北風と太陽
「私慣れてるから平気」
こともなげに聞こえただろうか。平静を装いながら彼を見ると、傷ついた表情を浮かべながら放心していた。
手を出せと何度強請っても応えようとしなかったくせに、どうして傷つく権利があるのかと半ば自棄になった頭は思いやりのないことを考えてしまう。
服を無造作に脱ぎ捨てる。衣擦れの音がやけに大きく響く。身じろぎ一つせずにまだ傷ついた色を浮かべていた彼の上に跨った。椅子がないからベッドを使ってくれと言ったのもそういう下心からだった。
「どうしたい?体を触りたい?早く挿れたい?それとも舐めて欲しい?」
今まで口にしたこともないような品のない言葉を捲し立てる。男の味なんて知らないその舌をわざとらしく見せつければ、布越しに熱が頭をもたげたのが分かった。
よかった、と安堵したのが伝わらないように口角を持ち上げる。
「挿れたいのね」
「待て、ロー。違う」
押し留めようとする手はこちらに伸びてこなかった。能力を使えば手首を縛るのなんて造作もない。絹で出来た丈夫なスカーフの端で手首をそれぞれ結んでしまえば、背後でピンと引っ張られて前に伸ばすことは出来ない。後ろ手に縛るよりもゆるいが、決定的に届かないのでもどかしいだろう。せいぜい私の腿を引っ掻くぐらいしか出来ない手を撫でて、彼の鼻先にキスをした。
「大丈夫」
臀部を前後に動かし擦りつけて熱を焦らす。びくびくと動きに合わせて熱が跳ねて、彼が奥歯を噛んだ。
真下にあるファスナーを下ろしていく。窮屈な場所から解放されるのを喜んでいるような勢いで、ずらした下着の中から勃ち上がった性器が飛び出した。
「ロー、やめろ」
ぐちゃりと己の性器に手を伸ばす。直前に張形で中を拡げて潤滑液を塗り込んでいる。痛みは免れないかもしれないが、入れるのは問題ないだろうと指で膣口を開きながら腰を下ろした――――。
熱い塊がぐいぐいと体の中をかき分ける。声が出ない。力任せに押し込めばなんとかなると思っていたのに、途中が行き止まりになったみたいに進まなかった。そんな状態がいつまで続いただろうか。
腰を揺すっても熱を押し付けた場所は行き止まりのままだ。骨なんてないはずなのに手応えが硬い。人体の、それも自分の体のつくりなのに未知の感覚に、初めてこの行為に対する怯えをおぼえた。
ひくりと喉が鳴る。不甲斐なさに体が震えた。
決めたのだ。この身も、この心も、全部彼にあげると決めたのだ。
だから今更やめたいだなんて言えない。痛いのなんか慣れてる。自分の体なんてどうなったっていい。どうなったって構うものかと思っているのに当の体が受け入れてくれない。
受け入れるための臓器だろ。 入れ、入れ、と躍起になればなるほど力の抜き方が分からなくなった。そもそも力が抜けたら入るのかも定かではない。混乱するせいで強ばるばかりだ。
恐怖も、怒りも、悲しみも、どんな感情に支配されてもそれらは脳からの司令と体を阻む真似をしなかった。こんなの初めてだ。自分の体をコントロール出来ない。これではいけない。いけないのだ。いけないことは分かっているのに、命じた通りに体が動かない。
「そこまでだ」
絹の裂ける音がして、体が浮く。ベッドの上に転がされ、床に落としていた服を投げつけられた。
「着ろ」
手短に命じられた。四苦八苦といった様子で性器をしまい込んだ彼はこちらを見もしない。従いたくなくて全裸のままじっと見つめていると、根負けしたような溜息を吐かれた。
「着ないと何も話が出来ない。着てくれ。おれはローと話がしたい」
ここで泣けるような可愛げがあったら抱いてもらえたのだろうかと、のろのろと服を着る。泣きたくはあったが、泣きたくない負けん気の方が強かった。ぐすんと一度だけ鼻を鳴らすことしか出来ない。
「慣れてるなんて、なんで嘘ついた?」
「慣れてないとダメだと思った……」
どうして不貞腐れた子供のような物言いしか出来ないのだろう、と自問する。少なくとも彼が今まで抱いてきた女にこんな喋り方をする人はいなかったはずだ。
