兄の遺言

兄の遺言


「虎杖悠仁だな」

「……誰? 喪中なんですけど」


 夜半と言うにはまだ早い時分。明かりが最小限に抑えられた総合病院の待合で、唯一煌々と明かりが灯る受付の前にいた子供に声をかける。

 不機嫌そうに見やる目元はしかし、赤く染まり寸前まで泣いていただろうことが伺える。

 子供に書類の書き方をあれこれ教えていたであろう女が、受付のカウンターから身を乗り出して声をかけてきた。


「もしかして虎杖さんですか? 良かった、留守電聞いていただけたんですね」

「ああ」


 いたどり、と己と同じ姓を小さく呟いた子供が目を丸くしてこちらを見上げる。


 虎杖悠仁。

 父・虎杖倭助の孫であり、兄・虎杖仁の息子であり。

 つまるところ、俺の甥であった。



「おじさん、前に俺と会ったことあんの」


 病院から実家へと帰る車内で、助手席で尻の座りが悪そうにしていた子供が口を開いた。


「その呼び方は辞めろ、宿儺でいい。一度、仁の……お前の父の葬式でな」

「ふぅん。父ちゃんと双子ってどっちが兄貴?」

「見てわからんか」

「わかるわけないじゃん。父ちゃんのことほとんど覚えてないし、見た目なんて全然……あ、メガネかけてたのはなんとなく。そんくらいだよ」


 無理もない。兄の葬式で見たこいつはようやく危なげなく歩き出したような風体で、父親の死も自分が何故ここにいるのかも分かっていないのだろう間抜け面を晒していた。


「俺が弟だ」

「へぇ、なんか意外。あんた弟って感じしねぇもん、別に兄って感じもせんけど。その場にいきなりポンって生まれたとか言われても納得しそう」

「そんなわけがあるか。木の股から人は生まれん」

「キノマタ? 誰さん?」

「……お前、勉強できんだろう」

「何でバレたの!?」


 キンキン叫ぶ声が耳障りで、やかましいと片手をハンドルから離し軽そうな頭をはたいて黙らせる。中に何も入っていないような良い音が響いた。


「……『君が兄になるんだと思ってました』、だと」

「え、何?」

「仁がよく言っていた。生まれてみないとわからないものだ、と」

「なんか変な言い方だな。生まれなかったことがあったみてぇ」


 確かにそうかもしれん。今まで気にしたこともなかったが。己とは価値観も何もかも違うため、兄の言葉をまともに聞いたことなど数えるほどしかない。

 あの日はその数えるほどの内の一つだった。



 今と同じくらいの季節だったように思う。一度くらいは顔を出せと父にうるさくせっつかれ、兄の病室を訪れたことがあった。


「死んだか、愚兄」

「まだ生きてますよ。久しぶり、宿儺君」


 久しぶりに会う兄は、ベッドの上にいるというだけで健康体に見えた。痩せてはいるが俺と違い生来細身の体型であるし、仰々しいチューブやコードの類も繋がれていない。もっともそれは本人が延命措置の一切を固辞したからだと後で聞いた。

 特に俺から聞きたいこともなく、兄が尋ねることにぽつりぽつりと近況を答えるだけの時間が過ぎる。父への義理を果たすには十分だろうと腰を上げかけた時だった。


「悠仁の——僕の息子のことですが」

「あ?」

「君にお願いしたかったんですけど、父さんに却下されまして」

「珍しくジジイと同意見だな。俺に子を預けようなど、考える奴の気が知れん」

「ひどいなぁ」


 それは俺に対してか、自身に対してなのか。相変わらず笑っているくせして表情がよく読めない。


「まぁあれで父さんも寂しがり屋ですから、元気でいてくれる間はお任せすることにしました。なので、父さんが死んだ後はよろしくお願いします」

「勝手に決めるな。餓鬼の子守はごめんだ」


 餓鬼は好かん。快か不快かの単純な原理で行動しているようで、こちらが予想もしない突拍子もないことをしでかす。一人では決して何もできんくせに、周囲の人間によって己の理想や願いが叶えられるという根拠のない希望に満ちている。

 この兄に比べれば多少はマシだが、自分から関わりたいとは思わない。


「大体俺が了承するとでも思っているのか」

「だって君、なんだかんだ最後には僕の頼みを聞いてくれるでしょう」

「知らん。覚えとらん。大した頼み事をされなかったからじゃないか」

「それでもです。人の頼みを聞くような柄じゃないくせに。命乞いした相手を笑って殺しそうだ」

「お望みなら殺してやろうか」


 放っておいても死にますよ、君に殺されなくてもね。

 そう言って笑う兄。こいつに冗談のセンスは無いらしい。

 ——だが、しかし。


「お前に、借りがある気がしていた」

「……へぇ」

「そのよく分からん借りに比べれば、断るほどでもない頼みだった。それだけだ」


 驚いたような、面白がるような視線から逃れるように窓の外を見る。夕焼けが目を灼いて不快だった。


「宿儺君」

「……なんだ」

「頼みましたよ」


 断るほどでもない頼みだったが、すぐに承諾するのは兄の思惑通りのようで気に食わない。

 そのままお互い何も発さず、病室に乾いた沈黙が流れる。静かだった。耳が痛いほどに。


「死んだか、愚兄」


 応えはない。枕元のナースコールを手に取りボタンを押し込んだ。


『はい。どうされました虎杖さん』

「死んだ。後始末を頼む」


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