千里の道も

千里の道も

ゴリラ

 息を吸う。

 吐きながら出たのは、泣き声。

 べとべととした体感、鼻が詰まって苦しい。何も見えない。泣く。何かが、巨大な手かこれは───がおれの全身に触れる。怖い。泣く。痛い。腹に激痛。泣く。泣くしかできない。何だこれは。

 生暖かい水に浸けられる。やめて怖……くない。あ、気持ちいい。

 ぴた、と泣くのをやめると、巨大な手がおれをぬるま湯から引き上げる。べとべとがなくなり、体中を拭かれる。あ、もうちょっと優しく。何だかごわごわしてるぞ布。

 臍がじんじん痛いのを思い出してまた泣けば、顔に柔らかいものが押し当てられる。ぬおおお、やわっけえ。口に何かが入る。考える前に吸う。うっすら甘じょっぱい温かな液体。うめえ。

 必死に吸って吸って、飲みきれずにこぼして噎せて、息苦しくなって咳き込む。顔を拭かれたり、背をとんとんされたりして、泣き止む。

 おれの第二の人生は、そうやって始まった。


 明暗しか判らなかった視野が色付き、ものの輪郭がはっきり判別できるようになるのはあれだ、前の人生で初めてメガネを掛けた時の再現のようだ。うおお、くっきりはっきり見えるぜやったね!

 音も明確に拾えるようになって、現代日本じゃないのは確信できた。

 どうやら母親らしき、やや窶れた女性は髪も目も黒く、肌は濃く頬が赤い。父親らしき男性も同じ色彩で、髭が堅い。頬擦りやめてマジで痛いから。

 繰り返される言葉は聞いたことがない響きで、おれの中の乏しい外国語の記憶と照合できない。中南米か中央アジア、標高高めの山岳民族がこんな頬をしていたと思い出して、じっくり観察するが。

 分からん。

 そもそも他民族の識別ができるほど、国際的な経験がなかったそう言えば。


 ようやく能動的な身体活動が可能になり、両親の言葉に似せた喃語が話せるようになった。いやー首が座らないと、あんなにしょっちゅう酔うとは思わなかった。そりゃ赤ん坊は泣くわ。見えない聞こえない分からない動けない、頑張っても意図せぬ結果だらけで、命の危機を延々と感じるのだ。助けて怖い、ってなるわそりゃ。寝るのも怖いぞいきなり意識が遠退くんだから。眠って起きる経験則積んで理解体感できてなけりゃ、このまま死ぬかも、ってなるわ。

 そんな赤子に絶対の安心感をくれる母親すげえわ。子育てってすげえわ。

 父親も偉いわ。かーちゃんがおれにかかりっきりだから、掃除洗濯にメシの準備してから、食い扶持稼ぎに仕事に行ってくれる。

 偉いぞとーちゃん、おれは何もできないから、かーちゃんを労れるのはとーちゃんしかいないんだ。

 と言うわけで、おれは当然、かーちゃんもとーちゃんも大好きになった。とーちゃんが帰宅したら、一直線に向かう。さあ和め! この無垢な赤子の挙動に癒されろ! 笑え笑うんだとーちゃん、おれも笑うぞ! 日中、どんだけかーちゃんが頑張ってたか喃語で報告だ! おうおう、とーちゃんの仕事の愚痴にも相槌打つぞ! おれは報連相ができる男だ!


 ハイハイから掴まり立ち、よちよち歩きができるようになった。単語会話もどうにかできる。とーちゃんかーちゃんは、おれを天才だ頭がいい、と誉めまくるが、残念なことにそれが誤解だとおれ自身が解っている。

 成人前後からただの人になるのは間違いないので、あまり期待はさせたくない。




 さて、随分と遅くなったがおれの生活環境を整理しよう。

 おれが両親と住む家は、石積の壁と木製の屋根と扉、明かり取りの窓があり、中は毛織物だらけだ。中央には囲炉裏っぽいものがあって、その真上は排煙換気孔らしき穴がある。穴には長い棒で開け閉めできる蓋があり、アバウトな造りの扉枠や窓枠同様、閉めてもすきま風がしっかり入るので、酸欠の恐れはない。

 ゆーても断熱性能はむっちゃ低い。夜は目茶苦茶寒いので、三人で川の字どころか団子になって寝るのだ。

 石の壁に打ち込んだ杭に縄を渡し、そこに毛織物を掛けまくって保温断熱を目論んでいるようだが、効果はさほどない。床は木で、その上に毛織物が何重にもなってるが以下同文。

