名前はまだ無い
俺は粘液だ。名前はまだ無い。その少年は目覚ましより早く目を覚まして、隣で眠る妹を起こさないようにベッドから這い出た。
部屋の隅の洗面台で音を立てないように顔を洗い、『タオルいるか?』と呼びかける体の同居人に首肯。腰から伸びた黒い粘液が持ってきたタオルに手を伸ばして顔を拭く。
「悪いな」
『っぱ俺も顔洗った方がいいかね。女の子をナンパする時に清潔な印象を与えたいんだ』
「知らない」
素っ気なく返すと、まだ寝ている部屋の同居人を起こすためにベッドの方へ向かう。と、そこでちょうど目覚ましが鳴った。
「起きろトシ、朝だぞ」
「……ん…う」
『こーゆーのってしっかり者の妹が兄を起こすもんじゃないのか?』
「よそがどうかは知らないけど、うちはこうで良いんだ」
少年の名は一郎、少女の名はトシ。そして粘液の名はまだ無かった。
三人が掛け布団をひっくり返して畳み終わったところで、扉が開いて白衣の男が現れた。朝食の乗った大きめの四角いお盆を手に持っている。
「今日の朝食の特製ドラえもん定食!食べ終わったら訓練エリアへ来い……と誠二さんから言われてます。三人ともOK?」
『OK!』「分かりました」と粘液と一郎が答え、やや遅れて「……はい」とトシも答えた。
「あと僕はドラえもんよりライダーが……」
「君が魅力を理解していないだけだから!ドラえもんも好きになりなさい!」
研究者の白衣の胸部、[四衣銅鐸]のネームプレートの横で、ドラえもんの缶バッジが揺れていた。
『だそうだ親愛なる一郎』
「別にドラえもんは嫌いじゃない、好きだよ。でもライダーの方がもっと好きなだけだ」
訓練用のターゲットを装甲を纏ったその身で叩き潰しながら一郎と粘液はのんびりと話す。
と、その時上から巨大な何かが降ってきた。
『HAKAIDA!』
『大型ロボだ!ぶち壊すぞ!叩いて殴って齧って頭を引っこ抜こう!そんでその頭でボウリングだ!』
「心臓抜けば終わりだよ、お前みたいに大暴れしたいわけじゃないんだ」
べきがきぼごん。あっさりとロボの両手両足を粉砕しながら二人は喋り続ける。
『つれないヤツだな。ボウリングする自由が俺にもある!』
「僕らに自由はない」
『それは気の持ちようだ!それこそ俺たち自身の手で仮面ライダープレートを朝メシに作れるかもしれない!』
「馬鹿言え、料理させてもらえると思うか?」
二人の目の前でロボットが爆散し、爆炎が一郎を覆う装甲を照らした。
「良いけど」
「『え?』」
訓練終了後、一郎とトシと粘液の住まう部屋で。呼び出された研究者、四衣銅鐸は鷹揚に頷いた。
「私も料理は得意じゃなくてね。この調子だと君たちは毎日ドラえもんプレートだ。それじゃ心の栄養はともかく体の栄養バランスが悪い」
『チョコレートが欲しい!あと甘めの野菜ジュースもだ!飲み終わった後口周りがベタベタするようなやつを!』
「黙れ同居人。…それで、本当に良いんですか?」
四衣は頷いて手元の通信機を取り出した。
「もしもし誠二さんですか?」
『……なんだ』
「明日キッチン使っても良いですかね、あなたの家族込みで」
『私に家族はいない。だが…あー…実験体16号たちの事か?名前なんだったか』
「一郎くん」
『…ああ、そうだったそんな名前だった気がしてきた。とにかくその辺りはお前に一任だ、私は忙しいからな』
「イェイッ。じゃあまたお会いしましょう」
楽しそうにガッツポーズする四衣。ひとしきりくるくると舞ってから、思い出したように一郎たちに向き直った。
「あ、そうそう使いたい材料は?」
「……僕は知らない」
