可哀想な方の正実モブ
アラームが鳴る。朝だ。乾いた角膜を守るために瞼が再び閉じようとするのをなんとか堪え、ベッドから降りる。寝巻きを脱ぎ捨て、お腹の傷を見なくて済むよう水鱗塗れにしたままの鏡の前でシャワーを浴び寝汗を落とす。
結局、昨日のことは先生が内々に処理してくれた。心的負荷による錯乱、ということになり備品を勝手に使ったこともこれといったお咎めはなし。
優しい人だ。先生も、正義実現委員会のみんなも。応えなきゃ、期待に、想いに。
そんな決意のもとに制服で身を包む。昨日から何も食べていない。きっと今の私はやつれた顔をしているだろう。これ以上心配をかけてはいけない、身嗜みは正義への第一歩だ。
洗面台の前に立つと、鏡の自分と目が合う。……鏡。
「……はっ、はぁっ、はっ!はっ!」
心拍が跳ね上がり脂汗が吹き出す。思い出したくもない記憶が一瞬で脳内に溢れかえる。
「酷い顔だな。ほら、見ろ。それが正義を成そうって人間の顔か?」
髪を掴まれ、強引に鏡を見せつけられる。そこに映ったのは、暴力に屈し、痛みから逃げ、快感に堕ち、引き攣った笑顔を涙と唾液で汚した誰かだった。
そこには正義はおろか尊厳すらなく、腹を撃たれ、あるいは蹴り飛ばされ、快感に喚き、次の苦痛を懇願する矮小で無力な子供がいるだけである。
「ちが、これ違います……これ、私じゃなっ、げぁっ!♡」
口答えをした罰として下腹部に躊躇いなくストンピングが浴びせられる。受け止めなければと思いながらも、受け入れる事を教え込まれた身体は動かない。横隔膜まで衝撃が届き嘔吐感すら覚える一撃に、嬌声と痙攣と絶頂で応える以外に手立てはなかった。
「頭まで馬鹿になったか?馬鹿なのはここだけでいいんだぞ」
踵でぐりぐりと腹部が抉られる。乱暴に子宮を捏ね回され内出血した皮膚が千切るかと思うほどに引き伸ばされる。
激痛が身体を巡るたび、精神を保護しようと脳は痛みを快感として錯覚させ、自分自身に嘘を吐く。そんな偽りに身体は悦び、歓喜に震え、破滅の谷底へ歩みを進める。
「はひぃ♡ばかです!おなかっ、ばかになります♡あ゛っ♡ぎっいぃっ♡い、イキますっ!あぐ♡ごめんなさい!イ゛キ゛ます゛っ!!」
「よく見ろよ、鏡のお前も気持ちよくなってるんだからな。コレがお前だぞ。こんなのがお前なんだ」
鏡の中には、悪に挫け、心を手折られ、悪意に手懐けられた哀れで無価値な私が、一人笑っていた。
「う、あぁ……」
網膜に焼きついたその顔が、鏡に映った自分と重なって見えた瞬間、思わず後ずさる。顔から血の気が引き、指先が痺れる。胃の底がぎゅっと冷えて、閃光弾の直撃を喰らった時のような耳鳴りが響く。
「……違う」
違わない。
「私じゃない」
私だ。
「違う、違う!ちがう!」
認めろ。あれが私の本性だ。
「……うっぐ……ぅう、お……ぇ、げぁ」
空の胃からは胃液だけが逆流し、びしゃりと洗面台から排水口へと流れる。
そうだ、あの日私は終わってしまった。いつまでこんな事を続けるんだ。あの日散々教えてもらったじゃないか、私は人間なんかじゃない、ただの鳴き笛なんだって。相手が誰であろうと腹を押されれば泣いて喚くおもちゃなんだって。
「ひひ、ふ、くくくっ……あはははは!!」
口元を拭った直後、何も悲しくないのに涙が流れ、何も楽しくないのに身体だけが勝手に笑う。
「きひひっ、くふっ、う……うう!ひっ、ぐぅ……ぅううぅ!」
もう終わりたい。
誰か私を殺して。殺してください。