唯一無二の人

唯一無二の人


「お待ちしておりました、六車様」

貴族御用達の料亭の前で、地味ながら仕立ての良い着物を着た女性が深々と拳西に向かって頭を下げる。死覇装と隊長羽織、そして寝間着用の浴衣以外に袖を通すのは随分久しぶりの事だった。

「梓様はもうお待ちです。さあ、こちらに」

案内役の女性は梓の叔母にあたる桐生家の一員だという。彼女に連れられて奥の襖を開くと、先日よりずっと美しく着飾り丁寧に結われた髪をさらりと流した梓がそこにいた。六車様、と柔らかく笑う彼女に軽く一礼し拳西も席に着く。

梓の父母も揃っており、拳西が到着してしまえば後は形式通りだ。互いの簡単な紹介、これまでの経歴や結婚するにあたっての長所などをつらつらと並べられ、話し終えれば後は若いおふたりでと周りは去っていく。注がれた酒を形ばかり口にして、料理を胃に収めて。そうしながら部屋を満たしていた沈黙を先に破ったのは拳西だった。

「梓殿」

「はい」

「この縁談を断るためだけに俺は今日ここに来た。この話に応えることはできない」

まあ、と呟くようにして梓は口元に手を当てる。

「随分潔いお言葉ですのね、六車様」

「後を引きたくはないもので」

「正直なお方。でも、前にも申しましたでしょう。上のご意向で決まった縁談ですし、私は貴方を好ましく思っております」

「……桐生の姫にそう言われるのは光栄な事なんだろうな」

拳西はそう呟いて拳を机の下で握った。梓は変わらずたおやかに微笑んで、拳西の言葉を待っている。

「それでも俺は、この縁談を受けることは出来ねえ。俺がこれから先を共に生きたいと思う奴はもう居る。誰からの縁談だろうと、それは覆らねえ。覆すつもりもねえ。俺の心はとっくに決まってる。引っ掻き回されるなんて御免だな」

「……それで檜佐木様に危険が及ぶことになっても、ですか?」

「………」

「やっぱり六車様は、檜佐木様が大切ですのね。檜佐木様は幸せ者ですわ」

余裕を崩さない梓に悪意はない。駆け引きや策略を含んだものもない。ただ幸福であることを当たり前と思っている、実際にそうしてあらゆる幸福や栄誉を与えられてきた貴族の顔だった。

「………梓殿」

「はい」

「俺はかつて、仲間を傷つけたことがある。身に巣食う虚に全てを喰われた。先の大戦では屍人にさえなった。……今もその後遺症は消えていない」

「存じております。私も、両親も。そんなことで縁談を断る事など――」

言葉を視線で遮り、拳西は顔の前に手をやった。一気に"異物"を含んで膨れ上がる霊圧と、空中の何かを集めていくように手のひらに現れていく仮面。梓がはっ、と目を見開いた。

「その目で見ても、あんたは同じ台詞が言えるか?」

「………っ、」

「悍ましいでしょう。かつて俺はこの力で仲間を殺そうとした。そしてつい数ヶ月前にはここに屍人の在り方も加わって、理性を失って、最愛の存在も喰おうとした。……檜佐木修兵の身体に今もある傷は、俺がつけたもんだ」

正確には他の傷もあるが、それは今話すべきことではない。仮面を消して梓を見ると、彼女は無意識なのか青い顔のままふっと拳西から視線を逸らした。綺麗な姿勢は崩さぬまま、しかし膝の上に置いた細く白い手はかたかたと震えている。虚などほとんど見た事のないような箱入りの姫君が、真正面から虚の霊圧を浴びることに耐えられるはずがない。当たり前の反応だった。

「……聞いた話では、あんたはまだ若いんだろう。こんな混ざりものの妻になって、こんな巫山戯たモノを宿している俺の子供を身篭るようなことなどしなくて良い。桐生家の姫君なら、他に幾らでも良い縁談があるはずだ」

「……酷いことを仰いますのね。前半は檜佐木様にも言えることでは?」

「あいつは……修兵は、全部赦すと言ってくれた。言葉でも行動でも示して、俺の傍らにいることを選んだ」


――拳西さん、ねえ、拳西さん。

――大丈夫、私がここに居ますよ。

理性を失った拳西に組み敷かれながら、首に手をかけられながら、それでも怯えずに抱き締めて来た細い腕を覚えている。


「――だから、俺の伴侶はあいつ以外に有り得ない。……梓殿」

拳西はそう言って、深々と頭を下げた。

「どうか、この縁談はなかったことに」



――――――――――――――――――



自邸に帰ると、玄関に見慣れた草履が揃えて置かれていた。少々面食らって中に入れば、居間の縁側にぽつりと座る細い背中。傍らの座布団には今朝方干して行った洗濯物が綺麗に畳まれて小さな山を作っていた。

