厄災の褥

厄災の褥



「誰かおるの?」

永劫に近い時間、暗闇の中で微睡んでいた自分の意識に働きかけたのは、そんな少女の声だった。

声は届かない。言葉は交わせない。そもそも人の言葉を話せない。暗闇から逃れ得る道を塞ぐ蓋は固く閉ざされている。その向こうから、幼気な少女の声が聞こえたのだ。

自分は応えない。応えることに意味を見出せない。それでも少女の声はめげずに此方へ呼びかけ続けた。

「なあなあ、チリちゃんな、チリちゃんいうねん。ついこの前にパルデア連れてこられたばっかで、なーんもわからんの。明日もここ来るから、次は自分のこと教えてえな?」

蓋の外から何かが叩く音がする。少女の声は明日も来ると一方的に約束した。微かに伝わる振動の大きさで、少女が立ち去ったのだけわかった。

はたして、彼女は一体どうやって此処に来たのだろうか。自分が封じられているこの塵土の祠へ子供の足で行こうとすれば、かなり険しい道のりを進まざるを得ない筈なのだが。

……考えても仕方がない。どうせ口約束なのだ。苦労してまで少女がまた此処に来るはずもない。必要もない。そう思っていた。


「また来たでー!今日はウパーも一緒や!」

「うぱっ」

来るわけがないとたかを括って微睡んでいたら、再び少女の声に叩き起こされた。しかも、少女に連れられて来たと思われるポケモンの声もした。少女———そういえば彼女の名前はチリちゃんといっていたか———の言葉を信じるならば、彼女が連れているのはウパーだろう。

チリちゃんは返答しない自分にはお構いなしで、蓋に背中を預けるように座って話し始めた。

ジョウトという土地で生まれたこと。一年前に事件に巻き込まれて、親が両方死んでしまったこと。親のいない子供を集めて面倒を見る施設にいたが、ケイエイナンというやつで口減しの対象になりパルデアの施設に連れてこられたこと。一風変わった喋り方のせいで他の子供達から遠巻きにされたり、イタズラの標的にされていること。一人になりたくて抜け出して来た先で、此処に辿り着いたこと。連れて来たウパーは、施設に来た時に子供の世話をする仕事をしている大人から与えられたこと。

他所から連れてこられた、という点でチリちゃんと自分は似ていた。でも、それだけだ。

チリちゃんは好き勝手話し尽くしたら満足したのか、また明日、と前回と同じ口約束をして立ち去っていった。何故自分のところに来たがるのかわからなかった。返事も碌にできやしないのに。


それからチリちゃんは何度も何度も自分の封じられた祠へ訪れる。その内一緒にいるウパーもドオーに進化して、チリちゃん自身も随分大きくなった、らしい。姿を見ることは叶わないから、知らないけれど。

チリちゃんは祠を訪れるたび、自分の身の回りで起きたことを何度も何度も話した。ご飯がいつもより濃い味付けだったとか、周囲の子供からのイジワルの仕方とか、寝ている時に見た夢の話とか、とにかく色々取り留めのないことを。

相槌すら打てないことに不思議と引っ掛かるようになった自分は、せめてちゃんと聴こえていることを伝えようと蓋の裏を頭で突いた。コォン、という音がして、そしたらチリちゃんは嬉しそうに。

「———……っ、うん!うん!それでなあ!」

きっと、蓋の向こうで君は笑っているのだろうな。そう思うと自分の無いはずの心臓が大きく音を立てるような気がした。

チリちゃんの話を聞く時間が微睡む時間よりも長くなって、自分は遂に絆されてしまったらしい。彼女に、自分の名前を教えたくてたまらなくなった。

言葉は交わせない。人の言葉は話せない。

それでも、自分は伝えたかった。教えたかった。他ならぬ彼女の声で、自分の名前を呼んで欲しかった。

せめて、言葉以外で伝えられる方法さえあれば。いつしか微睡むことすら忘れて、そんなことを考えるようになった。


自分は人の欲と恐怖から生まれた。形のないものが寄り集まって、形と命を得たのが自分だった。

伝えたい。伝えたい。伝えたい。名前を、彼女に、恐怖と共に人が自分に捧げた名前を。

考えているうちに、チリちゃんはアカデミーというところに行くことになったらしい。来れなくなるわけではないが、今までほどの頻度では難しくなると言った。

「アカデミーのあるテーブルシティな、此処からはめっちゃ遠いねん。せやから、時々しか来れへんかもしれんわ」

どんな気持ちで、どんな顔をしているのか、想像の域を出なくとも自分は彼女の声だけで読み取れるようになってきた。今、チリちゃんは落ち込んでいる。自分と会える日が格段に減ってしまうことを哀しく思っている。それが、不思議と自分は嬉しかった。

「なんでそんな嬉しそうなんよー」

困ったような、苦笑い混じりの声でチリちゃんが言った。はて、蓋の裏を突く音だけでどうして自分が嬉しいと思ったことを。

もしかして。自分は蓋の裏を、今度は自分の方からチリちゃんへ話しかけるように突いた。今なら、或いは。

念じる。キミに伝えたい。

念じる。自分の名を知って欲しい。

念じる。我が身に宿る災禍の業は。

「———でぃん、るー?」

チリちゃんの声が、辿々しくその名を紡いだ時、悍ましい力で固められた土塊の軀が歓喜に打ち震えた。

「自分の名前、なん?」

チリちゃんが問いかけて来た。自分は蓋の裏を突いて、肯定を返した。そしたらチリちゃんは嬉しそうな声で。

「でぃんるー。ディンルー……ディンルー!ナハハッ、自分はディンルー!」

繰り返し名前を呼んでくれることが嬉しくて、自分は小刻みに蓋の裏を突っついた。

「あんなあ、ディンルー。チリちゃんアカデミーでたっくさん勉強して、ポケモン勝負強なって、卒業したらな」

ペタ、と音がして、チリちゃんが蓋に触れたのだと分かった。

「自分のこと、此処から出したるから、待っとってな?」

約束やで、とチリちゃんが言う。そんな幸福が赦されていいのかと思わないでもない。厄災の身なればこそ。それでも、浅ましいことに腹の底が熱を持つ。

だから、待ってるよ。君が自分を此処から出してくれる日を。

待ってるよ。君の隣でその命が終わるまで、ずっと一緒にいる日々を。


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