味覚障害なアオイちゃんのレジェンドルート
それはママが作ったクッキーをつまみ食いした時に知った。
『アオイっ! それは——!』
『あっ……! ご、ごめんなさいママっ! 勝手に食べちゃって……でも! 今日のクッキーもおいし——』
『——それは砂糖と塩を間違えて入れちゃったからすごくしょっぱくて……え?』
『…………え』
あの時のママの顔をわたしは未だに忘れられずにいる。
わたしにとって食事という行為は空腹を満たすのと、栄養補給でしかなかった。
食事を楽しむ……というのは、舌触りと歯応えで楽しむものだと思っていた。
それがわたしにとっての普通で、『甘くておいしい』、『コクがあってうまい』——なんてのは大人になって初めてわかることだと思っていた。
コーヒーがおいしく思えるのはそれが大人の味というもので、だから子どもが飲んだって全然なんにも思わないんだと一気に飲み干した。パパにすごく驚かれた。
そのうち病院に行って、わたしが『味覚障害』というものらしいことがわかった。
わたしの普通は『普通』じゃなかった。
アイスが好きなのは冷たいと思えるから。
キャンディーが嫌いなのは口の中に石を入れてる気分になるから。
ママの作る料理がおいしいと思えたのは……
思えたのは…………
…………どうして、だったんだろう?
やがてわたしはパルデア地方に引っ越して、アカデミーに通い始めた。
ご近所さんの子とさっそく友だちになれたり、不思議なポケモンと出会ったりして……充実した毎日を過ごせていた。
その日は一つ上の先輩で料理好きだというペパーと一緒に、スパイス探しと称して巨大なポケモン——ヌシポケモンと呼ばれるうちの一匹——ガケガニを倒したところだった。
「うっしアオイ! お疲れちゃんだぜ!」
「お疲れペパー! 強かったねヌシポケモン!」
お互いを労いながらガケガニが崩した山の奥の洞窟へと足を踏み入れる。
「アイツが食ってた秘伝スパイスはまだこの中にあるはず……」
あのヌシポケモンがいつ復活するか分からないのでなるべく早く済ませるべくスパイスを探そうとするも、スマホのライトでは照らしきれない暗さにどこか薄気味悪さを感じてしまう。
「薄暗いから足元とか気を付けろよ…………——あーっ!」
「えっ、ちょっ、ちょっとと待ってよペパー!」
周囲を伺っていたペパーが急に大声を上げて奥の方に駆けていくので、わたしも慌てて彼の背中を追っていくと……そこは辺りがヒカリゴケによって明るく照らされた場所に辿り着く。
アカデミー寮の自室ほどに広い空間を照らしていたが、その奥でより光を放つものにペパーが片膝をついて見つめていた。
「ペパー……?」
「これ秘伝スパイスだ! 本で見たまんま!」
ペパーが優しい手つきで摘み取ったのは桃色に輝く秘伝スパイス。ママが育てているどの野菜にも似ていない、かわいらしさすら覚えてしまう見た目をしていた。
「うおーっ、やったぜ! アオイのおかげだぜ!」
「そんなわたしは……でも、ありがとっ」
わたしが心配そうに後ろから伺っていると、ペパーが笑顔で振り返ってそんなふうに言ってくれた。素直に感謝を告げられると……ちょっと照れくさい。
「ひでん:あまスパイスは胃を健康にして、食べ物を消化しやすくしてくれる……腹痛やら食欲不振にも効果絶大なんだとさ!」
「へ、へえー……」
……食欲不振、か。
わたしには元々食欲というものはなかったけど、健康というものは気を付けていかないといけない。ママの料理も栄養バランスはいつだって完璧で……パパも『美味しい美味しい』って褒めていた。
「はやく食わせてやりたいな……よっしゃ! 腕によりをかけて作ってやるぜえ!」
気合を入れるペパーを手助けするべく、コンロの準備やテーブルの用意、テーブルクロスやお皿を整えていく。
「うおおおおおお! ずりゃ! おりゃー!!」
およそ料理しているとは思えない掛け声でスパイスを切ったり、付け合わせの野菜やお肉などをサンドイッチに詰めていく。
「……良い匂い」
「へへっ、だろ? もうすぐでできるから座って待ってろよ!」
ペパーが白い歯を見せてこちらに振り返ってくる。こんなに楽しそうな彼の姿は初めてで、なんというか少し……いや、そんなことよりも、だ。
わたしの手持ちにはグルトン、そしてその子が進化したパフュートンというポケモンがいる。グルトンは食性からハーブに似たような匂いが、パフュートンはそれが凝縮されたのか香水のような良い香りがする……と、図鑑に載っていた。
そしてわたしはその匂いがあまり感じられない。その子を捕まえた時は離れた位置からでもネモは『良い香りだね』と言っていたのに、わたしはその子の毛まで鼻を近づけないとその匂いを感じられなかった。
ママの料理だってわたしの鼻が肥えていないから感じられないのだと思っていたのに、味覚障害と判明してから嗅覚にも関わっているのだとお医者さんから教えられた。
