪が視界を遮る壁となり、世界を白く染め上げた。あらゆる音が雪壁に呑まれる。
悲しくはなかった。苦しくもない。ただ、魂にこびりついた奈落の空洞から、絶望と虚しさだけがひゅうひゅうと吹き込んでくるようだった。
次はないのだと突きつけるように、昏い穴は失ったものを主張していた。彼に遺された慈しい言葉の全てが冷たい雪の中に埋もれて、見つけることが難しくなってしまったように。
男はため息にも似た声を漏らした。泥濘に濁る金眼が力なく揺らぎ、瞳孔の奥で柔らかな光が幽かに閃く。
「そうだよな」震える声が喉から滑り落ちる。
「夢じゃ……ねェんだ……」
幼子のように両手を広げて見下ろす。そこには黒ずんだ血液がべったりと付着していた。皮膚のように乾いたそれは、動かすと突っ張ったような痛みが走る。
男は諦めたように目を伏せて、罅割れ、砕け落ちた血痕を握り込む。そうして苦痛を堪えるようにして胸を抑え、薄く笑んだ。
大切にしていた美しいものが、粘ついた闇に塗れて飴細工のように歪んでいく。その歪みの狭間から、彼が蛇蝎のごとく嫌悪した感情がこんこんと噴き上がっていた。
愛は執着に。執着は妄執に。そして。
「今なら……あいつらの気持ちが、痛いほど分かるよ」
青褪めたくちびるが、もうどこにもいない相手の名を紡ぐ。凍える記憶に咲く美しい花。幽かな光の筋を曳き、狂気に溺れる魂の傍らで、成すべきことを囁くしるべの星。最愛の人が遺した最期の微笑みが、残響となって訴えかけてくる。
男は幼子のように笑った。
崩れていく思考の中で、為すべきことだけが炎のように広がり続け、そして。
──全てが、砕けた。
その日、島は滅多にない快晴の日和だった。眩しいほどの白い砂浜。空は青く、岩壁にぶつかり砕ける飛沫は冷たい。きらきらと輝く水面と戯れるように、真っ白なカモメが軌跡を曳いて飛んでいく。
そんな景色が一望できる海岸に、一隻の船が停泊していた。
丸みのある輪郭に刻まれた、特徴的なジョリー・ロジャー。愛嬌たっぷりの黄色い船体が、打ち寄せる波に揺られ、ぷかぷかと浮かんでいる。
ハートの海賊団が所有する潜水艦、ポーラータング号。桁違いの賞金をその首にかけられた男が率いるその船には、数日前からひとりの少女が患者として滞在していた。
現在彼女がいる船室は、消毒液の臭いが充満している。暖色の灯りに照らされたアイボリー色の机の上には、几帳面に置かれたカルテやレントゲン写真が並ぶ。その傍らに黒い回転椅子が鎮座しており、長い足を組んだローが浅く腰かけていた。すらりとした指が一枚のカルテの上をなぞる。
「安静にするべきなのには変わりねェが、経過は順調だ。よく頑張ってるな、麦わら屋」
ローは口元に微笑を浮かべた。琥珀色の瞳がうっすらとたわみ、ベッドから身を起こした患者、もといルフィを見下ろしている。
彼女の右手で脈を測りつつ、ローは柔らかく言葉を続けた。
「正直驚いてるよ。想定よりも回復が早い。これなら、今日一日くらい島の散策をしてきても問題ねェよ。外行きたがってたもんな、お前」
「ふぉんふぉ!?」
きゅるりとした目がローを見上げる。
手には鈍器になりそうなボリュームのクレープ。港町の屋台で作られていた名物だというそれは、いたく少女のお気に召したらしい。
ルフィのために、とベポが持ち帰ってきたそれはとっくに彼女の腹の中に収まり、現在ルフィが頬張っているのは、ローが自ら屋台に赴いて購入してきたものだった。
「おい、口に物入れたまま喋んじゃねェ……外出の件だが、おれとの約束を守れるって言うならの話だからな」
呆れたような口振りとは裏腹に頭を撫でてくる手は優しい。ルフィがじわりとはにかんだ。頬にうっすらと赤みがさす。
「んぐ、……やったぁ!ありがとうトラ男!」
ごきゅりと音を立てて食物を飲み込み、ルフィは歓声を上げた。
……実のところ。