「ダメじゃねェよ。おれが何か勘違いさせたなら悪かった」
「じゃあ今すぐ抱いてくれる?」
「言ったろ?今するのは話だ。セックスじゃねェ」
話が一巡する気配を感じたのか彼が右手を握って開いた。煙草を吸いたくなったのだろう。
単純なことなはずなのにままならなくて、疑問をぶつけてしまう。
「私のこと好きって言った!」
「好きだから即ハメますじゃ、それこそガキだろ。頼むから大事にさせてくれよ」
「好きじゃなかったらいいの?娼館で間に合うから?」
「おい、ロー」
「知ってるのよ。昔ドフラミンゴと娼館に通ってたでしょ?」
「マジかよ……」
否定されなかったことに、自分で言って打ちのめされる。幼い頃に見た、彼と彼の兄が肩を組んでどこかへ出掛けては女物の香水の匂いをさせて帰ってきた記憶。彼の兄の「兄弟水入らずの遊びだ」という発言と繋ぎ合わせて娼館に通っていたのではないかと推測を立てていた。分かっていたことなのに言い当ててしまうと、苦い気持ちになる。
「どこから話したもんかなァ」
困り果てた口ぶりに俯く。困らせたいのではなくて、体を繋げたいのだと今言っても取り合ってもらえないのだろうと、諦めから視線は下へと向かった。
「ロー」
彼に抱き込まれて横向きに寝そべる。ぐりぐりと懐こい犬のように頭を押し付けてくる彼を見ても気分は落ちたままだった。
「不安だって言っても抱いてくれないでしょ?」
「うん」
即答だ。抱きしめる腕はこんなに優しいのに彼は性的な触れ合いは避けようとする。やっと思いが通じて彼と恋人になったのに、二人の間に進展はなかった。それこそ彼が「やっぱり恋人をやめたい」と申し出れば何も残らない距離が嫌だった。無理矢理跨った理由はそれに尽きる。
「それはおれが抱いても解消しねェよ。だからおれはお前を大事にしなきゃならならねェんだ」
ちゅっ、と額に口付けられる。下腹部に大きな掌があてがわれた。
「ここ、痛かったろ?」
「ちっとも」
「痛そうだった。もうあんな無茶すんなよ」
手の熱がじんわりとお腹に伝わる。本当は入り口の部分がヒリヒリしていて、異物感が残っているのを彼は見透かしているかのように労った。
「あのな、ロー」
大きな体にすっぽりと体が収まる。このまま好きにしてくれたらいいのにと思っても、触れる手付きは優しいままだった。
「おれはさ、いつもローが好きだって気持ちよりもローが欲しいって気持ちの方が先に来るんだよ。そんな自分が本当に嫌いで、いつかローに何か酷いことするんじゃないかって警戒してる」
「していいのに」
「聞けって。感情より肉欲が早いなんていうのは獣と一緒だ。おれは獣じゃなくて人間で在りたい。湧いた欲を慌てて押さえつけるような体たらくでお前を抱きたくない。お前に手を出せないのはおれの問題なんだ」
「私は獣でいいって思ってる」
「ロー」
ぎゅうっと腕の力が強くなる。彼の言いたいことをひとつひとつ咀嚼しても、反論の余地はあると息巻いてしまいそうになる。
だが同時に彼の体の熱さを知る。劣情から来る熱さなのだと、湿った吐息に教えられた。
「こんな風におれがおかしくなるの、お前だけ」
耳に一際低い声が注がれた。優しい交わり方なのに、熱い何かが体の中に流れ込んだ心地で、手も頬もぽかぽかに温まっていく。頭に直接感情を流し込まれたような、甘い痺れが不安を一気に押し流した。もっと他に言いたいことがあったはずなのに、彼が好きで、好きで、跳ねる鼓動が思考をぼかしていく。
「もうちょっと待っててくれ」
唇に軽いキスを受けて、痺れの解けないまま頷いた。見事に懐柔されたのに、このまま蕩かされていたいと強く思った。ずるいと思う暇もなかった。
「あと娼館連れてかれたときは気乗りしなくてほとんど不貞寝してたって言って、お前信じてくれるか?」
「信じる……」
ほとんど言わされるように声が漏れた。「いい子」と紡いだ唇がまたキスを降らせた。