初恋の亡霊

初恋の亡霊


女の声がする。あの日確かに殺したはずの女が嬉しそうに囀る。


「これはお前が触って壊した妾様の髪飾り。母上からの贈り物だったのにと涙声で言った時のお前は傑作だったな。捨てられた子犬のような目で謝ってきた。まぁ、あれ嘘泣きだったんだが」


花弁が欠けた美しい紫の花飾りを撫でながら女はからからと笑う。この部屋に入るといつもこれだ。あの日確かに殺めた女の亡霊が楽しげに話しかけてくる。だからいつまでもこの部屋の主はもう既にこの世にいないにも関わらず片付ける事も遺品を処分する事も出来ない。血で血を洗う戦争の後、ビーマは不倶戴天の宿敵であった女、ドゥリーヨダナの宮殿を貰った。あの日卑怯な手で殺めた女の宮殿にビーマは住んでいる。


宮殿に住み始めてから暫くしてビーマは女の幻が見えるようになった。女は己を殺した男に恨み言を言うのでもなく自分の思い入れのある品やビーマとの出来事を面白そうに語るだけで害はない。侍従や兄弟に女が見えると言っても首を傾げるか哀れみの目で見られるばかりでこの女の幻はビーマにしか見えていないらしい。こんなにはっきり見えているのに。


「…あれ嘘泣きかよ」

「あの程度で妾様が泣くと思うか?慌てるお前が見たくて揶揄ってやったのよ」


楽しそうに笑う女は次に欠けた花飾りの隣にある淡い紫の簪を撫で始める。


「そしてこれが妾様の名演技に騙されて代わりにならないかもしれないが詫びの気持ちだと持ってきたのがこの髪飾り。ビーマの癖に中々妾様好みの品を持ってきたものだから面食らった。お前からの贈り物だと思うと使うのが癪で一回しか着けなかったな。お前の事など気にせずもっと使っても良かったかもしれん。物に罪は無いものな」


女は拗ねるように唇を尖らせた。この髪飾りを着けた姿をビーマは知っている。よりによって女がビーマを毒殺しようと離宮に呼び出した時の髪飾りがこれだった。女の瞳と同じ色をした宝石をあしらった簪は藤色の髪によく似合っていたのを覚えている。姫らしくめかしこんだ姿で手ずから毒入りの菓子をビーマに食べさせた女は今思い出しても憎らしい程に美しく愛らしかった。あの時は毒を盛られているなんて欠片も考えていなかったから女の美しい髪に揺れる髪飾りを見て「贈り物を使ってくれて嬉しい」と心の底から思った。あの日と変わらず髪飾りは女の瞳と同じように輝いていた。


女が使っていたものを一つ一つ磨いて部屋の掃除をする。それがビーマの日課だ。侍従達はそんな事我々がやります、王弟殿下にそんな事させられないと酷く慌てられたがどうしても自分がやりたいのだと説き伏せた。


「毎日毎日ご苦労なことだ。下働きにでも任せればいいのに」

「俺がやりたいからやってんだ」

「後生大事に磨いて馬鹿みたいだ。この部屋にあるものほとんど女物だぞ?お前にはなんの価値もなかろうが。捨てるか売るかしたらいいのに。もしくは我が最愛の妹にでもくれてやればいい。なんならお前の妻にくれてやってもいいぞ」


あのドゥリーヨダナが下賜する以外に人にくれてやってもいい等と宣っている。妹は兎も角ビーマの妻にくれてやってもいいなんて随分とらしくない。


「はっ強欲なお前らしくないな。人様にくれてやってもいいだなんて」

「…だってもう私には使う身体がないからな。物に罪は無い。こうして宝の持ち腐れにされるより誰かに使われる方がよっぽどいい」


そうだ。俺が殺した。俺が殺したからお前は二度とこの部屋に戻ってこない。女の亡霊が出るからこの部屋を片付けられないなど建前に過ぎない。もう戻らない主を待ち続ける部屋に埃が被るのがどうしても嫌で仕方がないビーマの我儘故にこの部屋はこうして残っているのだ。ビーマ手ずから床や遺品を磨いて埃を払う。誰にも触れさせたくなかった。女の生きた証を誰にも渡したくなかった。だからこうして大事に大事に仕舞いこんでいるのに女は素知らぬ顔で誰それにくれてやれと宣う。苦虫を噛み潰したような顔で女を睨めば女は腹を抱えて笑った。