 そして家の外は、絶景だ。

 やはり標高が相当高いらしい。降水量は日本の本州より少ないっぽいのに空気は澄んでいて、雪渓どころか半分以上白い山々が遠近感が狂うほど近く、延々となだらかな草原に無数の家畜がいる。牛か山羊か羊か、とワクワクしていたら、どでかい牛の原種みたいな長毛のやつと、山羊と鹿のハーフみたいなやつだった。なんだお前ら。

 あと犬がいた。多分、犬。むっちゃ雑種っぽくて犬種不明で、もこもこしてる。謎家畜がはぐれないように、走ったり見張ったりしてて頭がいい。

 猫もいる。もっふもふでネズミや害虫食いまくってて、目付きに野生を感じる。あいつがいたら夜が暖かくなりそうで欲しい、とかーちゃんに訴えたが、どうやらおれが産まれるまでは飼えなかったらしい。いやおれもう大きくなったし大丈夫じゃね?

 ねこーねこー、と現地の言葉で訴え続けていたら、どうやら次に村で仔猫が産まれたら貰ってくることになった。やったね。

 犬も欲しい、と言ったら、あれは家畜飼いの家限定らしい。ちくしょう。


 とーちゃんは山に入って、木材や薪を伐り出し、時々獣を仕止める仕事だ。樵とマタギの合体だ、超格好いい。

 かーちゃんは近所の女性たちと家畜飼いから毛を買って、共有織機で毛織物を作って売るのが仕事らしい。おれがもう少し大きくなったら、再開すると言った。


 織機小屋を見せてもらうと、囲炉裏もないボロい掘っ立て小屋だった。これはいかん。湿度は北海道より低そうだが、枠どころか壁の石自体がすきまだらけで虫が入るし、かーちゃんたちが作業中に冷えてしまう。木組みと吊るし石の織機構造や見知らぬ様々な用具にときめいたが、それよりかーちゃんたちの労働環境改善が先だ。

 しかし幼児未満のおれにできることは何だろう。


 そこでおれは先ず、泥遊びに専念した。何でも口に入れるそこらのガキではない、という今までの信頼の蓄積が功を奏したのだろうし、服をあまり汚さなければ、というかーちゃんの懇願に頷いたから許されたっぽい。大丈夫だかーちゃん、おれは成人前までは麒麟児だぜ。

 水の入った桶と、小さな器をゲットした。桶は水垢の白い線がついていた。

 そこらに転がっていた板きれを大きめの石で擦ってささくれを無くし、何もない地面を掘る。とても硬いので、水をかけて柔らかくしながら掘る。

 焦っても意味はない。

 出てきた白っぽい小石を集めて山にして、ひたすら掘る。飽きたらそこらの雑草を観察して抜いて集めて、それに飽きたらまた掘る。粘土が見付かって、小躍りした。


 しかし幼児未満のてのひら一つの粘土では、意味がない。

 なのでおれは、毎日家の周囲を掘りまくった。小石、雑草、粘土が風で飛ばされないように、風向きを測って家の陰に積み上げるようにした。穴だらけになってとーちゃんかーちゃんが躓いて転んだら危ないので、ちゃんと埋め戻した。

 そのうち、変な子がいると村で噂になったらしい。


「これを使ってみるか?」

 知らないじーさんに壊れた木の鍬の先だけをもらった。板きれと違う厚みと強度に大喜びして、焚き付けや肥料になるよ、と片言と身ぶり手振りで告げて、枯れ草を一抱え渡した。喜ばれた。

「小石をどうするんだ?」

 言われて、考え込んだ。泥と粘土に混ぜて手で平たくして、乾いたら石にならないかなあ、とジェスチャー付きで返したらじーさんに笑われた。

「ならんだろ」

 石がもっと小さかったら混ざるかな、と訴えたら、そのじーさんはおれが掘り集めた小石をまじまじと見、小走りで自宅から金槌と金属板を持ってきた。

「危ないから離れてろ」

 ガンガンガン、と、あっという間に砂利粒と石粉になったそれに、粘土と水を混ぜようとして止められる。

「熱くなるから手で触るな」

 じーさんはおれが使ってた木切れで、少しだけ混ぜて見せる。

「どこで間詰めの作り方を知った?」「間詰め?」

 知らない単語を聞こえたまま繰り返すと、大笑いされた。

「家の石壁をな、積む時に隙間を塞ぐものだ」

「どろどろ、石になる?」

「なるぞ」

 わあ、と手を叩いて笑ったら、じーさんに微笑まれる。


 いや理想はコンクリート礎材や砂利道だったんだが、と心の中で呟いたが、結果オーライだ。まさか小石がほぼ石灰成分とは思わなかったし、セメントがあるならモルタルやコンクリートへの道は近い。