『ユーセイイーザー…♪アンドアイセイアイザー…♪アイセイニーザー…ユーセイネイザー♪ユーライクポテート…アイライクポティト♪ユーライクトマート…アイライクトメィトォ……♪あーなんだっけかこの後の歌詞?』
妙な節回しで、下手くそな歌を粘液が歌う。
「オッケー、トマトとジャガイモね」
立ち去ろうとする四衣研究員に、慌てて触手が伸びて肩を掴んだ。
『待て、今のはただの歌だ!必要なのはマッシュルームとマッシュルームとマッシュルーム!あと卵とワッフル、それと甘めの野菜ジュース!それにソーセージ』
「ウインナーも?」
『ソー!セー!ジ!』
「了解ウインナーね」
明らかに自らより強い粘液をを恐れる様子もなく、四衣は立ち去っていった。
『明日の楽しみができた!今日の仕事も頑張ろう!』
「お前は気楽だよ……」
生まれてこのかた、包丁を握るどころか炊飯器のボタンすら押したことのない一郎はため息をついた。
『お兄、聞こえてる?』
「聞こえてるぞ」
『聞こえる!』
『馬鹿は黙って。それでお兄、今日の相手は割と大きめの組織。それを叩きつぶす。当然だけど危険だから。音を風に乗せたところによると、突入する上級構成員用のフロアの中には六人。それとは別フロアに構成員が何十人もいる』
「了解、情報収集ありがとう」
明日の料理の約束を取り付けて二時間後。一郎と粘液はとあるビルの屋上にいた。そこからさらに一キロほど離れた高層ビルの屋上には、望遠鏡と通信機を構えたトシがいる。
『…それと、誠二さんからメッセージ。「他の誰にもできない。息子よ、君だけが頼りだ」……だって』
「そうか……!父さんから、頼られてるのか!」
自分の隣人が、愛されたいと望んでいることは知っている。だがやはり痛々しくて見ていられないと粘液は密かに天を仰いだ。
(面と向かって息子と呼んだ事もないのに、よく言うよ。白々しいメッセージだ)
「始めるぞ。……そろそろお前の名前決めないとな」
『その辺は次回までの宿題だな。それはともかく変身だ!』
「……変身じゃない、言っただろ?変身は」『あいあいヒーローのもの、な?』
一郎は腰のベルトに触れて、そして叫んだ。
「マスク!」
『コピー!』
一郎の全身を粘液が多い、それが固まってヒーローめいた全身装甲を形作る。身長は170程度まで伸び、大人の背格好だ。
『ミッション開始だ!』
今や一つとなった二人は屋上を踏み砕きながら跳び、狙い通りに向かいのビルへと飛び込んだ。
「なんだ手前ぇ!カチコミかぁ!」
「『やるぞ!』」
敵のSMGを躱しながら室内を物色、そしてまず目に入ったのは机だった。
こうして瀟洒なガラス製の机は本来の用途から外れた使い方によって破壊された。つまり、触手に掴まれて棍棒代わりに振り回され儚く散ったのだ。部屋の中に砕け散るガラスの音が響いた。
『安物が!クソの役にも立ちやしねぇ、ケツ拭ける分新聞紙のがマシだ!』
敵の一人を机と引き換えに倒しながら粘液が叫ぶ。そのまま銃撃を続ける何人かを壁まで殴り飛ばし、掴んで振り回し、雄叫びを上げた。
「クソ、先生を呼べ!」と言いながら敵の一人が逃げていく。どうやら残りの敵も撤退を始めたようだ。
『先生とやらは強いのかな!来たら顔面ぶん殴って煮込みすぎたシチューみたいにしてやろう!そんで両手両足引っこ抜いてダルマにして壁を永遠に見つめさせてやる!』
「威勢がいいけど、この体のメインは僕だ。そんな野蛮な戦い方はしない」
『俺を蛮族扱いしたか!?』
「何か間違ってたか?」
『間違ってたかだと!?』
叫びながら装甲から伸びた触手が壁を殴りつけて砕く。
『…とにかく!後で謝ってもらうぞ。俺は文化人にして風流人なんだよ』
そう言いながら二人が向き直った先には、刀を構えた男がいた。どうやら件の先生のようだ。
