反撃の狼煙
その日、いつも通り行儀の悪い賞金首共を叩きのめして我が家に帰ると、ルシアンが泣いていた。
上部組織にあたる海賊団が解散しても何一つ変わらぬ生活を続け、一年ほどが経った頃のことだった。
「朝から…あの子の様子がおかしくて、病院に行ったら"治せない"って言われたの」
妻と選んだベビーベッドでは、息子が小さな胸を苦しげに上下させていた。いつものように元気に泣く気力すらないのだと気づいて、目の前が暗くなる。
「あなた…ごめんなさい。私がもっと早く気づいていれば…」
「そんなことはない!君はいつでも家族を一番に考えていてくれたじゃないか」
妻を励ましながらも、おれの思考は焦りでじわじわと焼かれていた。今からでももっと大きな病院に行こう、とは言えなかった。北の海の厳しい冬は、小さな赤ん坊の体温などほんの一瞬で奪い尽くしてしまう。
海賊傘下と知ってなお賞金稼ぎを続けていたおれに、愛する彼女は命の重みを教えてくれた。簡単に消えてしまう尊い灯火を、この腕に抱かせて温かいわねと笑った。
こんな時に、おれは何もできないのか。
息子一人守ることすら、妻の涙を止めることさえも。
無力感に打ちひしがれ落ちた視線はしかし、サイドテーブルでまばたきをした、長距離用の電伝虫に受け止められた。
過去に数度目にしただけの、ウチのボスが王と呼び憚らない男の背中が脳裏をよぎる。海賊団最後の大仕事で奇跡の悪魔の実を奪い、己が治める医療の街の礎とした男。
窓の外では、家灯りを反射した雪が暗く凍てついた夜道を照らしている。ギムレットの体力が、あと何日保つかは分からない。今連絡を寄越した所で間に合うかどうか、そもそもの話が取り合ってもらえるかすら分からない。だがこのおれに愛する家族を万に一つ、億に一つでも救える可能性が残されているならば、それだけで己の全てを賭けるだけの価値があった。
たとえその先で、妻の愛を失うことになるとしても。
新世界への"出張"で渡された番号通りに、電伝虫のダイヤルを回す。
頼む、出てくれ。
「誰だ?」
「こちらセニョール・ピンク」
「ああ…あいつの部下か。何か用か?」
祈りながら聞いたコール音は、たったの2度で途切れた。今は名実共に王となった男の声が、電伝虫の口から紡がれる。
「息子が病気で死にかけている。どうか、手を貸してほしい」
答えを待つことすら忘れて、妻に聞いた病名から自分の知る限りの様子までを急ぎ足で述べ連ねた。
ウチは船医が船長だからな。変わってるだろ?
男の元ではディアマンテのコードネームを与えられていた、ボスの言葉に縋るように。
「…だ、そうだが―どうする?」
「行く」
こちらに向けられたのではないのだろう問いに、間髪入れず若い声が答えた。スパイダーマイルズの街に居たという、子供達の誰かだろうか。
「フッフ!全く…運の良い奴だ」
朝までには着く。とにかく保たせろ。
初め戸惑っていた妻も、絶対に治せるという言葉に涙を拭って立ち上がった。
若い声は、電伝虫を繋いだままでひたすら息子の容態を訊き、おれと妻に指示を出し続けた。
そうして迷いのない声に励まされ、ついに夜空も白み始めた頃、玄関からベルの音が響いた。
「患者はどこだ」
子供と大人の狭間、十四、五歳くらいに見える若い医者が羽外套の裏から顔を出したのを、おれは夢でも見ているような気分で迎えていた。雪の積もる道に足跡を残さず現れた男、ドンキホーテ・ドフラミンゴが彼に続き、身を屈めて玄関をくぐる。
続く仲間は誰もいなかった。
彼らはたった二人で、雪の降りしきる空を"渡って"来たのだ。
「後は任せろ」
言葉を失ったおれと妻とを振り返り、灰の瞳がすうと細められた。
「手術は成功だ。後遺症もないだろうが、何かあればまた連絡を寄越せ」
電伝虫越しの指示と持ち込まれた荷物で簡易な手術室となった二階の部屋のドアが開き、妻と身を寄せ合っていた廊下に声がかかった。立ち入りを許可された寝室のベビーベッドで、ギムレットは安らかな寝息を立てている。
二人に何度も何度も繰り返し感謝を伝える妻を見て、息子の無事を喜びあっている間に幻のように消えた彼らを思って、おれはその日、自身の人生を変える決意をした。
真白く輝く雪の上を、小さな命の笑い声が渡る朝のことだった。
息子の命を救った医者の名は、トラファルガーだった。
アジトで育てられていた子供達の一人で、最後のコラソンであった男。妻には、彼らが海賊であったことを伝えた。おれがそれを知りながら、その下で賞金稼ぎを続けていたことも。そして人生を変えたいと考えていることも。
君にも、今は医療の街に生きる彼らにも、己の全てで報いたい。