すわ廃人かと危惧されるほど、つい先日までルフィの容態は、ローの予測通り深刻だった。
“煽り屋”によって開催された最低最悪のオークション。そこで心身を蝕まれたルフィは、自我崩壊の瀬戸際でローの呼びかけに反応して事なきを得た。しかしそれはあくまでも一線を越える前に踏み留まれたというだけのものでしかなく。
ルフィを奪還しポーラータング号に運び込むまではよかった。彼女の精神も比較的落ち着いていたから。本当に大変だったのは、過剰摂取した薬物の中毒症状に対する治療の方だ。
彼女を襲ったのは、悪夢の再演。
三日三晩、ルフィは何度も何度も苦しみに喘ぎ、幻影に悲鳴をあげ、助けを求めて泣き叫び続けた。
悲痛な声で死んだ兄を求めていたときがもっとも悲惨で。ローは祈るような心地で空を掻く小さな手を握ったものだ。発狂と忘我を彷徨い続けたルフィは、六日目にようやく理性を取り戻した。あの瞬間感じた安堵の重さは、とうぶん忘れられないだろう。それらを思えば、こうして元気に笑ってくれるだけで充足感を得られるというものである。
頬を上気させ、クリームの塊に顔を突っ込むルフィ。そのとろけそうな表情を見下ろし、ローは喉奥で笑いを噛み殺す。
「こら、べたべたになるだろうが」
嬉しさが隠しきれない顔だった。普段であればもう少し響くはずの叱責の言葉も、春風に似た柔らかさを孕んでいる。ローは手拭いで汚れを拭いながら、揶揄うように口を開く。
「なんだ、えらくご機嫌じゃねえか、麦わら屋」
「ん〜っ、うん!」鼻歌混じりの声が伸びやかに弾む。
「だって今日はトラ男がいっぱい笑顔の日!」
一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせたローは瞳に苦笑をにじませた。そうかよ、と口にする声色は子守歌のように優しい。
「まァいい。とりあえずまだ戦うのは禁止だ。特に能力は使うんじゃねェ。いいな?」
「えー!」
「えーじゃねぇよバカ。お前自分が何されたかちゃんと分かってんのか?」
ローは瞬時に渋面を作る。ルフィの身に起きたことを思い返し、不快感が蘇ったのだろう。
「あと五発くらい衝撃波動ブチこんでやればよかったな……」という物騒なぼやきと共に、手元のカルテに視線を走らせる。
「過剰な薬物摂取、精神操作、それから悪魔の実による支配。後遺症なく完治する見込みになったのが不思議なレベルなんだからな」
「ウン」ルフィはこくんと頷き、おもむろにクレープを食べ進め始めた。そうしてすっかり食べ尽くしてから、生地混じりのクリームがついた指先を眺め、ぱくりと咥えた。薄紅と肌色の端境で、真っ赤な舌がちらりと覗く。
「本当に分かってるのか……?」
形のいい頭から離れた手がぱら、とカルテを捲る。ローは医者の顔になった。患者に向ける柔らかな声が言葉を紡ぐ。
「とにかくだ。お前はまだ病み上がりで、誰かと揉め事を起こしていいような身体じゃねェことだけ理解してればいい」
「はーい!分かった、トラ男に心配かけるようなことはしないから!よーし、冒険冒険!」
歓声をあげたルフィがぴょん、と医務室を飛び出していく。廊下でぶつかったのだろう。クルーたちがぎゃあぎゃあと騒ぎ始める。
「走ンな麦わら、あぶねーから!」
「待てバカ、先に自分のとこのクルーにも声かけ……待たんかァ!」
一気に姦しくなる船内。バタバタバタ、と足音が振動に乗って聞こえてくる。はしゃぐ少女の声も。ローは眉を顰めた。
「……なにやってんだあいつら」
揃いも揃って、麦わら屋の親か。苦笑を浮かべ、医務室の扉に手をかける。バインダーごとくるりと手を回し、部屋を出ていった。
軽やかな足取りで出入り口付近に辿り着いたルフィの腕が勢いよくしなり、即席の発射台に変化した。伸縮の反動を利用し、黄色い潜水艦からゴム弓のように飛び出して島の大地を踏む。眼前に広がる景色を見て、ルフィは感嘆の叫びを上げた。
