化学式(レシピ)不明
スコープネコ「うぅん、また失敗だ」
カチャンと空になった皿へフォークを置き、探究心で濡れた瞳を閉じながら一人のウマ娘が思案する。彼女はアグネスタキオン、探求者であり競技者と言う異色のスタイルでトゥインクル・シリーズに身を投じる者だ。明晰な頭脳を持ち、並外れた速さで芝を駆け抜け、そしてその代償か脚に脆さを抱える。天に二つを与えられ、そして一つを奪われた。そんなウマ娘だ。
トレセン学園で彼女を知る者は多い。速さもその頭脳も高々とその名を示している────善し悪し問わずに。
彼女の速さと頭脳に憧れる人物は多い。しかし「お近付きになりたい」と言うウマ娘は余り多く無い。何故か? ……単純明快、問題児故に、である。彼女はデビュー前のレースバックれを始め、実験による騒動やその怪しい言動の影響で交友を結ぼうとする者は生徒教師問わずに少ないのだ。
して、そんな彼女が、だ。今度は何の実験をし、何に頭を悩ませているのか……
「……材料の配分に間違いは無い。時間も問題無し、別に変なアレンジもしていない……」
ズバリ、ケーキ作りである。揃えられた材料は紅茶ケーキを作るのに適した物……そして彼女は先程食べ終えた"失敗作"も当然、紅茶ケーキである。
「……材料の品質? いや、無いね。フラッシュ君が紹介してくれた店の物だ。低品質など考えられない」
彼女が作っていた紅茶ケーキ……パウンドケーキは品質を抜きにしてもかなりの上出来だと評価されるべき出来だった。しかしそれでも彼女は不満気に眉を傾ける。
「参ったねぇ……諸々の摂取量からして許容できるのはあと数食分といった所かな? それだけの試行回数で再現し切れるか否か……」
悠長に試行錯誤、などとは言えない。彼女は自身のトレーナーと共に緻密な栄養管理を行なっており、ふと「食べたい」と感じた物を好き放題食べるのは現役で走るウマ娘にとって難しい事なのだ。
ならば次以降のケーキ作りにはより入念な準備を持って取り掛かるべきである。つまるところ……
「という訳だフラッシュ君! どうも『昔作ってもらったケーキ』の味にならない。飽くまでも完成するのは『美味しいケーキ』……普段なら文句の一つも出ない出来なんだがねぇ……はてさてどうしたものか……」
その日は一旦切り上げ、栗東寮のロビーにてもう一度レシピの提供者に聞きに行った。シンプルかつとても真っ当。そして聞きに行く人物があのエイシンフラッシュとなれば正に模範解答と言うべき行動だ。
思い出のケーキ。ふとした瞬間に思い出して、何となく食べたくなった。タキオンにとってそれだけで終わる筈だった……のだが、どうも頭から離れない。思考のノイズになるならいっそ食べて解決してしまおうか……と。タキオンにしては珍しく行動を起こした。自分の記憶の中にある物はやはり、自分でしか再現できないだろう、と……しかしだ。
「レシピ通りに作っても同じ味にならない、となるとフルーツなどを加えて味を変えているのが想定されますね。しかし記憶からそれを割り出すのは……」
「まあ、私には無理だね。記憶も鮮明な訳ではない上に門外漢だ」
朧げに覚えているのは『味』のみ。誰が作ったのか、何処で食べたのか、そもそも何時ごろ食べたのかすら不鮮明。ただ「そんな味があったな」と言う不確かな物のみがタキオンの脳裏で右往左往している。こうなってしまえば何度か試してイメージに近付けて行くしかない、がそれも競技者としては取りたい手段では無い。
ならばどうしようか……と二人が共に頭を傾けた時だ。
「あれ、フラッシュさんにタキオンさん? 何かお困り事ですか?」
「ん? おお、スカーレット君じゃないか! 丁度良い、新しい視点からの意見も欲しいところだったんだよ」
ロビーにひょっこりと顔を見せたのはダイワスカーレット。荷物を抱えている様子からしてたった今寮に帰って来たのだろう。
「意見……ですか?」
「ああ、実を言うとね────」
これこのように、と。タキオンは詳しくスカーレットに事情を話す。その内容にスカーレットは────
「────思い出の味を、ですか?」
「おや、そんなに意外かい?」
彼女にとって余程意外に思ったのか見て分かる程に表情に出た。タキオンの言葉にスカーレットは慌てて訂正する。
「いえ! 作れるんだろうな、とは何となく思ってたんですけど、それでも作ってるイメージは余り無くて……普段から食べてるお菓子もお店の物でしたし」
「おや、よく見てるねぇ……実際その通りさ、今回も思い出の味と言う条件に合致しそうな店売りの物を食べたとも。結果は私が悩んでる様を見れば伝わるとは思うがね」
「あはは……でもきっと、思い出に残る味ってことはきっとタキオンさんのことを良く考えてくれた味なんですよね。ならやっぱり手作りですよ! 誰かが自分の為に作ってくれた物の味って良く覚えてる物ですから。ですよね、フラッシュさん」
「……はい、私も両親が作ってくれた物の味は良く覚えています。思い出の味であり、同時に目標となる味でもありますから」
