去り際の言葉
「間に合わないと思った桜花賞。その先を見据えて、自分で勝ちに行ったオークス。稚拙に見えても、絶対に負けないレースをしようと思った秋華賞」
そう言って私は、力無く突っ伏しているお師匠さんの頭を、膝の上で抱える。
お酒が入っているからなのか、どこか力無く、頼りなく感じた。
「…三冠になんて、なるものじゃないってお師匠さんは私に言いましたよね。でも、私は」
彼の後頭部から背中のラインを撫でながら、言葉を続ける。
アース先輩が見たら卒倒しそうな光景だが、正直そうなった所で踏み込めないあの人の自業自得だ。
「…三冠を取ったからこそ思えます。負けたレースだって…全部が、私にとって、かけがえの無い経験です」
「…眩しいね、君は」
「お師匠さんがああ言った気持ちも…分かります。私を心配してくれているんですよね」
「そう、見えるかい?この情けない状況が」
「…私がそうして欲しいと思ったので、何も遠慮することはないですよ。…私ももしかしたら、お師匠さんみたいになってしまうかもしれません。負けて、周りから心無い言葉をぶつけられるかもしれません。歴代の先輩たちにも、顔向け出来ないレースをしてしまうかもしれません。……」
思わず、目を瞑り唇を噛んでしまう。
"それ"がいかに残酷で、おぞましい物か。深淵の入り口に立ったことくらいはある。
「…そうなったら、いつでも僕に話してくれて、構わないよ」
「ありがとう、ございます」
…二度と立ちたくないとも思ったが、どうなるかは誰にも分からない。
立つことになった時、耐えられるかは分からない。
…悪い考えに支配されそうになるのを振り解くように、言葉を続ける。
「でも…私は三冠牝馬になれて、本当に良かったです。今のこの気持ちは…嘘じゃないです」
「…愛されているね…君は」
「…はい!普段から私を一番にしないと怒るって言ってますから。そう言わなくても…周りの皆は私を大切にしてくれるんですけどね。…それが、分かるんです。…だから、だから…その分、期待に応えたいんです」
…話を続けるうちにいつの間にか、頭を撫でられる私と、撫でる師匠の図になり、立場が逆転していた。いつの間に抜け出したのだろう、この人は。
「…君の使命は…愛から導かれているようだね」
「…そんなロマンチックなものではない、と思うんですが…でも、愛されてる、って言うのはこう言うのを言うのかなって、感じますから」
「大切なんだね、皆が」
「はい」
「……やっぱり君は、眩しいよ。皆の期待を背負える。愛されていると自覚出来る。…僕には真似が出来ないことだ」
「……そう、ですか」
「嫌い、とかではないのだけどね勿論。考え方…経験してきたことの違いだよ」
「知ってます。でももうお師匠さんは…誰かの為に走る必要も。辛い思いをしなくても良いんですから」
「……そうだね。あの頃は本当に……」
「お師匠さん?」
「ふふっ。あの玉座に座っていた頃は嫌な思い出ばかりだった、と言うつもりだったのに…どうやらそれだけじゃないみたいだ。ままならないね」
「……やっぱり、三冠を獲れて、良かった。あの時の喜びは…何にも変え難いよ」
「……はい!私も同じです!」
今日初めて、同じ話題で二人で笑えた気がした。
「ごめんよ。先輩として…義父として僕が面倒を見るどころか、君にこんなことを聞かせてしまった」
「良いんですよ。聞けて嬉しかったですから。それに義父って言っても、私のお父さんって訳じゃないですし。…どんなにお義父さんが増えても、私のお父さんはあの人だけですから」
「君から話がある、と聞いた時には少し身構えたのだけどね。…結果僕が酔い潰れてしまうなんてね」
「いつもお話を聞いてもらってますから、今日くらいは。それに…」
「ああ」
「……もし私が"そう"なってしまったら、受け止めてくれるんですよね?」
「そうだね。託す者としての…責任は取らせてもらうよ」
「…ありがとうございます。お師匠さんの期待も乗せて頑張ります。私」
だって私、三冠牝馬だから。
世代の代表だから。
アイドルだから。
愛してくれる人たちが、いるから。