地に立つ僕より
指を握る小さな手を見て、友人が価値を見いだせず手放してしまった平和はこの形をしているのだと思った。
そして同時に、彼が唾棄した変わらぬ平穏というものが彼の友人に微笑むことは恐らくもうないのだろうという、謂れのない悲しみがあった。
それを、今でも忘れずに覚えている。
あの時妹が蒼白の顔でまだ薄い胎の中の子供の父を曖昧に語るのを、僕は胸に鉛でも流し込まれた様な心地で聞いていた。
もしも本当に、子供の父親さえも別の誰かであったのなら?キミの妹は困った人だからと微笑んだ彼の全てが嘘だったなら?
今思えば、そうであればもっと事は簡単だったような気さえする。ただ恨み、憎み、企みを挫くために向かい合えたなら、それはそれで一種の清々しさがあったかもしれない。
少なくとも目の内にこびりついたような愛の残滓を姪に見て、なに一つ防ぐことも守ることも、寄り添うことすらできなかったこの身の不甲斐なさを感じることはなかっただろう。
拾った子供を抱いた妹とその傍らに立つ友人を見て、彼にだってこういう幸福の形が与えられてもいいのではないかとあの時確かに思ったのに。
結果的に彼はそれに価値を見いださず、あの子は慕っていた妹と別れ、そうして妹は愛のない子を産み姪は父の顔どころか名前すらも知らない。
それでも姪が名前も知らない父親のせいで百年近く外にさえ満足に出られなかったというのに、健やかに育ってくれたことは奇跡のようにも思えた。
それが薄氷の上に立つような残酷な奇跡だとしても。辛い真実を知ったとしても立てるだけの強さをあの子が身につけられていることを、僕は無責任にもあの小さな手が指を握って来た日からずっと祈っている。
幸いにも姪には僕が彼女の父親と友人だったとは知られておらず……もしくは聡いあの子は勘づいていてもあえて伝えることをしていないのかもしれない。
それはあの子が特殊な義骸を得て高校に通うようになってからも変わらなかった。伯父としては、なにも知らないふりをして一人で抱え込むところが両親に似てしまっていないかということだけが少し気がかりではあるけれど。
ひょこりとふわふわの金の髪が視界に入って顔を上げる。金のまつ毛に縁取られた明るい鳶色の瞳とかち合うとそれが人懐っこく細められた。
僕を探していたのか、それとも誰でもいいからなにか伝えることがあったのか。姪は断りを入れることなく当然というようにこちらに寄ってきて僕の前に立つ。小柄で見上げて来ているのに大きくなったと感じるのもよく考えれば変な話だ。
「ねぇおじさん、アタシ明日お夕飯いらんからね」
「なんで?ダイエットは今時流行らんよ」
「そんなんちゃうわ、今でもアタシはパーフェクトボディやろ?そうやなくて、こんなにおっきいクレープ友達と食べにいくの」
ジェスチャーをそのまま信じると顔よりも大きい気がする。それならたしかに夕飯が入る場所はない……というか、むしろ食べきれるかのほうが心配になる。いつまでも霊圧が安定せずに臥せっていた幼い頃のままのように思ってしまうのは保護者の常だろう。
百年近く外の世界から隔絶された生活を送らざるを得なかった姪が友人を得て日々を楽しく生きているというのは伯父としても嬉しい。つい戻らない過去や見えない未来を考えてしまう僕たちにとって少し眩しくもある。
そういえばあの頃は当たり前のように一緒に出かける約束をしていたな、ということを思い出した。最後の方はドタキャンされたりもしていが。
さすがに姪の友人があんなことになるとは思わない。思わないけれど、あの頃の僕だって夢にも思っていなかったのだ。もしも、万が一、姪の友人が類いまれなる力を持っているとして、そして……。
「……友達が、世界の真実を知ったなら」
「なにそれ?宗教勧誘かなんか?」
「え?ああ、うん、大学とか行くと多いらしいし?変なのにひっかからんでな?」
思わず出ていた言葉を適当にごまかして笑顔を作る。知らないことを殊更追求することがない姪は眉を少し上げただけでなにも言わなかった。そもそも姪が通っているのは普通の高校で尸魂界どころか死神にもなにも関係がないというのに。
もしもの事態を考える癖ができたのか、いらない心配や考え過ぎなことまで杞憂するようになってしまっているのかもしれない。できることはなんでもしておきたいとは思うものの、必要のない心配までしても仕方がない。
「……あのねおじさん、おじさんは知らへんかもしれんから教えたげるけど」
「うん?」
「華の女子高生は、小難しい世界の真実なんかより……友達と食べる明日のクレープの方が大事なんやで!」
「はは、それは知らんかったわ」
呆れたような声を出したかと思えば、真面目に女子高生を語るのに思わず笑ってしまう。そんな僕を見て姪も目を細めた。それが彼女の父親に似ているように見えて揺れた瞳は、名前を呼ばれて振り向いたあの子には気づかれなかったようだ。
普段は息を潜めるように表に出ない彼の血がふとした瞬間に顔を覗かせるのに、百年たった今でも僕は慣れることができない。それは今でも僕だけが彼を友だと思っているからなのだろう。
慣れたものがあるなら、確かに彼女が両親の血を引いているのだとなにも語らない当人たちよりも雄弁に語っている、ふわふわとしたくせ毛の金の髪だけだ。それは今も去っていく姪の背で柔らかく揺れている。
父譲りのくせ毛のあの子は、僕と友人が明日を迎えるためには小難しい世界の真実なんかの話を膝をつきあわせてしなければならなかったのだと知ればどう思うだろうか。結局は平行線の僕たちを、頭の固いやつらと笑うかもしれない。
「惣右介くん、僕はやっぱり……これを犠牲にする平和は、いらへんよ」
あの頃だって、あの日常を壊してしまうような……そんな事をすると考えつかないほどにあの平和は僕には掛け替えのない価値のあるものであった。そしてそれはもう、二度とは戻らない。
遅きに失した過去を二度と繰り返さないために、取れる手段はなんだって取ろう。それが己にとって忌避するものであっても、その行いを後悔することは決して無い。
なにもせずに倒れ伏したあの夜からずっと……この体は、孤独にも天に昇ろうとする友人を僕の立つ地に引きずり下ろすために存在している。