ひとつずつ形が異なる淡桃色と桜色を組み合わせた石畳。街路樹は青々と茂り、清水が爽やかな流音を奏でている。気品のある建物はどれも上質な石煉瓦で造られており、石灰塗りを施された飾り窓が行儀よく備わっていた。
瞳を輝かせるルフィの前を、栗色の犬が軽やかに駆けていく。
艶やかな街並みの向こうには、近代的なホテルが立ち並んでいるのが窺える。ルフィの立つ場所から視認することはできないが、そこの中央広場には、先日倒壊したオークション会場の瓦礫が山のように積み上げられていた。
「見事なモンだろ」見慣れたサークルと共に移動してきたローが言った。
「島全体がひとつのオークション会場とまで謳われる都だ。実用性度外視の建築物も多い」
「ほぁ……」ルフィの目は美しい街並みに釘付けだ。
「“煽り屋”はもういねェが……この島自体に元来そういう気質があることを忘れるな」
ローは風圧で傾いた麦わら帽子を直して、惚けるルフィの額を軽く弾く。
「おれは一緒に行ってやれねェから、お前が自分で気をつけろ。いいな?」
「はぁい!ありがとう、トラ男」
満面の笑みを浮かべる病み上がりの少女を見下ろし、琥珀色の双眸が据わる。
「……黒足屋が昼メシ作り終える前には帰ってこないと承知しねェぞ」
「うん!サンジも今日は快気祝いに特製サラダ作ってくれるって言ってたし!早くお昼にならないかな〜」
信頼するコックの言を思い出したのか、うさぎのようにぴょんぴょんと跳ねる。
ローは無邪気にはしゃぐルフィを見つめ、たっぷりと息を吸った。頭痛を堪えるように左指でこめかみを揉む。
そして言った。
「……さすがは黒足屋だ……」
ルフィは花のような石畳を歩いていた。
あの時、今にも飛び出して行きそうなルフィに対し、ローは活動時の注意点を再度言い含めに来たらしい。念押しのように言葉を重ねてから、壊れ物に触れるような手つきで彼女の頭部を撫で、船内に戻っていった。
ルフィはきらきらとした眼差しで周囲を見渡した。美しい街だ。丁寧な造りをした白い家屋も、匂い立つような花壇の花も、空気を透明にする青葉の木々も、彼女が生まれ育った村とは正反対の都会だった。
こんなに素敵な場所だったのか、とルフィは笑う。ずっと牢屋の中にいて、意識を取り戻してからは戦闘と、それどころではなかったので気づかなかった。彼女がこれまで訪れたどの国の景色とも違う、どこか空想じみた風景。不思議空間だ、と結論付けたところで、何やら側方が騒がしいことに気付く。
「テメェ、舐めてンのか!?」
賑わう雑踏に紛れて、剣呑な声が喚く音を拾う。喧嘩だろうか?わずかに興味を惹かれたルフィが視線を向ける。
陽射しの遮られた薄暗い路地。絵に描いたように柄の悪い三名の男が、すらりと背の高い一人を取り囲んで何やらがなっている。ここからでは距離があってよく聞き取れないが、どうにも不穏な気配だ。くすんだ斑らの金髪や、建物の影にあってなおぎらつく下品なピアスが事態の怪しさに拍車を掛けている。
ルフィは小首を傾げた。普段なら気にも留めない、ありふれた光景だ。ひとつ大通りを外れれば、人攫いやカツアゲ、人同士の小競り合いが起こるのがこの世界。ローが彼女を案じていたのも、こういった世情をルフィより深く承知していたからだろう。実際、ログの関係がなければ、ルフィの外出に同行できない時点で彼女の散策も却下していたはずだ。
閑話休題。
ルフィの興味は、彼らが取り囲む人間に向けられていた。壁に凭れるようにして立つ長身に対して、これまでルフィを幾度も救った、獣じみた精度の直感が全力で反応している。あいつには何かあると。なんだかすごく気になる。話してみたいけれど、そうするとあの三人が邪魔だ。
「でもなァ……」
ルフィは顔を顰めた。
それは約束が違う。心配をかけるようなことはしないと言った以上、出来る限りその言葉に背くことはしたくない。この数日、散々見てきた大好きな人の悲しそうな顔が脳裏を奔る。
