北バーラト大戦後のウマムスタンの戦争についての考察

北バーラト大戦後のウマムスタンの戦争についての考察


ウマムスタンの兵力を考えると、ヤクブ・ベクの反乱はどんな感じだったのか

清朝の派遣した兵力が史実通り10万弱だとすると余裕で撃退可能

現地にも2~3万の兵力があるし、この時期のウマムスタンなら5万ぐらいは片手間で派遣可能だろう

なんなら好ましくはないけど第二次アフガン戦争と並行して戦争することもできるレベル

指揮系統とかが整っていない清朝軍相手ならどうにでもなる

ただ、この世界だとウマムスタンが成立してることによって清朝の態度もだいぶ変わりそうなんだよな

史実だと「新疆の独立を認めるか」という問題だったのが「ウマムスタンという強大な西戎が新疆を征服することを良しとするか」という問題になる

当時のウマムスタンは清朝本土へ攻めこめる状況ではなかったが清朝がそれを把握してたかは怪しいし

その結果清朝が安全保障上の観点から日清戦争レベルの動員をかけ、ウマムスタンを押し返そうとしたのかもしれん

この場合100万前後の兵がウマグルに押し寄せることになる

アルビオン、ウマシアへの備えを考えるとウマムスタンが展開できる兵力は40万、現地兵力合わせて45万ぐらいか?

清朝の状態を考えるとこれでも撃退できそうだが、やっぱり第二次アフガン戦争(この世界だと第二次北バーラト大戦と呼ばれるのだろうか)で泣く泣く撤退したのかな?


そんな訳で第二次アフガン戦争の時の両軍の戦力比較をしてみる

改めて第二次アフガン戦争時のアルビオンの兵力を考えると、流石に300万はないな

第二次大戦でバーラトが戦場になった時でさえ250万、第一次大戦で175万だ

アルビオンがなりふり構わず徴兵するとわからないが300万はまずない

第二次大戦と同じぐらいの兵士比率だとしても総兵力165万、前線へ出れるのは140万前後

ウマムスタンが全力を出したらさっき言ったように130~140万は出せる

もちろん工業力、装備の差もあるが、植民地軍と列強の本国軍ではまあ劣勢にはならんだろう

結論:アルビオンだけだとウマムスタンに勝てない

第二次アフガン戦争における敗因はウマグルで30~40万、ウマシアとの武力衝突の対策でカザフに20~30万(ウマシアも中央アジアルートでの南下は流石に諦めてそうだし)ぐらい、パールス対策でトルクメン、ヘラートに5万ぐらい(当時のパールスの兵力ならこれで十分だろう)を展開した結果南部に100万ぐらいしか展開できなかったことという可能性が?


ただ流石にこれだとウマムスタンが外交下手すぎるから別ルートを考える

他にあり得そうなのがウマシア帝国がアルビオン帝国と示し合わせて本格的な攻撃を仕掛けてきたとかかかな

日露戦争を参考にして、当時のウマシア帝国の人口を考えるとピーク時で55万ぐらいのウマシア兵が押し寄せてきそう

三帝同盟を考えるともう少し多くなるかもしれんが、まあウマシアも中央アジアに全力投球するのは無理だ

国力差、工業力差を考えればまあ同数は必要だろう

こうすると流石にウマグルは放棄せざるを得ない

ただこれでも南部に100万、北部に50万は展開できる

北部の結果はわかる、なんやかんやウマシアに押されてタタール人居住地域や現在のカスピ海北岸周辺からさらに広がっていたウラル以西の領土を失ったと考えればおかしくはない

ただ南部で海への出口や旧シク王国領、それと1890年ぐらいにウマムスタンがデュアランド・ライン条約を結ぶとも思えんから、この時期に今の領土になったと仮定すると、ペシャワールをはじめとするウマムスタン本土までをも失う大敗北を喫した理由がわからん

結局ウマグルを諦めきれず、そっちに兵力を派遣した結果ボロ負けしたということも考えられるが、どうして何もない平原を守る北部ではなく、港や豊かな川沿いの地域を有する南部から兵力を引き抜いた?

北部で早めにウマシアと手打ちした結果傷が浅かったということも考えられるが、その場合北部で戦っていた50万の兵力が南下する

あんな負けはまずない

これは上で言った全方位戦争ルートにも言えることだが

何がどうしてこうなった…?

アルビオンが第二次世界大戦以上に本気を出してタイマン勝負して負けたのか?

だとしたらウマムスタンに対する殺意が高すぎる…


それと、こんな歴史を辿った場合日清戦争や義和団事件でなぜウマグルへ再侵攻しなかったのかという疑問が生じる

あと、日露戦争が起こった時に「よしっウマシアに他所で戦争する余裕がなくなったぜ。これで北部軍の兵力は東部軍のものだ。ゴングを鳴らせっ!ウマグル侵攻開始だっ!」となってもおかしくない

辛亥革命での混乱からウマシア革命までかなり時間があるから、その間に奪うのもあり

というか、当時ウマシア革命なんて誰にも予想できなかっただろう

ウマシア・アルビオン協商が不気味ではあるがここでの侵攻も可能

あるいは第一次世界大戦の勃発後の制圧もできる

中山の第一次大戦への参戦は1917年だから波風も立たない

この時点ではウマムスタンも「ウマシアもアルビオンも攻めてこなくなったぜラッキー」ぐらいにしか考えてなさそうだし

前にすぐに鎮圧されたから介入を諦めたと言ってたが1933年の東トルキスタン共和国の動乱の際にも強引に介入することもできる

日中戦争中に侵攻するのもあり

連合国側からの視線は厳しくなるが、ウマエトのポーランド侵攻に対する反応を見るにこんな辺境のことに諸外国がガチになるかというと微妙

しかもウマムスタンという列強を敵に回したら枢軸国に後ろを刺されかねない

ウマムスタンにとっては対ウマエト、アルビオンを考えてアキツに接近するチャンスでもある

あと、国共内戦中、特に末期の1948年頃のダートに「終戦で不要になった兵器を供与するだけで平等党軍にとって凄まじい脅威となる勢力がウマグルに進出するという魅力的な提案」をしつつ侵攻してもいい

後ろ二つはウマエトの対応にもよるが、特に第二次大戦直後は列強に喧嘩売る余裕はないだろう

三女神に見放されたレベルでウマグル侵攻の機会を全部逃したのか…




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