凍原に肉球
スープを飲み干した皿を捨てて立ち上がる。出港する前にいくつか済ませておかねばならないことがあった。
「そろそろ機嫌直せよ、コラさん」
ツンと明後日の方を向く黒いコートを羽織った背に声をかけた。つい先程まで子供たちや麦わらとはしゃいでいたのに、自分が立ち上がったタイミングで喧騒の輪から抜けたところを見ると、取り付く島もないとは思えなかった。
「分かってるだろ?ドフラミンゴの能力を考えたらそれが最善だと思ったんだ」
仇敵を討つと決めた時、ローはクルー達に別行動の指示を出した。船長の命令は絶対である。いくら気心知れた間柄でも決して覆ることはない力関係を利用して、クルーを安全なところへ置いておくことにした。悪魔の実の能力で移動すれば、誰も追いかけては来れない。そう思っていたのに船長命令に逆らえる唯一の存在は今ここにいる。
「泳いで追いかけて来たんだって?」
返事はいつもの快活な鳴き声でなく、グルルルと唸る音だった。
それでも金色に光る毛並みに触れさせてはくれる。泳いでいたところを同盟相手に拾われて上陸したという彼の毛皮は、海水と冷気でごわついてしまっていて知らない生き物のようだった。指を差し込んで梳くように撫でるとガサガサと引っ掛かって冷たい。いつものふわふわとした暖かい毛皮が恋しくて、今はどうにもならないと分かっていながら繰り返し撫でた。
唸る声は止まない。だが彼はローの指を拒まない。
並んで座っても抗議はされない。ただこちらを向かないだけの、小さな拒絶が彼とローを隔てている。
怒らせてしまったという自覚はあった。でも謝る言葉をローは用意していない。ずっと前からやるときは一人でと決めていた。
これは意地の張り合いだ。彼と、ローの、主張のぶつかり合い。ローとてそれなりに言い分はあった。
「おれがやる」
胸に秘めていた決意を口にした。相変わらずそっぽを向いている彼は、大きく揺らした尻尾でローの背をべちべち叩いた。
四皇を利用したドフラミンゴの失脚。ローが成し遂げようとしている計画に一番強い思い入れを抱いてるのは間違いなく彼だ。誰より行きたいと望んでいるのは彼だ。その彼を差し置いて自分は単騎で仇敵に立ち向かおうとしている。彼が怒っているのは、ローが彼の気持ちを蔑ろにしたからだ。
だがローは理解しているからこそ置いていこうとした。あの日彼はドフラミンゴに銃を向けこそしたが、とうとう撃てなかった。再び対峙したときに引き金を引けるとは思えなかった。だからローが代わりに引こうと思ったのだ。今度こそ彼を失うリスクを考えれば、当然の選択だった。
自分に命と心をくれた恩人に対して出来ることを、それぐらいしか思い付かなかった。
犬の体に入ってから十三年。人間としての生活を送れなくなっても彼はずっと自分の傍らにいた。
能力で適当な海賊の体でも借り受けていれば、身分を偽って古巣に戻ることぐらい出来ただろう。
だが彼はローを選んだ。その愛を疑うほど幼くもない。そして愛を享受したままのうのうと暮らせるほど幼くもなかった。
何度同じ選択を迫られても必ず同じ答えを出しただろう。
「コラさん」
幼い頃から何度となく呼んだ愛称を口にしてもたれかかる。自分を背に乗せて運べるほど大きな体は雪と磯の香りがした。
遠くで笑い声がする。束の間の休息と温かい食事で満たされていく人々の声がする。
不意に体重をかけていた大きな体が身動きした。ずっと自分と真逆を向いていた顔がぐいぐいと胸元に押し付けられ、前足で頭をぐりぐりと撫でられる。撫でられるというより揺さぶられると表現すべき力加減だった。そして「ばう!」と怒気の混じった一声。
「コラさん?」
顎先をべろんと舐められてようやく視線が絡まる。
彼の言いたいことはいつも分かっているつもりだった。分からないフリをしたことはあっても、彼の意思を読み違えたことはなかった。だからこそ戸惑う。じっとこちらを見据える双眸は怒りでなく深い悲しみに彩られていた。
「あっ……」
もう一度でかい舌が顔を舐める。「分かれよ」と言われた気がした。
「ごめん」
するりと、胸の内になかったはずの言葉が口をついで出てきた。ローは彼の怒りに対しては謝る言葉を持っていなかったが、悲しみは違う。
彼の恩に報いたい。彼を失いたくない。だから選択した道である。決して悲しませたいわけではない。
悲しませたのならローは間違っていて、間違っているのなら謝るべきだと、彼と過ごした十数年で理解している頭が言葉を用意した。
彼は怒っているのではない。どこまでも、どこまでも、自分の身を案じて守ろうとしてくれた優しい保護者は、自分を失うかもしれないという悲しみだけを胸に追いかけてきてくれたのだ。
今生の別れにならないように、もし自分が死ぬようなことになっても最期まで一緒にいられるように、どこまでも一緒にいられるように、ローのために願って願ってここに来たのだ。
「ごめん、コラさん」
本当はもう会えないと思っていた。七武海を引きずり下ろす算段の中に、自分の命の保証を入れる余裕はなかった。自分の命も保証できないのに、彼を巻き込めないと置いて行った。
それがどれほど彼を悲しませるかを意図して考えずにいた。いざ悲しんでいるところを目の当たりにしてしまえば、決心が鈍ると分かっていたのだ。
本当は言いたかった言葉は、謝った今なら許されるだろうと口にした。
「一緒に来て」
囁くようにねだれば、「わふ!」と大きく彼は鳴く。
いつもの快活な鳴き声が、もう二度と彼にも仲間にも会えないと仄暗くなっていた自分の胸を明るく照らした。