だから……驚いた。スパイスを切った時に溢れる甘い香りがわたしの……これが鼻腔をくすぐるというのだろう、それがこれからの食事に期待を抱かせてくれた。
……でも、きっと、それでも…………——いや、友達の前なんだ。こんな辛気臭いことを考えて顔に表れていたらペパーが美味しいって思えなくなってしまう。
「——お待ちどうさん! スパイスたーっぷりペパーサンドイッチの完成だ!」
「わあっ……!」
そのうちペパーがお皿に載せされたサンドイッチを持ってくる。盛り付けのかわいさもさることながら、スパイスの影響かパンやバターの焼けた匂いもなんとなく感じられた。
「それと、ヌシポケモン倒してくれたお礼のバッジもくれてやる! ジムバッジのレプリカをアレンジしたんだ!」
「わ、ありがと! ……そうだ、せっかくだし写真撮ろうよ! 写真!」
「しゃ、写真……? ううん……そんな柄じゃねえんだが……まっ、思い出として残すのは良さそうだしな!」
ちょっと渋っていたペパーだったけど、やる頃にはすごくノリノリになって美味しそうな表情でわたしと2人サンドイッチを囲む写真をロトムに撮ってもらった。
「ありがとロトム! …………ああ」
……ちょっと、わたしの表情が固いな。
「んじゃ、いただきま——」
ペパーが言い終えるより先に、わたしの懐からポケモンが繰り出される。
「アギャ!」
「わっ……!?」
ひょんなことから出会ったわたしのもう一匹の相棒だ。
「げっ、コイツなんだよ! 自分から出てきたのか……?」
「そうみたい。……びっくりした」
ペパーとこの子には浅からぬ縁があるようで、彼は機嫌悪そうに腕を組んでは怪訝な顔でこの子を伺っていた。
「……スンスン」
そんなペパーのことはどこ吹く風、この子はわたしの手にあるサンドイッチの匂いに惹かれてこちらに歩み寄ってくる。
「おい……オマエのはないぞ」
「グキュルル……」
ペパーの冷淡な言葉に対して喉笛が物欲しそうに鳴らされる……出会った時に渡したママのサンドイッチを渡したこともあってサンドイッチが好きになったのかもしれない。
「……そっ、か」
それにここまで乗せてくれたんだし、お腹も空いてるよね。
「はい、あげる」
「アギャア!」
サンドイッチを渡すと、羨ましいまでの見事な食いっぷりでサンドイッチを食べていく。それにペパーが悲痛な声を零した。
「あー! せっかく作ったのあげちまってさ!」
「ガツガツ……!」
「おいしい?」
「アギャッ!」
「そっかあ、よかったあ」
「…………」
美味しそうに食べていく彼——彼女?——を眺めていると、ペパーがため息まじりにわたしの隣の席に座ってくる。
「もうアオイの分ないからな……」
「うん。わたしは大丈夫だから」
「そ、そうか……?」
——だって、美味しく食べられないと思うから。
そんなネガティブなことは決して言わないようにやんわりと断りを入れる。
そもそもずっと探し求めていた人が食べるのが一番良いと思っての言葉だったけど、ペパーは少しの間だけ顔を伏せ、そのうち頭を掻き毟りながら立ち上がった。
「あー、もうッ! なんかオレだけイジワルなヤツじゃん!」
ペパーはテーブルに置かれていた自分のサンドイッチを専用のナイフで綺麗に二等分して、片方をわたしにずいっと差し出してきた。
「えっ……と……?」
「ん! オレの半分やるからたーんと味わえ!」
「あ……うん…………あり、がと……」
そうして彼の推しに負け、サンドイッチを受け取ってしまう。
(…………まあ、お腹も空いてたし)
半分だけどママがいつも作ってくれるくらいの量はあって、さっきのサンドイッチも大きかったからきっとペパーはいつもこのくらい普通に食べるんだろうなあ……などと、ちょっと変なことを考えてしまった。
「あむっ……んっ! うまっ! アオイも食ってみろよっ!」
「う、ん……」
再び隣に座って美味しそうに頬張るペパー。
少し、罪悪感というか……喉の奥が絞られるような感覚に襲われる。
——いつもの感覚だ。
『アオイ、美味しい?』
『うんっ! おいしいよママ! …………うん』
いつも通りの、はやく慣れてしまいたい嫌な感覚。
味覚障害が分かってからはより強く感じられるようになってしまったこの感覚とこのまま付き合っていくのは……いやだった。
「グアッ、グアー!」
「ん? もう食い終わったのかよ?」
「アギャアス!」
「うわっなんだいきなりちゃんに光りやがって!? ……んん?? なんかこいつパワーアップしてねえ……!? なあアオイ!?」
「…………」
けれどあの時、確かに甘い匂いがした。今まで感じることのできなかったあの感覚……あの感覚がまだわたしの頭に残って離れない。
「……アオイ?」
「わっ、あ、え、あ…………いただきます」
ペパーの声に驚きつつ、彼と半分このサンドイッチにようやくかぶりつく。
「お、おう。で……味はどうだ?」
よく噛んで、そして飲み込む。
「……………………あまい」
…………え?