おれの告白を静かに見守っていたルシアンは、ドレスローザは温かくて花々の美しい国だって聞いたわと、青く澄んだ瞳で微笑んだ。
だが、花々を慈しむ晴天のようなその瞳は今宵、月灯りに鈍い赤を返している。
「こんな夜中にどうした小僧共。安物の油をそんなに燃やしちゃ、異臭騒ぎでしょっ引かれちまうぜ?」
「赤目どもは火を恐れるんだろう?国王がわざわざ触れ回ってくれたからな」
「無暗に出歩くなともあったはずだが…都合の良い耳にゃ聞き取れなかったか」
戸口の前には、松明と質の悪い武器を手に手に持った野郎共。現状への不満を赤目の患者にぶつける赤目狩りなんて連中が暴れてるのは知っていたが、症状の軽い者を主な標的にしていた奴等も明確な弱点を知って気が大きくなっちまってるようだな。
「覚えて帰りなひよっ子共。愛する家族を守る漢に、不可能はねえのさ」
ギムレットが元気を取り戻してすぐ、本部の移動を考えていたボスにドレスローザを推した。新世界の選りすぐりの悪党共に手を焼きながら勉強を重ね、銀行に勤めるようになった。
そして今夜、この国にはあのDr.トラファルガーが居る。なあ若造共、絶望なんざ一夜の悪夢みたいなもんだぜ。
この病は必ず癒える。この国は必ず再び立ち上がる。そうだろう。
まともに武器を握ったこともねえ平和な国のド素人からサーベルやピストルを叩き落とし、丁寧に伸していく。賞金首は殺すと3割値が下がる。手加減は慣れたもんだ。
放っておくと暗闇で同士討ちをしでかしそうな危なっかしい連中を気にかけながら、遠くに花火の音を聞いた。あっちじゃ無事に武闘大会が始まったらしい。麦わら達も今頃祭りを楽しんでいる頃か。それともドクターの友人らしく心のままに、地下にでも首を突っ込んでる頃か。
「やめなさい!あなたたち!!」
明らかな劣勢にへっぴり腰になった連中が、張り上げられた声に怯んだ。
広場に続く通りには、黒い御髪を振り乱した王女様が立っている。
「王女様!!それにお前らは…」
「赤目病は治せるんだ!!あの丸薬が引き起こす症状だって!!」
「王宮からお触れがあったでしょ!?もうこんなことやめてよ!!」
「丸薬を服用した患者への鎮静剤の配布も無事完了した。てめェらの行動はこの国に混乱をもたらす以上の意味はねえ」
王女様に続き、薬を積んでいたんだろうバッグを提げた喋るトナカイに桃色の髪の少女、Dr.トラファルガーが群衆に歩み寄る。
「"M"の丸薬、役立たせてもらったぞ」
「流石の腕だ。ドクター」
王女様方とお医者様の言葉があってもまだみっともなく喚く連中に、ドクターは冷たい目を向けた。元々が自棄になった己の感情の捌け口を求めただけの奴等だ。もう止まれやしねえんだろう。
「……おれはセニョールほど優しくはねえぞ」
背に担いだ大太刀に手をかけたドクターが一歩踏み出すと同時、通りを大きな揺れが襲った。地下から、石の塊が崩れる音が近付いて来ている。
「ゴムゴムのォ…銃乱打!!!」
赤目狩りの連中ごと敷石をぶっ飛ばして現れたのは、昼間出会った麦わらだった。少し間を置き、狙撃手も穴から飛び出してくる。
「二人とも無事か!?」
「地下で何があった!」
「おれ達は大丈夫だ!それより黒髪に羊角の男を見てねえか!?」
「あんにゃろガスになって外に逃げやがったんだ!」
ケムリンが、ドレークがと口々に叫ぶ二人に、駆け寄ったドクターの顔色が変わる。
「まさか…"M"の正体はシーザー・クラウンか!?」
「そうそうそいつだ!」
「最高傑作の再誕がどうとか言って、遺跡を爆破しやがったんだ!」
なるほど。ボス曰くの、神秘の探求者"もどき"の男。結構な賞金が掛けられていたがこの国に潜伏していたとはな。一連の問題は奴の実験のせいか。
「それならおそらく、向かう先はコロシアムだろう」
「ギンコーインのおっさん!分かんのか!?」
「武闘大会は神聖な血の儀式だ。遺跡絡みで"何か"を産み出すつもりなら、行き先は限られてくる」
「なら急がねえと!!もう試合は始まっちまってるだろ!?」
狙撃手の焦った声にコロシアムを見上げた麦わらは、帽子の砂埃を掃ってからこちらに顔を向けた。
「おれとウソップはシーザーをぶっ飛ばしに行くけど、お前らどうする?」
「一緒に行きたいけど、おれ達はレベッカとヴィオラを王宮に送り届けないと」
「他に問題が起きなきゃその後合流する…奴を逃がすなよ」
「ぶっ飛ばすなら、おれ達の分もよろしく頼むぜ」
人を実験体と見下し嗤う輩に、そろそろ反撃といこうじゃねえか。
「おう!!」
麦わら帽子を被りなおした男は、拳を掌に打ち付けニッと笑った。