兄弟逆転尊直
1
当代足利当主の庶子たちは、兄が十六、弟が十四の兄弟である。
足利の庶子の兄弟で、どちらが優秀かと問われれば彼らを知る者はそろって弟の高氏のほうだと答えるだろう。
武家に生まれた子において重要なのは要は腕っぷしであり、戦においての才であり、生まれの良さを考えれば総大将としての器の有無も重要だ。高国はどれも弟に劣っていた。
次男の高国は頭の出来が今は亡き嫡子も交ぜた三兄弟の中で抜きん出ていたが、それを周囲に認めさせるにはまずは武将としての才が前提だった。時代は足利の子が優秀な文官なだけの存在であることを許さない。戦をまともにできない小賢しい頭でっかちなど、寺にでもやればいい、という気風だった。文武両道になったうえで、はじめて高国の頭の良さが評価に値するようになるのである。
反して、弟の高氏といえば武器を持たせればたちまち師匠役を打ち負かすような男児で、武芸百般と抜群に相性がよく、水干姿で馬を駆る姿が幼いながら板についていた。
いずれ郎党に追いやられる庶子とはいえ、戦働きをすることを考えれば足利宗家の次男としてはいささか頼りない。それに、万が一であるが嫡男の高義亡き今、高国が繋ぎの当主になる可能性もある。高国が足利の棟梁として戦に出た時、彼は果たしてこれぞ足利の誉高き男と言えるような武将として働けるだろうか。いいや、高国には無理だろう。高名な足利の汚名になるだけだ。それならばいっそ、高氏のほうが、などとそんなふうに口さがない者たちの失笑にさらされることもあったが、高国は弟高氏を疎むことはなかった。
弟のことが好きだったらだ。
ものも碌に喋れぬ幼い時分から、にぃに、にぃにと舌足らずに呼んでそばにべったりとついて離れぬ弟だった。高国が元服しても仔犬のように懐いてくるのは昔とまったく変わらない。大きくなった体のぶんだけ屈託のなさが浮き彫りになって、それがまた大層かわいかった。
年が長じるにつれて表情の変化に乏しくなった直義だったが、高氏を前にすると幼少の頃のように怜悧な面持ちがほころんだ。
何歳になっても大袈裟なそぶりで愛情を伝えて高国に抱きついて甘えてくるのが好きな高氏だが、あけすけな感情のまま飛び込んでくるかと思いきや、体格の良さと力強さで高国に怪我をさせないよう力加減に気を遣っているのも知っている。そういった優しさも、高国の心情に深く染み入る。
劣等感が全く刺激されないといえば嘘になるが、それ以上に高氏への愛情のほうが割合を多く占めていた。だからこそ、自身の弱さが申し訳なく、不甲斐ない。
高氏はいつか、時の潮流に逆らえない自身とは違い、きっと歴史をひっくり返すような大事をなす。
同じ母のもとに生まれた自分の体たらくで、そんな弟の風評に影響を与えたり、足をひっぱるような真似はしたくない。高氏の邪魔になるくらいならばいっそのこと出家しよう、とすらひっそりと考えていた。
2
もともと狭い身内の中で知られていた高氏の非凡さだったが、いよいよもって周囲の知るところとなった。
高氏が高名になるだけならば兄として誇らしいだけですむのだが、これには高国の失態も付いてきて、残念なことに高国は家内での立場を低くしいっそう身の置き所がなくなった。
その、詳しいいきさつの話だ。
父親の供について屋敷を出ようとした時のこと。
高国が乗った馬が、とつぜん暴れはじめたのだ。高国は振り落とされないようしがみつくだけで精っぱいだった。
大人しい馬で、高国とも気が合った。厩番に任せきりにせず元服前から手ずから餌をあげて可愛がっていた。鼻面をなでれば喜び、高国にもなついていた。そうれがどうしてか、高国が気に入らないとばかりに後ろ脚で立ち上がり、狂ったように嘶いている。
「兄上!」
背後から見送りに立っていた高氏の悲鳴が聞こえた。
その声もすぐに遠ざかる。
暴れ馬は高国では御しきることができず、鼻息荒く鎌倉の市内を疾駆した。運悪くでくわした町人の怒号が響く。
通りがかりの罪のない人を撥ねてはたまらないと、せめて人気のない場所にという祈りだけは運がいいのか悪いのか馬に通じ、高国を乗せたまま人混みのすくない道を風のように突っ切っていく。
「兄上! 無事か!?」
正面に馬に乗った高氏と執事の師直の姿を認め、高国は驚く。いつの間にか周りこんで先回りしていたらしい。
師直に手綱を任せた馬は、高国と並走する。
そして、馬に必死にしがみついていた高国はさらに絶句することになる。
高氏は速度を出した馬の上に平然と立ちあがったのだ。
(何をしているんだ! 危険なことをするな!)