逡巡は一瞬。次の瞬間、ルフィの足は男たちの方に向いていた。
「それならさ……」不敵な笑みを浮かべ、拳に覇気を纏わせる。びりびりと拳を包むのは、ワノ国で見せたもの、その百分の一にも満たない圧力。それでもその色は違えようもなく。猛禽類の眼差しでルフィは構えを取る。
「技使う前に、ブッ飛ばせば問題ないよね!」
強化された細腕が、三人をまとめて吹き飛ばす。錐揉み回転をしながら飛んでいった男たちは、壁に激突して目を回した。
この程度のワルならばルフィの拳ひとつで沈められる。見た目こそ小柄で無防備な少女ではあるが、その実新世界にナワバリを持つ四皇の一角であるので。戦闘になる前に終わらせたが故に、ほとんど身体も動かしていない。これならまだ大丈夫だろう、とひとり頷く。
「ごめんねトラ男!」ぱっと来た道を振り向いてから、ルフィは立ち尽くす影に歩み寄る。
不思議な出で立ちの男だった。
体型を曖昧にする丈長のコートに黒い靴。目深に被ったフードの隙間から結ばれた口が見え隠れしていた。島の気風にそぐわぬ厚着。土ぼこりと硝煙のにおいが鼻腔に触れる。
長閑さを取り戻した島とは不釣り合いなものを集めたような装いだった。立ち尽くす相手をまじまじと見つめたルフィは、こてんと首を傾げ、訝しむような視線を向けた。
「あれ?」素っ頓狂な声が上がる。
「もしかして……トラ男?」
風が吹いた。
相手は黙して動かない。しかしルフィは気にすることなく、にこにこと笑みを深めた。
「なんかちょっと気配が違うけど……でも、トラ男でしょ?」
確信に満ちた響き。ぐっと覗き込むと、男の肩が躊躇うように跳ね、垣間見えた口角がはくりと空気を吸う。言葉に成りかけて砕けた音の欠片がこぼれ落ち、ぐっと唇が弾き結ばれる。
次の瞬間、幽かな笑声と共に、頭部を覆っていたフードがぱさりと外れた。男の顔が露わになる。毒々しさすら湛えた退廃的な気配に、ルフィの目が丸くなった。
「やっぱりお前は分かるのか、ルフィ」
先ほど海岸で聞いたものよりやや低まった、すっかり耳に馴染んで久しい声。予想通りの相手の姿に、ルフィは喜色を見せる。
「やっぱり!トラ男だ!」
「……フフ、元気そうで何よりだ」
ローは薄く笑みを浮かべ、壁から身を離す。穏やかな眼差しがルフィに注がれた。
「懐かしいな。……ここにいるということは、今のお前は十九か。身体の具合はどうだ?」
「もう平気!トラ男が治してくれたもの!あ、トラ男ってトラ男のことじゃなくて、わたしがさっきまで一緒にいたトラ男の」
「あァ、大丈夫。分かってるから」
両手を振り回しながらまくし立てるルフィを制し、ローは口を開く。眩しいものを見たかのように、蜂蜜色の瞳がゆっくりと細まる。
「ありがとう、世話をかけた」
「ん?しししっ、どういたしまして!」
ルフィはからりとした調子で返す。ローは喉仏を上下させ、考え込むように瞳孔を揺らした。
「……おれは、いつもお前に救われてばかりだな」
途方に暮れたように呟くと、そのまま押し黙って動かなくなる。数十秒の停滞。堪え切れなくなったルフィが不安げに呼びかける。
「トラ男?」
ローの身体が柳のように揺れた。揺らぐ双眸がルフィに据えられる。蜂蜜色のそれは、夜行性の猫に似た輝きを放って光っていた。ローがぱかりと口を開く。
「お前は、おれがそばにいると嬉しいか?」
悲しみに沈んだ声色に、ルフィは驚き目を見開いた。首にかけた麦わら帽子が、身体が小さく跳ねた弾みで音を奏でる。
一瞬、あり得ない景色を見た。世界を白く染める雪。視界の半分は霞み、燃え滓のような建材が倒れ損なった支柱にぶら下がっていることだけ判断がつく程度に狭まっていた。煤よりも深い灰色の空。どこかでローが泣いている。胸が引き絞られそうなほど悲痛な泣き声だ。
