地底蝶姫

地底蝶姫

 

最果ての監獄と呼ばれるゴッカン国の国土は、地図で見るよりも思いの外広い。そして国政と司法の中心であるザイバーン城は国土の東端に位置する。必然、物理的に為政者である国王の目の届かない土地が存在するのも仕方のないことではあった。

予言の年が来るよりも二十四年前、ゴッカンの西に位置する小さな集落地で生後間もない女児の誘拐が起きた。獣達も息を潜めて眠り、あらゆる音が雪に吸い込まれた静寂の夜、とある夫婦の家に何者かが侵入し、乳児用のベッドに眠る女児を攫って消えたのだ。

神の怒りによって国王が代替わりした現在に於いても、この誘拐事件の犯人は愚か被害者である少女の行方も生死も未だ、不明のままである。




ガァンッ、と音を立てて細身の杖が弾き飛ばされた。フードを目深に被り蝶の面で顔を覆い隠した華奢な体躯の黒衣の女が、右手に握る剣を振り抜いている。纏う黒いコートの背中側には瑠璃色の帯状の紋様を染め抜いた黒褐色の翅飾りをマントの様に垂らし、首には紫の襟巻きを巻きつけている。

カラン、と杖が地面に落ちた。数秒、沈黙が場を満たして、女と相対していたカメムシのような頭部のバグナラクはフッと音だけで笑みを溢した。

「お見事です、姫様」

ゆったりとした動きで拍手を贈る。女は剣を振り下ろし、背負った鞘に納めた。振り返って、突き刺さるような視線をバグナラクへ向ける女の佇まいは氷の様だ。

「まだだ。まだ、デズナラクの役に立つどころか、全ての怪ジームらに言うことを聞かせることすらできない。私はまだ弱い」

ツカツカと距離を詰め、自身の目線よりも上にあるバグナラクの顔を見上げた女は、息を大きく吐き出して肩を落とした。バグナラクは緩く首を横に振って、そんなこともないと思いますがねえ、と呆れの混じった声で呟いた。女は性根の生真面目が過ぎて、そして大変ストイックだとバグナラクは知っている。況してや彼女にとって比較対象は、バグナラクが傅く王であるデズナラクを、鍛錬とはいえ軽くあしらうアメンジームだろうことからも。

「カメジム」

女がバグナラクの名前を呼んだ。呼ばれたバグナラク———カメジムは、どうしましたか、と返す。

「蜂起の日は、近い。私たちが人間どもから受けた屈辱を、かつて散った同胞らの無念を、必ず晴らす……私は、かの戦いを知らぬ世代だ。だが……いいやだからこそ」

視線を下に落とし、グ、と両手を握り締め、五指を鋭い爪のような指甲に覆われた黒手袋が軋む。

「報復を。我らバグナラクによる、弱く愚かな人間どもへの逆襲を。その為に、お前にも一層働いてもらうからな」

育て親であろうと遠慮はしない、と言い切った女はそっと左手で面を外した。鋭く、意志の強い色をした眼がカメジムへ向けられる。その顔は、彼女が弱く愚かと嘲った人間と同じように、柔い肉と薄い皮膚でできていた。

女の右手がカメジムに伸ばされる。カメジムは傅いてその手を取り、大袈裟に首を垂れた。

「無論でございます、姫様。この宰相カメジム、デズナラク様と貴女の為にこの知と力を存分に、振るわさせていただきましょう」

粘度の高い含み笑いを吐くカメジムの言葉に、女は満足げに頷いた。

「時に姫様、そろそろ獣の毛皮を抱いて寝るのは卒業なされては?」

「ヴァッ!?い、今はそれは関係ないだろう!!」

「ヌフフ、貴女がまだほんの幼虫だった頃から愛用していますからねえ……ですが、これから忙しくなりますので、そろそろ……ねえ」

「ヴァアア……」

打って変わって恥ずかしそうに女は呻く。まだ女の躯の丈が今の半分もなかった頃、カメジムから与えられた獣の毛皮は女にとって無防備となる眠りの時間を守るための物だった。少しごわついた毛皮を抱きしめると女はとても安心したのだ。ただ、今それを指摘するのは心の底からやめて欲しい。バグナラクにも羞恥心は存在するのだが。

「何をしている。騒がしい」

重い足音が響いた。女はパッと足音の主に視線を移して、あっ、と普段よりも一段階高い声を出した。

「デズナラク!」

タタッ、と安定性を優先したチャンキーヒールの音を立てて女は重い足音と声の主へ駆け寄った。飛びかかるようにその大柄な体躯に抱き付いた女は背中まで回り切らない腕に力を込めて、その胸元に顔を擦り寄せる。

デズナラクと呼ばれたミミズのような触手が躯に絡みつくバグナラクは、半分諦めの境地のような佇まいで抱き着いてくる女のフードをそっと下ろして、表れた黒い糸のような髪を撫でた。

「身体に支障無いか」

「舐めるなよ。私とてバグナラクだ」

抱き着いたままムッとした顔で女はデズナラクの顔を見上げた。デズナラクは僅かに憐憫を眼に滲ませ、ならば良い、と言葉を切る。

チラ、とデズナラクはカメジムへ目を向けた。カメジムは視線に気付くと、お邪魔致しました、と首を垂れてさっさと立ち去って行った。違う、そういう意味ではない、とデズナラクは言いかけた言葉を飲み込む。代わりに薄く溜息を吐いて、女の肩に手を回した。

「リタ」

デズナラクが女の名を呼ぶ。女、リタは眼を一瞬丸くして、忽ちふわりとはにかんだ。

「なんだ?デズナラク」

リタは首を傾ける。デズナラクはリタの肩に置いたのとは反対側の手をその頬に添えると、指先で柔らかい皮膚を捏ねた。

「一週間後、地上の五王国の王達がシュゴッダムに集う」

「ああ、成る程。その日が開戦の時か」

「物分かりが良くて助かる」

「当然だ。私はお前の妃になるのだからな」

「まだ当分先だろう。少なくとも、地上の土地を何処かしら得るまでは」

「いいや、すぐだ。私たちは強い。蜂起すれば脆弱な人間など容易く駆逐できる。瓦礫を積み上げて、人間の屍を並べて、チキューの全てに見せつけよう。チキューを支配するのはバグナラク、そしてその頂点は王であるお前と、その妃となる私だ」

リタは右手を伸ばしてデズナラクの顔に触れた。デズナラクは応えない。

「やり方はお前に任せる。下等生物共に恐怖をしかと刻み付けろ」

デズナラクはリタから手を離す。リタは少し名残惜しそうにデズナラクから身体を離した。

「勿論。高く、大きく、逆襲の狼煙を天へ届かせよう」

蝶の面を着け、フードを被り直してリタは宣言した。デズナラクは小さく頷いて踵を返し、立ち去る。

リタはその背を見送って、自身もまた己が役目を成し遂げるために歩き出した。コートの内ポケットから小さな琥珀のようなものを手に取って、眺める。

「哀れな娘だ」

遠くで呟いたデズナラクの声は、リタの耳には届かなかった。



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