別れの時間

別れの時間


断界


 破面との戦いはカワキ、井上が投降する形で決着がついた。

 破面の男――ウルキオラの要求通りに、井上は虚圏へ行くつもりのようだ。

 用済みとなったカワキに命の保証は無くなる筈だが、男はカワキをここで始末する気は無いらしい。


「これを渡しておく」


 目の前の破面が指先で摘み上げるようにして手渡した腕輪を受け取ったカワキは、腕輪を裏返したり向きを変えたり、不審な点が無いか確認するように掌で弄んだ。

 カワキが一通り確認した限り、不審な点は見受けられない。


⦅遠隔操作での爆破や条件付けの精神干渉は無さそうだけど……大方、装着者の位置や音声を探る機能あたりは在るだろうな⦆


 冷めた目で腕輪を受け取ったカワキとは対照的に、同じ腕輪を受け取った井上は眉を下げてどこか悲しげな様子だ。

 ウルキオラが淡々と腕輪の機能について説明する。


「これを身につけている間、お前達の周囲には特殊な霊膜が張られ、お前達の存在は我々破面にしか認識できなくなる」


 高い技術力を持つ見えざる帝国で育ったカワキにとって、告げられた機能はさして興味を惹くものでは無かった。

 カワキは白けた表情で説明を聞く。


「それと同時に、お前達は物質を透過する能力を手に入れる。身につけて放すな」

「……はい……」

『…………』


 小さく返事をした井上。カワキは無愛想な表情で黙ったままだ。

 そのまま黙っていると良く出来た人形のように思える面差しの下で、カワキは冷徹に目の前の破面の思惑を勘繰っていた。


『…………』

「? ……あぁ、成程な」


 獲物の様子を窺うような蒼い瞳にじっと見つめられている事に気付いたウルキオラが、カワキの思考を見透かしたように言葉を紡ぐ。


「そう疑うな。お前をここで殺さずにいる理由など大したものじゃない。その腕輪を渡したのはこの後の為だ」


 そこまで言って、ウルキオラはカワキを生かしている理由について、詳らかにしておくべきかと再び口を開いた。


「今お前が俺の言葉に従って大人しくしている理由は知らんが、己の命が危ぶまれる状況になれば、お前は必ず抵抗する」


 ――そうだろう?

 と、ウルキオラはカワキの瞳を覗き込むようにして語りかける。

 内心でその通りだと独りごちて、カワキは視線だけで言葉の続きを促した。


「俺は力量が測れないほど馬鹿なつもりは無い。俺の使命は、そこの女を無傷で連れ帰ること……ここでお前と本気で戦えば、任務の達成に支障が出ると判断した」


 「だから、この場でお前は殺さない」とどことなく穏やかな態度で、ウルキオラは理由を述べた。

 告げられた説明はカワキにとって、充分納得するに足るものだった。

 偽りを述べている様子でも無かったのでカワキはひとまずその言葉を信用に値するものとして飲み込んだ。


「納得したか?」


 無言のカワキにそう言葉を掛けて、井上の方へ向き直ったウルキオラが告げる。


「12時間の猶予をやる」


 突如告げられた猶予という言葉に、井上が目を丸くして顔を上げた。

 その隣で、どういうつもりかとカワキは首を傾げる。


「その間に一人にのみ別れを告げることを許可する。但し、相手に気付かれればその時点で命令違反と見做す」


 慈悲深く聞こえさえする言葉の毒。

 それに気付いたカワキは上手く誘導するものだと感心を覚えた。


⦅あぁ……選択肢を与えたように見せて、自ら決別を選ばせようと言うわけか。よく考えられている⦆


 カワキが意図に気付いたことを知ってか知らずか、くるりと背を向けて虚空に走る亀裂――黒腔へ向かい悠々と歩みを進めるウルキオラが頭だけで振り返る。


「志島カワキ、その間はお前も同行しろ。刻限は0時。それまでに全て片付けて指示した場所に来い」


 ウルキオラはガラス玉のような緑の瞳で井上を見据え、念押しするように繰り返し告げた。


「――忘れるな。別れを告げていいのは、一人だけだ」


◇◇◇

井上宅


「……よしっ、と。こんなとこかなあ」


 ローテーブルに置かれたノートに、井上が生活の注意事項を書き連ねていく様子をカワキが後ろから眺める。

 井上が虚空に視線を遣って呟いた。


「乱菊さんも冬獅郎くんも、放っとくと、ぐちゃぐちゃにしちゃうからなあ……」


 井上は書き記した注意事項に漏れがないことを指折り数えながら、持ち上げた手首に嵌った腕輪が視界に入り、気落ちした顔で視線を落とす。

 断界での出来事を思い出して黙り込んだ井上に、首を傾げたカワキが控えめに声を掛けた。


『……井上さん、どうかした?』

「……へっ!? あ……ごめんね、カワキちゃん、ボーっとしちゃって……」

『いや、無理もないことだ。――……それで良いんだね?』

「!」


 カワキの言葉は何も、書き忘れたことは無いかを訊ねたわけではない。

 ――本当に、このまま決別の道を選んで良いのか?

 カワキはそう言外に匂わせた。

 目を見開いた井上が逡巡するように瞳を揺らし、すぐに力無く眉を下げて笑った。


「――……うん、いいの。……ありがとうカワキちゃん……」

『……そうか。君がそう言うなら、私から言うことは無いよ』


 どの道を往き、どう生きるかは人の自由だ。少なくともカワキはそう思う。

 井上に逃亡する気があるのなら、カワキはまだ戦っても良いと思っていたが、井上の決意は固いようだ。

 たとえ誘導された結果でも井上が選んだ道を尊重しようと、カワキは口を噤んだ。


「よしっ、待たせちゃってごめんねカワキちゃん! さっ、次行こっか!」

『ああ』


 わざとらしいくらいに明るい声で笑顔を作った井上。

 カワキは頷いて井上の部屋を後にした。

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