しかしすぐに白昼夢は消え、何かを堪えるような顔でルフィを見下ろす男だけが視界に映り込む。妙な光景を目にしたからだろうか。ルフィには、彼が泣き出す寸前のように思えた。
それがいやだったから、精一杯の愛情を込めて笑う。この恋心を丸ごと感じ取ってくれればいい。ルフィがどれだけローのことを大切に思っているか、あの幻のように泣かないで欲しいと思っているか伝わればいいと願って。
「嬉しいよ」心を込めてルフィは言った。
「トラ男のこと、好きだもん。一緒にいると楽しいし、嬉しいよ!すっごく幸せ」
ローがゆっくりとまばたきをし、少年のように無垢な表情を浮かべた。薄いくちびるが酸素を吸い込む。
「……そう、か」
その言葉を引き金にスイッチが切り替わる。
真冬に肌着で放り出されたかのような寒気と緊張感。柔らかくほどけかけた空気がぴんと張り詰める。ローが緩慢に身じろいだ途端、空を駆ける烏がけたたましい鳴き声を上げて逃げ去った。肌を刺す激情を感じ取り、ルフィの全身が総毛立つ。
「わかった」
確かめるような声音だった。
わずかに過った透明な光は翳り、その面差しには凄絶な痛みが漂っている。感情を削ぎ落としたように虚ろな能面からは、胸を焦がすような哀しみだけが滲み出ていた。
「大丈夫。お前の幸福はおれが守るから」
ローは噛み締めるように呟き、ルフィの頬に右手を滑らせた。緊張で固まる少女を視界に宿し、蜂蜜色の瞳がかき混ぜられたように濁る。
その視線は、ここではない遠くへ向けられていた。むせ返るような血の臭い。体温を根こそぎ奪う凍えるような雨と雪。絶望と慟哭で形成された──煉獄へと。
ローは、砂浜の上で立ち尽くしていた。
焼けた熱風が頬を殴りつける。かつて島があった場所に、丸ごと開いた海の孔。爆縮から逃れた木片や土埃が、断末魔のように周囲を漂っている。
視界の端に何十隻と居並ぶ艦が映った。白くたなびく正義の御旗。目的を果たしたからだろうか。一隻、また一隻と列を成して水平線の彼方に去っていく。やがて全ての軍艦がいなくなり、周囲に静謐が満ちた。
「なぜだ」無機質な声が雪の上に落ちる。
「なぜ来た?お前だってバカじゃねェんだ。罠だってことくらい、分かってただろう」
泥濘する思考。燃える空を眺めて、ローは自嘲気味に嗤う。その拍子に吸い込んだ熱気が肺を満たし、力なく咳いた。
──いつもそうだ。おれは、愛をくれた人に何ひとつ報いることなく死なせてしまう。
触れるだけで傷だらけになる、忘れがたい愛の記憶。尊敬する両親も、可愛い妹も、優しい恩人も、誰も彼もがいなくなった。幾度も死の運命を跳ね返し、この大海原を駆け続けた少女でさえも。
炯々とした金眼が揺らめき、思考の中に横たわる何かに釘付けになる。過去の景色。冷却された雨。抱き上げた軽い身体。弱々しく笑む少女から流れ出た新鮮な血液が、砕けたリノリウムに広がっていく。痙攣と共に伸ばされた血みどろの腕が、ローの顔を汚した。
青紫色のくちびるがわななく。たった三文字で構成されたそれを、宝物に触れるように空気に変える。音のない呟きはどこにも到達することなく、霧散して消えた。
吹雪が視界を覆い、時間が飛ぶ。
眼前で熱球が爆ぜた。急速に展開された滅びの波動が、島を包み込んで捻り、柔らかい紙のようにぐしゃぐしゃにしていく。まだそこに残る生命を度外視した破壊活動は、先ほどまでローがいた場所を容易く地上から消し去った。
魂を引き裂くような絶叫。どうしようもなく手遅れになった何もかもに絶望して、ローの喉からあふれ出した嘆きがこだまする。粘膜が傷付くことも顧みず、ただ泣き叫び続けた。慟哭はやがて細くなり、声にならないすすり泣きに変化する。
ローを乗せた鉄塊が、時速数十キロの速さで爆心地から離れ去る。磁気を帯びた金属ががしゃがしゃと音を奏で、キッドが苦虫を噛んだような表情を浮かべて舌を打った。
to be continue…