喝采の日
子供と遊ぶ。幼気な嘘が綴られたメモを目にしたとき、男が感じたのは確かな安堵だった。
幼い頃のまま、優しく愛らしい心を持ち続けていた妹。海軍のスパイであることを別にしても、彼女が組織でその健全さを保てるようには、どうにも思えなかったのだ。
子供とやらが元天竜人であることについて、懸念はした。しかし、妹を拾ったかの男は人格者だ。恐らくは出自を知りながら、妹を育ててくれた海軍の重鎮。妹を腐らせず、優しい心を保ったまま生かしてくれたあの男ならば、厄介な出自を持つ子供ごと庇護下においてくれるのではないか。
妹が第二の親について語ることはついぞなかったが、街中で海兵を見る彼女の瞳が柔らかく潤んでいたことを、男は知っている。
兄妹は、再会した時点で既に相容れない思想を持っていた。
世界を壊す。
真実と共に屠られる者、故意に歪められた情報と従う人々。嗤う者に嘆く者。
その差は僅かなものでしかなく、そのくせ只人の手には動かせない。
故に、壊すのだ。
境界を崩し、混乱を配し、血で血を洗い、苦鳴を歓呼で圧し潰す。
病巣を叩けば無害な組織も諸共に崩れ、弱きにとっては薬も毒となる。戦乱を引き起こせば、他方止まぬ喝采があがる。
糾える縄のごとく、善悪など観測の誤差でしかない。その物差しとて、疾うの昔に狂っていることを男は理解していた。
破壊を成すべきは己だと知っている。
妹がそれを厭うのも、わかっていた。
咎めるような目に躊躇うような唇。怯え彷徨うばかりの指。妹が己に向ける全てに気付いていながら、男は応えなかった。
妹を傷付けたくなかった。あるいは、傷付く妹を見たくなかっただけなのかもしれない。
己の心持ちはどうあれ、彼女の目が美しい世界をうつしているならば、そのままでいて欲しい。
それが醜いエゴだと理解しながら、男は彼女が投げかけるサインの全てを黙殺した。
男にとって、妹が去るのは必然だった。
優しい彼女のいるべき場所はここではないのだから。
この邂逅は一時の奇跡だ。望外の、夢のような奇跡だ。妹が生きている。彼女を守ってくれるだろう者もいる。狂気に堕ちた兄のことなど忘れ、昔と変わらず優しく、健やかに歩み、愛され、あるいは誰かを愛して、どこか遠く離れた場所で、これからも彼女の道が続いていく。
それだけで十分だった。
これで良い。男は心からそう思った。
だから、こんなことになるとは、思っていなかった。
きっかけは構成員の女による上申だった。トレーボルの子飼いであるその女は、裏切り者を見つけたと述べた。
曰く、妹は元天竜人の子供を連れ、各地を転々としているのだという。
さらに調査を続けるべきかと問うトレーボルに男は『追う必要はない』とだけ告げる。曖昧な答えに、構成員らはそれぞれの反応を示し、その場は解散となった。
早々に海軍へ戻り、育て親の庇護下に入ると予測していたが、何か問題でも起きたのだろうか。
詳しく状況を確認しようとしたものの、次の日には女の姿は消えていた。
大方、気を利かせた誰かが女を殺したのだろう。『裏切り者』という表現に、己が首を傾げたためか。下手をうった、と男は自戒する。
その後、トレーボルが調査を引き継ぎ、別の構成員が妹の居場所を突き止めるまで、それほど時間はかからなかった。
煤けた宝箱の前に、背を向けた妹が立っている。
外套も羽織らずこんな雪の中にいては風邪をひいてしまうだろうに。男はぼんやりとそう思った。
「ラミ」
緊張しているのか、あるいは雪の冷たさにやられたか、己の声はひどく掠れている。らしくもない。
唇を湿らせ、言葉を継ごうとして、だが、何を言うべきなのかが分からなかった。
「お兄様」
妹が振り向いた。
組織にいた頃は降ろしていた前髪を上げている。強い光を放つ瞳が男を見つめた。
「お兄様。私、色々なものを見てきたの」
「……?」
頭の回転が速いのだろう。幼い頃から、彼女は唐突に話し出す傾向があった。
