創傷

創傷


殆ど逃げ込むように入り込んだ自宅の壁に、檜佐木はずるずると背をつけてへたりこんだ。引き攣ったように情けない音を立てる喉を押さえて浅い呼吸を繰り返す。

藍染を初めとする三人の隊長が離反してからというもの、九番隊に流れる空気はどうしようもなく沈んでいた。

「申し訳ありません、副隊長。申し訳――」

転属許可の書類を手に震える声で謝ってきた部下の顔を思い出す。元々七番隊の所属であった彼のことだ、古巣に戻るだけならば上手くやって行けるだろう。話をしに行った狛村と射場も、決して不都合なことはしないと約束してくれた。

仕方の無いことだと檜佐木は思う。裏切り者の烙印が押された男の率いていた隊にいる事がどれだけ精神に負担をかけるかはわかっているつもりだ。古巣に戻って忘れたいと思うことは不思議ではない。ただ、入隊してからずっと九番隊だった隊士はどうしたら良いのか。彼らをどう護れば良いのか、檜佐木はずっとわからないままでいた。

ずきん、と身体の奥底から湧いてくる痛みに呻く。右眼に刻まれて消えない三本傷が熱を持っているようだった。錯覚だ。何十年も前の傷が今更こんなふうに痛むなんて有り得ない。そう思っても脈打つような痛みと焼け付く感覚は消えず、食い縛った歯の隙間から奇妙な呼吸音が漏れた。

「痛ぇ……」

浮いた脂汗を乱暴に拭って膝を抱える。

お前は何も変わっちゃいないんだな、と耳の奥に蘇ってくる声があった。


十一番隊宛の書類をその隊舎に届けに行ったのは今日の昼下がりのことだ。隊長格の間で回される書類で、時間がかかり過ぎるのを防ぐ意味合いもあって偶数隊と奇数隊にそれぞれ同じものが用意されている。必然九番隊の次は十一番隊に回されるものであり、席官以下閲覧禁止であるため檜佐木自らが出向かなければならなかった。


自隊の歳若い隊士が十一番隊の数名に絡まれているのを見かけたのはその帰り道のこと。裏切り者の仲間という言葉を聞きつけるや否や強引にそちらに割って入った檜佐木に、当然いい顔は返ってこなかった。

「誰かと思えば、檜佐木副隊長」

こちらを睨むその目が、檜佐木は「昔から」苦手だった。

かつて養い親のもとで一時だけ共に過ごした兄代わり。あまり好かれていた記憶はない。ひとつ失敗をすれば烈火の如くに怒鳴られた記憶だけ鮮明に残っていた。

「一般隊士の雑談にわざわざ何の御用で?」

さらりと吐かれた言葉には慇懃無礼の四文字が良く似合う。あの人達がいなくなってから塾と保護施設を兼ねた場所に行った彼とは以来すっかり疎遠になってしまっていて、至近距離で顔を合わせることすら久しぶりだった。

「……雑談って空気じゃないように思えたな。聞き捨てならねえ台詞もあった。やめろ。そういう謗りは副隊長の俺が受けるべきだろう」

「さすがお優しい。それも平和主義の東仙"隊長"の受け売りで?」

「……そうかもな。だったらなんだ。部下を護るための振る舞いなんて、どの隊も似たようなもんだろ」

その時から既に、右目は痛み始めていたと思う。触れぬように押さえた手のひらには爪がくい込んでいたようにも思うけれど、あまりにも痛みが遠すぎてよく覚えていなかった。

「……変わってねえなあ、あの頃と」

不意に距離を詰めてきた彼は、檜佐木以外には聞こえない声量でそう言った。

「あの人の後についてまわってた時のまんまだ。すぐ泣いて、喚いて、甘えて頼って被害者みたいな顔してやがる。結局お前の力なんて大したことないんじゃねえのか?」

優等生が聞いて飽きれる。

吹き込まれた声に、そうかもな、と吐き出せたのは幸いだった。

「そうだよ、俺はまだ無力だよ。隊士のケアの仕方ひとつ答えが出てきやしねえ。……ただ、その大したことない力でも、全力で九番隊を護るのが俺の仕事だ」

あの人みたいに。ほろりと零れた本音に、彼は口端を歪めるように笑った。

「そうですか。ご立派なことですね、檜佐木副隊長」

目は笑っていなかった。檜佐木に向けられていたのはただ冷たく底のない、恐ろしいほど無機質な視線だった。



荒い呼吸。疼く傷口。胃が引き絞られるような感覚に口元を押さえて嘔吐いた。もののろくに入っていない体内から出てくるものは胃液ばかりで、飲み下せる程度の量で助かったと少しだけ笑う。

東仙の――保護者であり師であった人の心の奥底に潜んだものに気がつけなかったのは檜佐木の咎だ。重い罪だ。全てが終わって断罪されても、檜佐木は抵抗しないと決めている。九番隊を存続させることだけは意地でも通すつもりだが。

彼の身を蝕むのはただひとつ、その咎に隊士を巻き込んでいる事だ。自分が弱いから。養い親であったあの人のように、全てを守れる腕を持たないから。

「……助けて」


――拳西さん。


思わず零したその名前に、甘えたがりのガキ、という言葉が蘇る。増した痛みと起こる吐き気を飲み下すようにして、檜佐木はきつく目を閉じた。

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