「おどれら、随分舐めたコトしてく」
『やべえ、完璧にやられ役のセリフだ!俺感動!』
粘液のこの言葉は別に挑発する意図はなかったが、それ故に効果を発揮した。
「舐めんなよクソが!」
白刃が閃き、一郎は咄嗟に横へ転げて回避した。転がりながら地面に散らばったガラスを右手の装甲に突き刺し、即席のナックルダスターを作り出す。
「膨らませろ!」
『おうとも!』
全身の装甲が右手に集まり、右手がアンバランスに巨大化していく。指が消え、ガラス片が棘のように突き出て金棒めいた形状となり、それがみるみる部屋の天井と床の距離の半分を埋めるほどになる。
「うおりゃあっ!」
そしてそれを振り回せばどうなるか。答えは単純、回避不能な攻撃の出来上がりである。こうしてつい数分前まで豪華な調度品に彩られていたフロアは、清掃業者を泣かせるために存在するような姿に変わった。
『お兄、望遠鏡で見てたらなんか窓とか色々すごい吹き飛んだけど、大丈夫?』
「トシ……大丈夫だ、ありがとう」
『口に砂入った!』
「どこだよ、お前の口」
二人はのびている先生とやらを無視して部屋から退出する。逃げた相手も追って倒さなければ。残党を残さない、そうすればきっと。
「きっと、自慢の息子って呼んでくれる……」
ずっと諦めていた父からの愛情。ただそれだけが、少年は欲しかった。
『……お兄、無理だけはしないで。私を頼って、私に縋って、私を掴んで、私を離さないで。私はお兄が全てだから』
「うん、分かってる……分かってる」
こうしてその日、一つのヴィラン組織が壊滅した。
さて、次の日の朝。キッチンに立つのは一郎。だが料理をしているのは粘液の伸ばす触手だった。
『俺は俺たち、お前も俺たち……♪俺たちはお前か…俺たちは俺か……♪分からなーい、どっちでーも良いーかなー……♪』
数えきれない触手がキッチンを所狭しと動き回り、下手な歌を歌いながら料理を作っていく。まな板は押さえ無しで包丁を連続で叩きつけられガタガタ揺れ、その上で切られたマッシュルームは元気よくあちこちに飛び散り、ミキサーの中に入れるべき液体は狙いを誤り三分の一がカーペットに飲まれ、ついでにソーセージだかウインナーだかを焼くフライパンが火を吹いた。
「……」
一郎は渋い顔をしながら、コップに注がれた野菜ジュースを飲みつつ、早めにキッチンを離れ食卓につく。
『完成だ!』
テーブルに投げ込まれた皿には、確かに朝食の材料が使われた何かが載っていた。
ぶつ切りのマッシュルームと端が焦げたソーセージかウインナーを炒めたもの、何かをミキサーにかけて作られたらしい得体の知れない緑のソースが掛かったワッフル、そして卵焼きになる予定だったと思われる黄色と白と黒の斑色の何か。
「Oh……like ruination……」
部屋の隅で眺めていた四衣が呟いた。
『仕上げはケチャップ!トマトケチャップは人類の発明の中で最高のものだ!あとインテリ、今の英語、なんだ?』
「Ruination…破滅とか台無しとかそんな意味」
『良いなそれ!俺は今日からルイナーだ!名前決まり!』
そう叫びながら勢いよく吹きかけられたケチャップで全体が真っ赤に染まり、少なくとも色彩は一つになった。
「……四衣さん」
「なんだい?」
四衣に、一郎は頭を下げて言う。
「トシの分は作ってください」
「ふっふーん。やはりドラえもんじゃなきゃね」
『俺のを食え!考え直すはずだ』
ルイナーの言葉に、渋々一郎は料理を口に運ぶ。そして、一言だけ言った。
「不味い」
『ウソだ!』
なおこの一言がきっかけでルイナーは料理修行をしてかなりのところまで行くが、それが使われるためにはここから二年余りを必要とした。