「そりゃあまスパイスなんだから当然ちゃんだろ! それにしてもスパイスの力ってすげー!!」
え?
わたし……いま、なんて……?
「————————」
もう一口、食べる。あまい。
「————」
咀嚼する。こうばしい?
「…………」
味わう。あじわう。あじ、わう……?
「あ、アオイ……?」
ペパーの声がする。
そうだ、伝えないと。
食べた感想を、いつも通り、いつもと同じように
いつもと、おなじ……
「……………………ひっぐ」
ああ、ちょっとしょっぱくなった。
「な、なんで泣いてっ……まさか泣くほど美味かったのか!? それとも苦手なもんが入ってたとか……!?」
「んんっ……!」
最後の言葉にわたしは精いっぱい首を横に振る。
「ううっ…………! ごふっ……!! んぐっ…………ずるるっ……!」
「おいおい噛むのやめろって! そのままだと不味くなっちまうぞ!」
「う、ううううううううううううううううっっっ…………!!」
いつの間にかわたしはペパーの胸の中で泣いていた。
泣いて、えずいて、苦しんで……うまく飲み込めず、口内が熱い液体で満ちていく——すっぱくて、しょっぱくて、からかったり、しぶかったりするけどっ、やっぱり最後はあまくて……!
それで、それでっ、それでっ——!
「——……ごくんっ」
「……お、落ち着いたか?」
「…………」
初めてなのにその感覚が分かった。それが意味する言葉が頭を埋め尽くした。
そしてずっと……ずっとずっとずっと、ずぅぅぅぅぅぅっ…………と!
——ずっとわたしが伝えたかった言葉になった!!
「…………美味しい、なぁっ」
「……そらそうだろ!」
ペパーは、晴れ晴れと笑っていた。
「——味が分かんなかった!?」
散々泣き腫らして、ようやく落ち着いた頃に……わたしは自分のことをペパーに伝えた。
自分が味覚障害だったこと、今までずっとそれが普通だと思っていたこと、『美味しい』と……心の底から伝えられなかったことを。
「アギャア……」
「呑気ちゃんだなアイツは」
あの子は……食べ終えて眠ってしまったらしい。
「ペパーとスパイスを集めようって思ったのは——ずびっ。ほんと、困ってるから助けたいって気持ちで……全然、こんなことになるとは思ってなくて……ずずっ——」
鼻を啜りながら、わたしは言い訳じみた本音をぶちまける。正直、そんなに日々を過ごしていない人の前でわんわん泣いて、しかも制服を盛大に汚して…………わたしお嫁に行けないかもしれない。
「……そっか」
「だから……ええと、その…………」
何か……何かを伝えないといけない。
何かがなんなのかとかは分かんないけど——それでも、この場面でわたしはなにか、とても重要な何かを伝えないとこの先…………ペパーと、一緒に居られないと思ってしまった。
けれど彼はフッと軽く笑ってわたしの肩を叩く。
「そんならっ! スパイス全部探さないとなっ!」
「…………え?」
「だってそうだろ? 今までなんにも美味しいって思えなかったアオイが泣いて喜べるくらい美味いって思えたんだ! だったらトコトン美味いモン食わせてやるぜ!」
快活で、こちらの迷いを晴らしてくれる言葉だった。
「い、いのっ……?」
「もちろん! そもそもスパイス集めを頼んだのはオレだからな……最後まで付き合ってもらわないとオレが困るんだ!」
「そ、っか…………そっかぁ……!」
ひたすらに、嬉しかった。心の底から……ほんとうに、嬉しかった。
「——オマエも抱え込んだもんを吐き出したんだ。オレも言わねえとスジってのが通らねえよな」
「え?」
「アオイには話しておくべきだと思ってな」
困惑するわたしを差し置いて、ペパーは意味深に呟きながらモンスターボールを取り出す。
「……出てこい」
その後のわたしたちはペパーの相棒を助けるということもあって様々なスパイスを巡っていった。
『うがあ……にがいぃぃぃぃぃ……!』