「なぁ自分が殺した女の面影をなぞるのはどんな気持ち?」


兄のユディシュティラに諭されたことがある。ビーマの使い易いように宮殿を改装してもいいのだよ?その為の予算は惜しまないからと。けれど宮殿に手を加えるのは憚られた。だからいつまでも女の幻は消えないのだとわかっていても手を加えることが出来なかった。一欠片だって無くしたくなかった。ドゥリーヨダナの色を。


庭も部屋も調度品も全て女の愛したままの姿だ。女が好きだったトディや果物も常に常備されている。恐ろしいまでにこの宮殿にはビーマの色がない。まるで未だにドゥリーヨダナがここに住んでいるかのようだった。


ねぇどんな気持ち?としつこく聞いてくる甘ったるい声を無視しながらビーマは部屋の掃除を続けた。女が昔使っていた小さな棍棒を慣れた手つきで磨いてやる。女は懐かしそうにその棍棒を撫でる。


「あぁレヴァティ様からのお下がりだな。よくこれでお前と打ち合った」


レヴァティは棍棒術の師であるバララーマの妻であった。彼女も類まれなる棍棒術の達人で同じ女の身で棍棒術を極めていた彼女を女は酷く尊敬していた。そんな女を自分の娘のように可愛がっていたレヴァティは自分が幼い頃に使っていた練習用の棍棒をドゥリーヨダナにプレゼントしたのだ。


「よく二人でバララーマ師とレヴァティ様の馴れ初めを聞いたものよな」

「…あぁ」


レヴァティの父クシャスマは、クシャスタリの王であった。あるとき、彼は羅刹に襲われ敗れた。そうして森に追われた彼はブラフマーに助けられた。クシャスマはブラフマーに一人娘のレヴァティの幸せを願った。ブラフマーは彼の願いを聞き届け一つの予言を残した。

「一騎打ちであなたの娘を倒した者が彼女の夫となります。彼は魔物を退治しあなたの王国を取り戻します。」 

後にレヴァティは棍棒術を極めバララーマと出会った。バララーマは彼女と戦い格闘の末に彼女を倒し予言通りに弟のクリシュナとともに彼女の王国を取り戻したのだという。


「お前が女に棍棒なんか使えるのかなんて言うものだからレヴァティ様が試してみますか?とお前を捩じ伏せたのは痛快だった」

「なんでそんなに強いんだって俺が聞いてそこから二人の馴れ初め聞くことになったな」

「自分を一騎打ちで打ち負かす逞しいバララーマ様に惚れてしまったのだと頬を桃色に染めるレヴァティ様と照れ臭そうにするバララーマ師。懐かしいな」


ビーマはその時頬を染める仲睦まじい二人の様子よりも二人の馴れ初めにうっとりとする女の愛らしい顔ばかり見ていた。こいつに一騎打ちで勝てば自分もいつか師匠夫婦みたいになれるんじゃないかとあの時は思っていた。苦々しい思い出だ。


「お前は結局バララーマ師のようにはなれなかったなぁ。なぁどんな気持ちだ?幼い頃一騎打ちに勝ったなら嫁になってくれと言った女を一騎打ちで卑怯な手を使い殺めたのは」


物言わぬ品々に触れる度に女はどんな気持ちだと問う。幻覚と幻聴に過ぎないと分かっている。それでも女の面影を追わずにはいられないのだ。


明日も明後日もその先も。



Report Page