 焼成がネックかもしれないが。


 しかし翌日から、おれの泥遊びは禁止になった。

 あのじーさんはどうやら元村長か大工の元棟梁かなにかだったらしく、村の居住区の地面を大人たちが人海戦術で掘り返し出したのだ。石切場へ登らず済む、とどうにか聞き取れたので、この細マッチョおじさんの群はそういう人々らしい。

 じーさんによく似たおっちゃんの指揮で、掘られた穴は真っ直ぐ均されて───おお、ここの水平器だろうか、水が入ったガラス管を使っている。

 傾斜地に階段を作ろうとか、何だかむっちゃ盛り上がっている。まあ、村が便利になるならそれでいいや。




 かーちゃんに訴えて、おれの次の遊びは草むしりになった。空桶を転がしながら、家が見える距離の村外れに行き、葉っぱで手を切らないように気を付けながらむしる。

 木鍬の先を、黒っぽい石に擦り付けて磨く。蔓草をごしごしやって断ち切って、むしった草を種類ごとにまとめて括る。

 何種類あるんだろう。

 だんだん心から楽しくなってきて、どんどん新しい草を探す。


 今度はどこかのばーちゃんが来た。草の名前や注意点を教えてくれて、根っこ付きを何種類かお礼に渡したら、錆びた小さな移植ごてっぽいものをくれた。持ち手はそこそこ清潔なので、助かる。今のおれの手ではちょっと大きいから取り回しが大変だけど、やっぱり木鍬の先よりよく切れる。

「その蔦は煮て柔らかくして、籠を編むんだよ」

 ほほう。


 おれは持ち帰った蔦の束をかーちゃんに渡し、ぐつぐつしてと頼んだ。「あら、籠編みを教わったの?」

「ちがう」


 おれはアツアツの蔦を、桶に入れて木鍬の先でどしどし叩いた。移植ごてだと桶を傷めてしまうので、ちょうどいい。

「折角煮たのにどうするの?」

 かーちゃんは首を傾げつつ、疲れたおれに代わって蔦を叩いてくれる。もろ、と外皮が剥けたので、二人で一緒に皮剥きタイムだ。

 おれは中身の繊維を、小さな爪で裂いていく。やだなにこれ楽しい。ぴーっ、って糸状に細く細く裂けて、先がくるんと丸くなる。これはあれだ、極細サイズの裂けるチーズ感覚だ。イエーイ。

 おれが年相応の高い笑い声を上げ、何度も繰り返していたらかーちゃんが家からいなくなっていた。

「……かーちゃん?」


 すぐにかーちゃんは戻ってきた。織機小屋で見た金属の櫛を持ち、近所のおばちゃんたちを引き連れて。


 織機小屋は倍の大きさに増築され、中にも外にも竈ができた。おれの家と同じく石積の壁や枠との隙間にしっかり間詰めもされて、すきま風がとても減った。ゼロじゃないけど、体感がかなり違う。

「灰汁で煮るといいわよ!」

「熱いうちに叩いて!」

「ねえ、外で浸けて腐らせるとよく剥けるわ!」

 かーちゃんやおばさんたちがイキイキしている。紡ぎ車が大回転していて、毛織物のそれより細かい造りの新しい織機が、シャッシャトントンと音を立てる。

 おれの草狩り場は鎌を携え籠を背負った女性たちが、阿修羅の如く蔦を刈る。危なくて近寄れない。


「どうれ、ぼっちゃんは婆と遊ぼうか」

 どうやら薬師らしいあのばーちゃんに声を掛けられ、おれは木鍬の先と移植ごてを持って、小さな畑に向かう。村の他の畑みたいな、背の高い穀物や野菜が植わっていない、前世のホームセンター入り口で見かけたハーブや香草みたいな葉っぱが並ぶ畝。


 さあて、次はどうなるだろう。








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