弟の心配をしている場合でもないのに、高国は胸中で高氏を叱咤した。
不安定な場所でまったく小揺るぎもせずに軽業めいた動きで馬の背を蹴る。あ、とおもった瞬間には高国の背中には熱い体温があった。
「兄上、もう大丈夫だ」
高氏の片方の腕によって高国の腰が抱えられ、手綱を握った手に高氏のそれがしっかりと重なる。きっと、高国の背で破顔しているのだろう。いつもと変わらぬ朗らかな自信の満ちた声に、我が身の情けなさも忘れて一瞬安堵で気をぬきかけたし、体の力など意思に反して完全に抜けてしまった。
安堵も束の間、突如として増えた重石に機嫌を更に悪くした馬が垂直に立ち上がった。高国は全身を高氏に預ける形になった。下手をすれば兄弟諸共落馬していたが、預けられた兄の重さなどものともせず、高氏は馬の背を一切の容赦なく両太ももでがっちりと挟むことで体を固定し、高国から奪いとった手綱を馬の首を捥ぐような強さで容赦なく引く。実のところ高氏がもっとも苦心したのは、兄を支える片腕の力加減である。
「鎮まれ」
どん、という堅いものを叩く音がした。高氏が片足で強く馬の腹を蹴ったのだ。
馬は首を振って怒りをあらわにするが、再度肉をえぐるような、あるいは骨を折るような、生き物の身からでるには不穏すぎる破裂音が響いた直後、馬は失速し前脚から崩れ落ちた。
高氏は倒れる馬に巻き込まれれないよう高国を抱えながら受け身をとる。高氏は落馬の衝撃を微塵も感じせない機敏さで起き上がり、倒れた馬の姿見せぬよう高国に背中を向けさせ、呆然とする彼の両頬に両手をやって固定させた。傷の有無の確認でもするように、高国をのぞきこむ。
高氏にしてみれば可愛がっていた馬の醜怪な遺骸姿を繊細な高国に見せないようにするための、たったそれだけのための配慮であり、他意はなかった。
だが、対する高国は強烈に心の琴線をゆらされた。うつくしい緑の目は滅多に見ない真剣味があって、どれほど弟が自分を案じていたのかを高国は痛切におもいしった。そして、自身の内側の深いところにある情動が見えない糸にでも絡みとられたような感覚に背筋に痺れに似たものが走る。
死にかけた恐怖や混乱がもたらすものとは別の源泉からうまれた、胸中のざわめきがある。弟へのひたむきで見返りを求めない愛情と隣り合わせなようでいて、似て非なる正反対の場所にある感情の熾り火が高国の困惑をさらに深いものにしていた。
「どこにも怪我はないな、兄上」
高氏の掌の湿度を頬に感じながら、高国は地面にへたりこんでいた。
「高氏」
短時間のうちに自身の身におきた事故も、それから救われたことも。そして、産まれて初めて味わった未知の欲の衝動。
それらすべてに未だ頭がおついていかなくて、それ以上なにも言えなかった。
口を開いたまま固まっていた高国を、高氏は抱きしめた。
「兄上ー! 無事でよかったー」
(ああ、私は高氏に助けられたんだ)
肩と頭の後ろにひしっと勢いよく手を回されて、高氏に守られるように彼の腕の中に閉じ込められる。
高氏がいつもの調子でいるので、高国もそれにつられて笑みをうかべた。
——と、ここまでが高国の身に起きた不幸であり、からくも最悪の事態を弟によって避けられた幸いであり、体を張って兄を助けた弟の美談であり、成人した武士としての醜聞だった。
弟がたやすく制止させた暴れ馬に振り回されて、鎌倉の市中を疾駆したのはもはや隠しようがない事実である。