「修兵?」

「あ……拳西さん。お帰りなさい」

「ああ、ただいま……。と言うかどうした、何かあったのか?」

「いえ……その、今日は遅くなるって聞いてたから。夜から雨らしくて、洗濯物が濡れたら大変だなって……」

勝手にごめんなさい、と謝る檜佐木の頭を撫でると、彼女はほんの少し困ったように笑った。

「気にすんな、何のために合鍵渡してると思ってんだ。洗濯物、助かった。ありがとうな」

「はい。……あの、拳西さん」

「ん?」

ぱくぱくと口を動かし、けれどすぐ迷ったように言葉を飲み込んでしまう。何を言いたいのかはわかる気がしたけれど、拳西は敢えて黙っていた。

「修兵、飯は食ったか?」

「いえ、まだです」

「昨日炊いた飯が半端に余ってんだ、雑炊作るからまだなら食ってけ」

「えっ?拳西さん、食べてきたんじゃ……」

「貴族と食う上等な飯は食った気がしねえんだよ」

そう言って立ち上がれば檜佐木も後を追うようにして立ち上がる。

「手伝います」

「助かる。葱切って卵溶いてくれ。卵は三つな」


トン、トン、と具材を刻む音を聞きながら拳西は静かに口を開いた。

「縁談は断った」

「えっ」

「……お前な、元々断るつもりだって言ったろ」

「で、でも、お相手は……」

「修兵」

努めて柔らかな声で話を切って、拳西は彼女の目を真っ直ぐに見る。逸らされることの無い切れ長の目は既に少し潤んでいた。

「……俺は、お前以外と一緒になるつもりはねえ。これから先何十年も何百年もずっとだ。例え四大貴族からの縁談だろうと俺は断る」

「拳西さん、」

「俺が好きなのはお前だけだ。信じてくれるか」

潤んでいる程度だった目にみるみる涙が盛り上がり、檜佐木はぼろぼろと泣き出した。はい、と零した声は震えて、しゃくり上げた喉がうねる。

「ごめ、ごめんなさい、拳西さん。私また勝手に不安になっ、て……」

「わかってる、だからもう泣くな。……ほら、泣いてんのに包丁持ってちゃあぶねえだろ」

やんわりと手を握って押し留めると、いよいよ檜佐木は声を上げて泣き出してしまった。暫く手を握ってやって、時折声をかけてやって、落ち着くまで何もせずにいると鳴き声はやがて鼻をすする音に変わっていく。

すいません、とまた震える声で謝って、檜佐木は拳西の手を握り返しこう言った。

「拳西さん」

「どうした」

「……今日、泊まっていってもいいですか」

「……当たり前だろ」



―――――――――――――――――――



「つーわけだ。今回はまあ、破談だな」

「ええ……つまり桐生のお姫様に虚化見せて帰ってきたってこと?無茶苦茶やるねえ」

「そうでもしねえと諦めてくれそうになかったからな」

「いや、それにしたって……うーん」

報告に行った先の一番隊舎で、京楽は苦笑いをしながら顎の辺りを摩っている。

「なんだよ?」

「いやぁ、実はついさっき桐生の御当主と奥方が今回の件は破談だって連絡してきてねえ。なんだか随分ご立腹のようだったから何かと思ったんだけど……成程。君が意外に大胆ってこと忘れてたよ」

「元は春水さんが持ってきた縁談だろ。締めは頼むぜ」

「解ってるよ、僕も鬼じゃないしね。檜佐木くんには幸せになって欲しいと思っているんだよ」

それならいい。頼んだ。

簡潔にそう言って部屋を辞した拳西の後ろ姿を見送り、京楽は笑みの滲んだ溜息を吐く。

「七緒ちゃーん」

「はい、なんですか?隊長」

「いやぁ。愛ってのは偉大だねえ」

やれやれと言う風情で、しかし楽しげにそう言った京楽に伊勢は怪訝な顔をする。

「馬鹿なこと言ってないで仕事してください」

「……厳しいなあ」


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