口移しで飲ませて

口移しで飲ませて



 ぱちりと目を開けて、視界の中に明るい赤毛がないことを確認して、エランは深く溜め息を吐いた。──どうやら、妻はまだ怒っているらしい。


 エランは呪われた魔法使いである。"呪い"と呼ばれるその体質は、本人の意思に関係なく、新月の夜に周囲の魔力を大量に奪ってしまう。だからこそエランは誰とも関わりを持たず、草木も動物も人もいない森の奥地に一人で暮らしていた──つい最近までは。

 とある出来事をきっかけに、エランは一人ぼっちではなくなった。スレッタという、赤毛のたぬき娘を妻に迎え、一緒に暮らすことになったのだ。

 スレッタとの生活は毎日が楽しく、驚きと温かさと幸福に満ちている。いつも陰鬱で冷たい無機質な空気が漂っていた家が嘘のように明るくなり、まるで太陽が昇ったかのようだ。

 しかしそんな中で、エランには一つ大きな気掛かりがあった。──次の新月の夜、どうやってスレッタを避難させるか、である。

 数日前にそれをスレッタに告げると、彼女は信じられないことを聞いたという顔をしてエランを見つめ、「絶対に避難なんてしませんから!」と強く言い張った。いくらエランがそうしないと危ないのだと言い聞かせても、スレッタは頑として譲らない。私は魔力が多いから平気です、この前だって大丈夫だったじゃないですか、と言われてしまうとエランも強く反論ができず、最後は「エランさんのわからずや!」と半泣きで言われてしまい、エランは途方に暮れていた。

 余程エランの発言が許せなかったのか、スレッタはそれ以来つんと怒っている様子であり、それもまたエランを悩ませた。人との関わりを絶って生きてきたエランにとって、夫婦喧嘩の仲直りの仕方など全くの未知数の問題であった。エランは決してスレッタを怒らせたいわけではなく、ただ心配で仕方がないのだ。スレッタに万が一のことがあったらと思うと、心臓が握り潰されるような気持ちになる。どうすればこの想いをスレッタに伝えられるのだろう、とエランはずっと頭を悩ませていた。


 寝室で身支度をするが、どうにも気持ちが落ち込んでしまっている。スレッタにつんとした態度をとられることが予想以上につらく、エランの心に昏い影を落としていた。それでも、いつまでもこうしてはいられない。がちゃり、と扉を開けようとした瞬間──一足早く扉が開き、赤い塊がエラン目掛けて突進してきた。


「っ、スレッタ…!?」


 たたらを踏みつつもその身体を抱き止めると、スレッタはぎゅうぎゅうとエランにしがみついてくる。戸惑いつつその背中を撫でていると、スレッタがもぞりと身動ぎした。


「……あの、……拗ねた態度をとって、ごめんなさい」

「……え?」

「……エランさんに、避難してって言われたのが、すごくショックで、びっくりしちゃって、……」

「……」

「私は、どんな時もエランさんのそばにいたいのに、エランさんを一人ぼっちにしたくないのに、それが伝わってなかったんだって、すごく悲しくなっちゃったんです。……ごめんなさい」

「……僕も、ごめんね。君を悲しませたいわけじゃなくて、ただ、君にもしものことがあったら、って思ったんだ」

「分かって、ます。エランさんは、優しい人、だから。……でも、私はエランさんのそばにいたいんです」

「……うん」


 胸がじわじわと温かくなって、エランは泣いてしまいそうになった。誰かにここまで想ってもらえるなんて、エランの記憶には一度たりとてなかったことだ。

 スレッタの身体をぎゅうと抱きしめ返して、エランはそのふわふわの赤毛に顔を埋めた。しばらくそうしてスレッタの体温を感じていると、不意にスレッタがもぞもぞと動き、顔を上げてエランを見つめた。


「だから、私、考えました!」

「……うん?」

「私の魔力を、毎日ちょっとずつエランさんにあげたらいい、のではないでしょうか!」

「え?」

「この前、私がエランさんに、その、あの、……ま、魔力をあげたら、エランさんの顔色も、少し良くなってましたし!」


 言われて、エランははっとした。言われてみれば確かにそうで、スレッタから大量の魔力をもらった後はかなり楽になった。それならば、毎日少量ずつでも魔力をもらって蓄積しておくことで、周囲から魔力を奪わなくてすむようになるかもしれない。

 一筋の希望が見えたような気がして、エランはまじまじとスレッタを見つめた。エランにとってはとても有難い提案だが、スレッタはそれでいいのか。そんな意味を込めた視線に、スレッタはこくりと頷くことで答えた。


「私、絶対にエランさんを一人ぼっちになんかさせません。……そのためなら、なんだってできます」

「……!」


 ぐ、と息を呑む。エランはもう堪らなくなって、スレッタの身体を痛いくらいに抱きしめた。この子が好きだという気持ちが次から次へと溢れていって、胸が苦しくなる。

 強く強く抱きしめていると、スレッタがもぞりと身動いで、何故か少し恥ずかしそうにエランの服の裾を引っ張った。


「そ、それであの、魔力補給のやり方、なんですけど」

「うん」

「……あの、えっと、……へ、変な意味はないので、誤解しないでくださいね!ほ、本当にその、下心とかないですから!」

「……?」


 下心、とは。

 スレッタの言葉の意味がよく理解できずに首を傾げたエランの頬を包んで、ぐっと背伸びをして──スレッタはちゅう、とその頬に口付けた。


「……!?」


 途端にぶわりと流れこんでくる魔力に、けれどエランはそれどころではなかった。

 スレッタはひどく恥ずかしがりやである。少し手が触れ合うだけで顔を真っ赤にしてしまう彼女に、エランは最大限の我儘を通してなんとか寝室を同じにしたのだ。

 それでも毎日緊張して寝床につくスレッタに、これは口付けもそれ以上のことも当分は難しいだろうな、と思っていた、のに。


「ど、どうです、か……?」

「……うん。あの、……」


 顔を赤く色付かせたスレッタに問いかけられるが、エランは上手く返事ができなかった。身体中がぽっぽと熱を持っているが、それが魔力補給のためなのか、それとも別のことからなのか、さっぱり分からない。

 お互いに顔を赤らめてもじもじと見つめ合っていると、スレッタがぎゅ、と意を決したように拳を握った。


「で、ではあの、もう一回、失礼します!」

「え、……っ!」


 ちゅう、と再び──今度は唇に口付けられて、エランは自分の顔がさらに赤く染まるのを自覚した。見開いた視線の先に、赤い髪に負けないくらい真っ赤になって、目をぎゅっと瞑って口付けているスレッタの顔があって、どくんと心臓が大きく鼓動する。

 やがてゆっくりと離れていってしまった赤い唇がひどく名残り惜しげに見えたのは、きっと気のせいではない。


「ど、どう、でしょう、か……?」


 じいっと上目遣いに見つめられ、エランはもう耐えきれなくなって、スレッタの細いうなじを掴んで抱き寄せ、その唇を食んだ。つんつんと舌先で続けば、誘うようにゆっくりと唇が開かれる。その中に舌を差し込んで、くちゅりと舌を絡ませて合った。

 ぐちゅぐちゅと水音が響くのに、ひどく劣情を煽られる。力の抜けたスレッタの肢体がしなだれかかってくるのを抱き止めて、一頻りその口内を味わった後──つうと銀色の橋をかけながら、そっと唇を離す。こつん、と額を触れ合わせながら、エランはとろりと蕩けた表情を向けてくるスレッタに、低く囁いた。


「スレッタ、──もっと」


 はい、と答える小さな唇を、エランはもう一度ぱくりと食んだ。


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