水干姿の勇敢な少年に比べて、兄と呼ばれていた元服しているはずの若者の姿といったらどうだ。比べるべくもない醜態ではないか。少なくない野次馬に見られていて、それによって人々は好き勝手に方々噂話を振りまいた。おおよその流れは踏襲されていたが、尾鰭背鰭をつけながら足利の三男坊の武勇伝が広まれば広まるほど、次男の高国の名は致命的なまでに地に落ちたのである。
3
結婚していなくてよかった。
ぽつりと胸中でつぶやいた。
頭の回転が速いため、建設的思考で切り替え早く次々とものごとを考える高国だが、このところ珍しくじめじめと後ろ向きになることが多かった。
(結婚してすぐに妻を実家に返すことにならずにすむ)
自身の能力や立場からして出家の道を選ぶこともあると言い張り、元服したのだからと頑なに縁談を進めようとする周囲に固辞し続けたのだ。
先見の名、とはまた違うわけだが、とにかく今はあの時の自分の判断を褒めてやりたい。
今すぐに今の名を捨てて、というわけではないが出家の選択肢を乗せた天秤が以前よりも傾いたことは確かだ。
暴れ馬の一件を見ていた父を筆頭とした身内に、高国の無事を喜ばれ、兄を助けたことに対する純粋な称賛が高氏に贈られたのは最初のうちだけであった。鎌倉で矢のような速さで広がる高国の失態に(それも漏らしただの鼻水と涙まみれの不細工面だっただのありもしないことまで付け足されていた)、足利の棟梁として呑気にしていられなくなった。
力関係から表だって侮辱されることはないが、周囲からわざとらしく心配され、裏でほくそ笑まれるたびに、父貞氏は次第に苦々しいものを堪えるようになっていった。
ついには父親として赤面ものの息子の恥をそそぐためには、周りの侮蔑が霞むほどの勢いでもって高国が嘆かわしいと蔑む一方で、同じ口でとにかく高氏を持ち上げるしかない、となるまで精神的に追い詰められた。その結果、まるで高国など、自分の息子ではないと言わんばかりに貶された。だからこそ、高国の醜態は足利の家とは無関係なのだといいたげに切り捨てられた。そして、いかに高氏が優れているか、武勇だけではなく、いかに人を惹きつける魅力的な人となりをしているのか、どれほど父親として息子の彼が誇らしいかを大袈裟なほど自慢げにつらつらと語るのだ。
父と共している先々で似たようなことが続き、自らの力の及ばなさが原因とはいえ、怒ったり、傷ついたりで、高国は疲れていた。広がる噂の嘘と真の仔細の説明など、五回を数えればうんざりする。もう、好きにすればいい、この高国のみならば侮り馬鹿にしようとも構わない。そんな、投げやりな敵意を周囲に抱いた。
彼は、成人したとはいえ、まだ十六の未熟な若者である。
いてもいなくてもいい庶子として過ごした幼いころとはまた違う身の置き所のなさは、まさに針の筵で、彼の心を打ちのめすのには十分だった。
その一方、容易く手折れそうな嫋やかな見目を裏切る、強かな面も強く出た。
やけになって開き直った、とも言える。
鎌倉に知れ渡ったこの高氏個人の有名、利用しない手はない。彼は薄い舌を出して唇を舐める。高国は転んでもただでは起きない男であった。
(父上は甥を次代の棟梁にしたいのだろう。だが私は、高氏以外に、その座が相応しいものがいるとはおもえない。甥は可愛いが、論外だ。たとえ高義兄上がいきていようとも、それは絶対にかわらない)