『流石のオレもこいつは……いやっ! マフィティフだって食べるんだ、オレも美味しくいただいてやるっ!』
『わ、わたしだってっ、美味しく食べるんだからぁぁぁっ…………やっぱり牛乳ほしい……っ』
スパイスを食べてからしばらく経つと感じられる味が薄くなってしまうけど、それでも少しだけ残る味覚がわたしに希望を与えてくれた。
『しょっぱい! 涙とか鼻水とかと同じしょっぱいなのにこっちはすっごい美味しい!』
『な、なんかヤな例えだな……でも美味いのには大賛成ちゃんだぜ!』
『あっ、この塩加減ならアレが合うかも……!』
今までの苦悩が嘘のように様々な味を堪能できた。
『ん~っ、すっぱいぃぃぃ……! 吐い——』
『ストーップ! それはちょっと聞き過ごせない!』
『だってその味だってペパーと出会ってからようやく知れたんだもん! 感動だよっ!』
そうやってまたひとつ、もうひとつとスパイスを口にするにつれて——
『辛っ!? こいつは発汗作用が凄まじい……』
『はぐっ……はぐっ……はぐっ……!』
『ははっ、無言で食い進めやがって』
——わたしは、ペパーと同じくらいの美味しいを感じられるようになったの!
「……へえ、そうなの。良かったわねぇアオイ」
「うん! だからペパーのこと、真っ先にママに伝えたくって……あっ、ネモもボタンも同じくらい伝えたいからね!?」
いろんなことを体験した後、わたしは3人の友だちをおうちに招待していた。わたしは椅子に座ったままリビングでポケモンたちと遊んでいる2人に呼びかける。
「いや、言わんでもわかってるし」
「えへへ……でも言葉にしてくれて嬉しいな~」
『それにしても——』とママがわたしの腕をつねったので思わず『ひゃん』と声を漏らしてしまう。
「あら、やっぱりちょっと太ったんじゃないの?」
「ふとっ……!? えっ、ペパーわたし太ってる!?」
「いや? そんくらいの方が健康的だと思うぜ?」
「そっかー……ならいいや!」
「いやそれで良くはないだろ。アオイってば暇さえあれば飴とか舐めてて」
「アオイ……それ本当?」
「あ、あー…………あむっ」
わたしはバツが悪くなってママのクッキーを頬張る。甘さ控えめの生地に色々なドライフルーツが混ぜられた……うん。いつものクッキーだ。
「うんっ! やっぱりママのクッキーが一番美味しい!」
「ええ……ふふっ、ありがと」
クッキーがすんなり喉を通る。その感覚すらも愛おしい。
「ほんとだ……オレのと全然違う。どんなレシピで作ってるんですか?」
「そんなに美味しいの? わたしも食べよ~」
「手作りお菓子なんて久しぶり……おいし」
友だちも揃ってクッキーを口に運んでいく。わたしもまたひとつと手が伸びていく……美味しい。つい口が緩んでしまう。
「そだ……ねね、ママ。今度は焼きおにぎり作ってよ」
「焼きおにぎり?」
「うんっ。チャンプルタウンで食べたんだけど、なんていうかこう……『味がある』っていうか、その……深み? ……があって美味しかったの!」
「そう? なら、さっそく作っちゃおうかしら」
「ホントに!? ありがとママ!」
「けど、ママも作ったこと無いから味は保証できないわよ?」
「大丈夫っ、ママの料理ならなんだって美味しいもん!」
「…………そう」
「あ、ならオレも手伝いますよ」
ママが席を立ってキッチンに向かい、ペパーも勉強熱心なのかついていった。
「……まさか、アオイが料理をリクエストしてくれる日がなんてね。ありがとう、ペパー君」
「いやあそんな……むしろオレの方こそアオイには感謝してもしきれないくらいで……」
ペパーがキッチン越しにこちらを、リビングで他のポケモンとたわむれているマフィティフを見つめる。
「ほんっとうにっ、オマエと会ってからいいことばっかりだ!」
「そんなの……わたしこそだよっ!」
……ああ、またしょっぱくなった。苦しくないのにな。