時に興奮し、時に憤慨し、時に号泣しながら語る彼女の話は毎度混迷を極め、頷きながら会話の糸を解していくのが兄としての役目であり、楽しみでもあった。
なかなか理解できずに首を傾げる兄を見上げ、頬を膨らませてはむくれていた幼い少女の姿を思い出す。
今、目の前にいる彼女はただ、兄を真っ直ぐに見つめていた。
「人は本来、優しいものよ。だけれど、争うし、奪うし、迫害もする。人は弱いから。そんな方法しか選べない人がいるのも、私、知っているの」
押し殺した声は、それでも抑えきれない激情に揺れている。
苦しげに歪む唇と顰められた眉。幼い頃はそばで宥め、抱き締められたというのに、男の足は動かず、手はだらりと垂れたまま届かない。
「そんなものを、お前が知る必要はない」
やっと絞り出した言葉すら、力なく地に落ちる。
妹はかぶりを振り、続けた。
「もう知ってしまったの。お兄様が戦乱を呼び込んで、たくさんの人が亡くなった。だけど、その一方で多くの人がお兄様に救われている。彼らは虐げられるだけではなく、生き方を選べるようになった。それはきっと、救いなのよね」
違う。彼らは勝手に救われたと勘違いしただけだ。世界を壊す過程でたまたま、或いはどこかで使えるだろうと誰かに判断されて生き残っただけの話だ。
己が為しているのは紛れもない悪行だと、男は自覚している。
何も言えずにいる男に、妹は微笑んでみせた。その笑みは、記憶の中にある晴れやかなものではなく、苦さを知った大人の女性のものだ。
「でもね、お兄様。そうだとしても、あの子を巻き込んでは駄目」
「……あの子?」
「そう。あの子は確かに世界を憎んでいた。短い時間を過ごしただけの私では理解しきれていないだろうけれど、彼に投げかけられる悪意もこの身で感じた。お兄様は、あの子に共感したの? だから、そばに置いて同じ道を歩ませようとした?」
「何の、話だ……?」
唐突に切り替わった話題について行けず、男は呟く。遅れて、妹の言う『あの子』が元天竜人の少年であると思い当たった。
共感などしていない。また、あの子供を組織に置くよう手配したのはトレーボルであり、男にとって、元天竜人の少年はただ無力な子供だった。
何より、彼と己は似ていない。
憎悪に燃えながらも生き残ろうと足掻くその熱は、男がとうの昔に無くしたものなのだから。
困惑する男に微笑み、妹は言う。
「あの子は……ドフィは愛されていたことを覚えている。悪いことをしても後悔と反省をして自分を正せる。自分が変われば自分を取り巻く世界も変わっていくのを、あの子は知っているの。だから、自分の力でしっかりと歩んで、どこへだって飛んでいける」
熱く告げられた言葉には隠そうともしない愛おしさが滲んでいた。
「あの子は、自由よ」
見知った面影が残る妹の顔に浮かんだ、見たこともない表情。それがあまりに遠く、眩しく、男は立ち尽くす。
「ドフィは私が連れて行く。大丈夫。あてがあるの」
妹の顔に浮かぶのは覚悟。
吹雪き始めた景色の中、燃えるような決意が彼女を際立たせていた。
いつのまにか大人びていた眼差しが男を射る。
「黙っていてごめんなさい。私、海兵なの。お兄様を止めるために、潜入していた。お兄様の行いで救われる人がいるとしても、その過程で苦しむ人がいることを、私は許せない。だから、あの子を預けたら、私はここに、もう一度戻ってくる」
幼い頃、約束を交わし合った時のような無邪気さはない。代わりに、決して違えないと誓うように一歩を踏み出し、彼女は男へと手を伸ばした。
「お兄様。もし、まだ、お兄様に私の声が届くなら、もう一度」
伸ばされた手。
その手が何故か、ひどく遠い。
己が後退ったのだと、男が気付いた刹那。
銃声が響いた。
目を見開いた妹の身体が大きくよろけ、後ろに傾ぐ。
音を立てて宝箱の上に頽れた彼女を、男はただ見ていることしかできなかった。
血が広がる。
