【全知につながる魔法の書】
報告書【――今から三十余年前、あるダンジョンの大規模調査が行われた。】
【〈全知の図書館〉。遍く叡智を内に秘めたその場所は、かつて人の世の希望であった。】
【だが、調査は失敗に終わり、投入した人員も、その殆どは帰らなかった。】
【〈全知〉という名の災厄。無限なる情報の海。】
【触れるべからざる領域は、数多の命と夢を呑み込み、引き換えに破滅の種子だけを人に寄越した。】
【甚大な被害の報告を受け、ギルド連合は〈全知の図書館〉を攻略不能と判断。】
【以降、このダンジョンは完全なる禁域として封鎖された。】
【……そして僅かな帰還者達は、沈黙の内に一つの誓いを立てたと云う。】
――――ぱしゃり。
足元で飛沫が跳ねた。
黒々とした石畳、所々に浅く溜まった濁り水。
湿った空気を掻き分けて、石造りの隘路を進む。
道は直ぐに終わり、視界が開けた。
整列する石造りの長椅子、壁際に等間隔に並ぶ岩の柱、そこに掛けられた錆びた燭台。
揺れる灯りに照らせて、室内の様子が見て取れた。
(礼拝堂か……)
何かを祀ったか知らないが、大方ろくなモノではないのだろう。
部屋の最奥、祭壇らしき場所の周囲には、犠牲者とおぼしき男女が幾人も倒れ伏していた。
目立った外傷はない。
ただ、虚空を眺めるその目に、意思の光は見えなかった。
「……喰い散らしたものだな」
「喰った? いいや、与えたのだよ」
声は祭壇の上から聞こえた。
古い魔術師装束に身を包んだ、不健康に痩せた男。
片手に分厚い古書を抱え、無感動にこちらを睥睨している。
「〈虚空録庫導本〉か」
「如何にも」
男は答え、口元だけで薄く微笑む。
呪わしい魔導書は、犠牲者の体を操る術を見つけたらしい。
肉体の持ち主の意思は、どうやら残っていないようだ。
「私はただ、望む者に望むだけの知識を与えているだけだ。それを受け止められないのは、彼ら自身の問題だよ」
「詭弁だな。それが何を齎すか、知った上での事だろう」
「それこそ関知するところではない。私はただの案内人だからね」
【男は柔らかく微笑んで、軽く片手を挙げる】
「《――――……》」
男の口から奇妙な音が漏れた。
鋼が軋り擦れるような、人の声帯では決して生じ得ない音。
それは如何なる詠唱だったのか。
声に導かれるように、倒れ伏した犠牲者達が、ゆるゆるとその身を起こす。
――――否。元犠牲者と言うべきか。
いつの間にか、彼等の身体は別の物へと変わっていた。
ブヨブヨと膨れた、半透明の白い肌。
細い触手を束ねた手足、目鼻のないのっぺりとした頭部。
輪郭ばかりを人のままに、似ても似つかぬ異形へと変質してしまっていた。
湿った足音を立て、〈異形〉の群れが地を駆ける。
思いのほか機敏な動きだが――
「《我、番えるは灼熱の鏃 焼き払え 赤鉄の火矢》」
――迎撃するのに支障はない。
余裕をもって詠唱を終え、数十本もの炎矢を放つ。
〈異形〉達は無防備に矢を浴び……全く損傷を受けず、そのまま襲い掛かって来た。
「《踵を鳴らすは七里の長靴》!」
瞬間移動の魔術を使い、すんでのところで触手を躱す。
(耐性? いや、これは……)
確かめる為に、もう一度攻撃する。
「《炎の獣》」
短くそう唱えると、舞い散る火の粉が膨れ上がり、無数の炎の獣と化す。
〈連環呪法〉。既に発動した魔術を土台に、詠唱を省略して次の術式を発動させる高等技術。
獣の群れは次々に異形に喰らいつくが、その端から掻き消えていく。
やはり、これは。
「〈喰界者〉……」
それは数年前、セントラリアで猛威を振るった文明敵対種の名前だった。
強力無比なその怪物は、常に体の周りに魔術を無効化するフィールドを展開しており、それが対処を困難にしていたのだが……。
この〈異形〉の魔術への反応は、喰界者のそれに酷似している。
「驚いたかい? これも〈全知〉の一端さ。君も直ぐに味わえるよ」
「生憎だが、間に合っている。《母なる大地の護り以て 此処に築かん 巌の城壁》!」
分厚い岩の壁を生み出し、意図的に崩す。
魔術で形成されていようと、生まれた岩はただの岩であり、落下に用いるエネルギーは魔力ではなく重力だ。
逃れる暇も間もあらばこそ、〈異形〉達は降り注ぐ岩の下敷きになった。
〈喰界者〉の障壁は本体の姿が見えない程、強力な代物だったが、この〈異形〉どもにそこまでの力は恐らく、無い。
大質量による物理攻撃は、素通しするだろう。
(これで倒せるれば早いのだが……)
警戒を緩めなかったのが幸いした。
背後から迫る触手の突きを紙一重で回避する。
視界の端で灯が瞬く。水溜まりがさざ波立ち、映る炎が揺れていた。
そして、その中をのたうつ触手の群れ。