「成る程ねぇ……そんな味を作ってくれた相手を覚えていない私は思いの外薄情なのかもしれないね」
「いえ、そんなこと絶対に────!」
「いやいや、勿論冗談だとも。しかしそうか、思い遣りの味、と言う訳か……」
市販の物で済ませる……そして或いはモルモット君に作らせていたとも、と内心付け足しつつスカーレットやフラッシュの言葉を聞く。思いやりの味。化学式では表せず、形の定まっていないソレにより生み出された味が自分の記憶で自己主張するパウンドケーキの正体なのだろう。それを自分で再現するには……と、そこでふと思い至る。
「……ああ、成る程。思いの外簡単に再現する方法はあったみたいだ」
「何か掴めたみたいですね? 力になれたなら私としても嬉しいです……因みにその再現方法とは?」
「ああ、ずばり────」
その、方法とは────
「────という訳で私がパウンドケーキを作るのは諦めた! 後は頼んだよ、モルモット君?」
丸投げである。ある意味でタキオンにとっての原点回帰、色々と自分の世話をさせているモルモット……トレーナーに全て任せてしまうと言う物だった。
日時場所代わり次の日、トレーナー室にてタキオンは入室するなり自身のトレーナーに紅茶のパウンドケーキを作るためのレシピを押し付……渡した。無論、これにはしっかりとしたタキオンなりの理論がある。記憶の中のパウンドケーキ、それが当時タキオンの事を思う者の手によって作られた。これは間違いの無い前提として考えて良いだろうと考えたタキオンは、その次。現在その味を再現する為に必要な材料の式に「ケーキの材料+自分の事を思ってケーキを作れる人物x」を加えた。そしてxを求めた時、今現在その条件に合致するのは……
「そう、モルモット君だ。この学園で生活をするに於いて、ウマ娘の事で思考を費やす人物などその担当トレーナーだと決まっているからね。その上モルモット君は並のトレーナーよりも私の事で思考を費やしている……これ以上無い適任者という訳だ!」
思わずモルモットと呼ばれた人物は苦笑いする。最初から自分に頼まなかったのを自立の一歩と思えば良いのか、それとも糖類などの過剰摂取に拍車が掛かるのを嘆けば良いのか……と。
「さて、レシピも渡した事だし私はこれにて失礼するよ。授業に遅れてしまうからねぇ……程々に頭を働かせて来るから楽しみにしているよモルモット君?」
やることはやった、とタキオンはトレーナー室を出て行く……仕方ない、と残されたトレーナーは一先ず手元のレシピを見始めることにした。
そして授業を終え、タキオンがトレーナー室の扉を再び開けると鼻を擽る匂いに気がつく。昨日何度も嗅いだパウンドケーキの香りだ。モルモット君はしっかりやってくれた様だねぇ、などと考えるタキオンは堂々とトレーナーの前まで歩いて行き……
「さあ、早速頂こうじゃないか!」
太々しいまである信頼と期待の籠った声でトレーナーに催促した。トレーナーは催促されるがままに彼女が授業を受けている間に作り上げたパウンドケーキをテーブルに用意する。
「ほう……見た目は当然ながら私の物と変わらないね」
小皿に乗せたパウンドケーキを舐める様に観察するタキオンに対し、トレーナーはその間にと一緒に飲む紅茶も用意して行く。
「ほう、紅茶は……普段から飲んでいる物だね?」
まあ私も用意するなら当然これだね、とタキオンはトレーナーの用意には実に満足した様だった。とはいえ本当に大切なのはパウンドケーキの方、いつも通り紅茶に砂糖を投下しつつ──授業で頭を使った分の糖分補給である──彼女は手にしたフォークでケーキを僅かに切り、そのまま一口放り込んで……
「……む、これは……」
少し薄い。最初の感想はその二文字だ。自分が作った物より僅かに甘味が控えめ。厳密に言えば一度甘さを控えめにしたパウンドケーキは試行してみたが、味が些か崩れていた。しかし此方は崩れておらず、その上で。
「……レモンか」
僅かな酸味と食感からパウンドケーキに混ざっているアレンジを察する。成る程紅茶とレモン、良く合うだろう。だがタキオン自身は普段から紅茶単品で楽しむことが多く、彼女の予想以上に新鮮な味わいを知覚していた。これは良い、今後も偶には作ってもらうとしよう……と、紅茶を一口飲んだその時。
「……っ! これだ、"懐かしい"……記憶の中にあった味とは恐らく違う。だが、この感覚……うむ、間違い無くこれが私の求めていた記憶の中のケーキだとも」
口の中で完成した。紅茶のパウンドケーキを紅茶で飲むと言うのは些か変わっていると言われるかもしれない。何せ甘味に甘味でトドメに追撃の甘味となる。はっきり言ってくどいと感じるだろう……だからこそ砂糖を少し控え、紅茶と相性の良いレモンをアクセントにした。タキオンの好む紅茶に合わせるなら、とトレーナーが彼女を思い遣った結果僅かにレシピに手が加えられ、その上で少ない時間の中でも試食は欠かさなかったトレーナーの努力の成果である。
「────しまった、紅茶が進みすぎたね。おかわりを頼むよ」
そう告げた彼女の表情は、それはそれはいい笑顔だった。