誰が、何故撃ったのかなど考えるまでもない。『海兵』である『裏切り者』が『神』を害した。それだけのことだった。
そんな簡単なことにすら、考えが及ばない己が愚かだったのだ。
震えそうになる足をなんとか踏み出し、状態を診る。スキャン。妹と、彼女の下にある宝箱の中身が目に映った。
血圧の低下。冷汗。頻脈。浅く速い呼吸。末端部位にチアノーゼ。既に胸が上下しきっておらず、下顎呼吸の前兆が見える。意識レベルも落ち始めた。出血性ショック。複数箇所に及ぶ銃創。弾は抜けず交錯し中で破裂している。摘出。部位圧迫。止まらない。腹部大動脈と複数の臓器に重篤なダメージ。輸血。足りない。出血が多すぎる。間に合わない。体温の低下。凝固障害。資源が足りない。
なぜ。
己の手が震えていることに気付き、拳を握りしめる。噛んだ唇から血が垂れ、雪を汚した。
ふと、妹の唇が戦慄いた。何事かを告げるその動きに耳を寄せる。
己の頬に触れる指の感触。冷たく震え、血に塗れてなお優しい指。
「おにいさま……やさしい、おにい、さま……もう、いちど、おはなし……」
喘鳴と共に漏れたちいさな声は、十分な酸素を拾えず、ひどく聞き取りにくい。意識とて正常ではなく、それは夢幻のうちに溢れた音でしかないのだろう。
息を吸えず、口がはくはくと上下している。
『苦痛は、長引かせるべきではない』
遠い過去、悔しげに零された父の言葉が脳裏をよぎった。
薬剤はない。ガスの使用も難しい。銃は、使いたくなかった。
のろのろと動きの鈍い腕を上げる。他人のもののように重い。掌で頭蓋骨を固定。頚椎の位置を確認する。手に力が入らない。能力を展開。
掴んだのは骨と神経の塊。
命というには小さなそれを、一息に圧し潰した。
能力を使用したというのに、その感触がまざまざと指に伝わるようで、吐気と眩暈が押し寄せる。血が滲む程に拳を握り込むことでそれを堪え、男は面を上げた。
「ラミ」
囁く声は凪いだように静かで、己の物とは思えない。先程からずっと、離人感に似た感覚が男を支配していた。
妹の、一瞬前まで輝いていた瞳から、光が遠ざかっていく。離れてしまう。どこか遠くへ、手の届かない場所へ消えてしまう。
かつて、己の手をひき、騒動へ巻き込んでは駆け回っていた少女。
泣くと瞼が腫れあがり、可愛い顔が台無しになっていた。
大きく口を開けて笑うと、生え変わりかけの歯が小さくのぞいていた。
お転婆な彼女はすぐどこかへ走っていってしまうものだから、街中で見失いかけて焦ったことが何度もあった。
そのわりに、何でもないように戻ってきて、『お兄さまったらへんなおかおでどうしたの?』などと憎めないことを言うのだ。
どこかで転んでいないか、迷子になって泣いてはいないか、心配で、心配で、こちらが泣いてしまいそうだったというのに。
ローは、そんなラミを愛していた。
だけれど、彼女はいつだって、彼を置いて行くのだ。
かわいい妹。
一番に守るべきだったのに。
「お前は、守らせてくれねェんだな」
囁きながら、男は理解していた。彼女を殺したのは紛れもなく自分なのだと。
虚空を見つめる瞳を覆い、瞼を撫でてゆっくりと降ろす。
先ほどまで細く白い吐息を漏らしていた唇は、ただ薄く開いたまま、白い歯をのぞかせている。
雪が、強くなってきた。
物言わぬ彼女の下、煤けた箱に隠された宝。大人用の外套と共に押し込まれたそれを無感動に見下ろし、男は妹の亡骸を背負いあげる。
子供の頃と違って大きくなった身体。その重みは大量の血を失い軽くなってしまった。それでも、永遠に消えた意識の重さが男の背にのしかかる。
白く凍る吐息は一つきり。
「ここ、寒いな」
呟きに返答はない。
亡骸を背負い、男は進む。
立ち止まることは許されない。否、男自身が許しはしない。
最後の理由を己が手で圧し潰した今、それ以外の道はないのだから。
遠く、『神』を守り抜いた人々の喝采が響く。
遺された宝の泣き声を、降り積もる雪が覆い隠した。