瓦礫の隙間から床を這わせ、薄明の背後に回り込ませたらしい。
(なるほど……だが、これは此方にも好都合だ)
長く伸ばした触手の群れは、障壁の外に出ている。
薄明は追撃の突きを躱しがてら、身を屈めて水溜まりに手を振れた。
「《這い昇れ 雷の荊》」
水面が発光し、迸る紫電が触手を貫く。
触れた物体に雷を流す、ごく単純な雷魔術。
しかしその単純さ故に強化し易く、使う者が使えば野良リヴァイアサンすら一撃で撃ち倒す。
触手を伝い本体まで届いたのだろう。
瓦礫から這い出して来た〈異形〉の群れは、全身から熱と蒸気を吹き上げている。
(だがダメージらしいダメージは無い、か)
強靭過ぎる。一般人を素体にした急造品で、ここまでの性能は通常、出せない。
それをするなら、相応の時間を掛けて変成する必要がある筈だ。
奴は時間を掛けて作り上げた筈の異形を、それと分からぬよう表面上だけ人の形を留めたまま、無造作に床に転がしていた。
詰まる所、これは――――
「罠か」
呟くと同時に頭上に光が差した。
礼拝堂の天井、その一面に光の紋が浮かび上がっている。
緻密な刺繍にも似たそれは幾層にも重なりあった、複雑怪奇な魔法陣だ。
術から逃れるべく、薄明は急ぎ掌印を切り、呪文を唱える。
「《――――》」
「無駄だよ。一度発動したが最後、もうこの術は止められない」
傲然と言い放つ〈虚空録庫導本〉。
その言葉を証明するように、薄明の周囲を光の環が取り囲んだ。
色を喪った様に白い光環が十重二十重に薄明を包み込み、極小へと収束する。
……僅かな静寂の後、そこには薄明の姿はなく、握り拳ほどの光球だけが残されていた。
「殺しはしない。君にも理解して欲しいだけさ。全て知る素晴らしさを」
「だから、間に合っていると言っただろうに」
聞こえる筈のない声が、〈虚空録庫導本〉の背後から響いた。
「バカな……」
まるで何事もなかった様に、平然と佇む薄明の姿。
〈虚空録庫導本〉は瞠目する。あり得ない、確実に捕えた筈だ、と。
「逃れた、のか? どうやって……」
「さて、どうやってだろうな? ご自慢の全知の力で調べたらどうだ?」
「貴様ッ!」
激昂と共に突き出された触手が薄明を捕えた。
そのまま引き摺り倒し、縛り上げようとして……空を掴む。
触手は何も捕えておらず、薄明は変わらずそこに立っていた。
「なん、だ? 幻覚ではない……避けた? いや、最初からここにはいなかった……私は何もない所を攻撃したのか?」
「混乱しているようだな」
人の悪い笑みを浮かべる薄明に、〈虚空録庫導本〉は思わず呻く。
「〈疑似技法・虚姿見〉。実用レベルに仕上がったのはつい最近だ」
「技法、だと? 確かそれは六位の――」
序列第六位所属、〈不滅〉と呼ばれる冒険者が用いる異端の業。
魔術とも異能とも、その他如何なる技術ともかけ離れたそれは〈虚空録庫導本〉をしても未知の力だ。
「ぐっ……だが、そんな技を何度も使える筈がない! お前達、奴を――」
叫んで腕を振り上げる。その腕は、振り下ろされる前に灰となって崩れた。
「なっ……」
絶句する〈虚空録庫導本〉、その肩に光の粒が舞い落ちる。
光に触れた途端、その部位も同様に灰化し、崩れる。
肩口を深く抉られ、〈虚空録庫導本〉は膝をついた。
「この燐光は、まさか……」
「なんだ、知らなかったのか? 以前、谷に現れた〈喰界者〉の群れを灰にしたのは俺だ」
もっとも、巣穴を潰したのは別の者だが、とは口の中でだけ呟く。
そこまで聞かせてやる義理もないだろう。
燐光は降りしきる。音もなく、雪のようにしんしんと。
礼拝堂も、瓦礫の山も、〈異形〉の群れを分け隔てなく、白い灰へと還して行く。
「どうやらあの異形は、お前が操らねばただの木偶らしいな。お前が下らない御託を並べている間に、術式は既に発動していたよ」
「こんな……」
〈虚空録庫導本〉が呻く。
その身は既に半ば以上、灰化していた。
「こんな事をしても、無駄だ。〈全知〉への扉は無数にあるんだ」
震える声で、辛うじて言葉を絞り絞り出す。
崩壊した胴が崩れ、上半身が地に落ちた。
「私を消した所で、何度でも現れるだけだ。そしていつか、全てを呑み込んで――」
「くだらない」
うわ言にも似た〈虚空録庫導本〉の断末魔を、薄明が切って捨てる。
返答はない。最早そこに男の身体はなく、人間大の灰の塊だけがあった。
薄明は、その灰の中から一冊の本を拾い上げる。
一見して何の変哲もない古書。
〈虚空録庫導本〉の、その本体。
「何度でも現れるなら、何度でも封じてやるまでだ」
全知の招く声を断ち、流れ来る災禍を討ち滅ぼす。
それが我ら〝帰還者〟の総意であり、尽きせぬ使命なのだから。