傷病兵とチョコレート
・少将時代のドレーク屋の部隊の一人の名無しモブおれ
・書き手は隊長に脳焼かれてる
・どっかの紛争地帯を鎮圧してる場面
・隊長からチョコレートもらいたいですよね
愛した食卓の音がした。母が昼過ぎに焼き菓子を作ってくれて、おれはそれを妹に本を読み聞かせながら楽しみに待っている。風に乗って台所から漂う甘い匂いから、今日はチョコレートだとクッキーだの何か出てくるか予想しながら。そういう情景の中におれはいる。
ここはやけに寒かった。でも、鉄の鍋を時々コンと叩きながらゆっくりと甘い匂いを混ぜる音が、やけに、心を落ち着かせる。そうだ、あの時はホットチョコレートだっけ、ふうふう湯気を吹き飛ばして、熱を持った甘さを喉に落とし込む。とても、幸せだった時間。
手を伸ばした先に食卓はなかった。代わりにいたのはおれの少将殿だった。
「ああ、起きたか」
「……、おはようござ、い゛ッ」
身を起こそうとして右足に激痛が走る。内臓も変な感じだ。微睡んだ頭も一気に覚醒する。見れば、おれの膝から下には当て木と包帯が巻かれて固定されている。髪とか服にも乾いた血が張り付く。血腥い肢体を何時まで横にしていたのか、気がつけばもう日も落ちる夕刻で、簡易テントの中で少将殿と二人っきりになっていた。
「あ、あの。これは」
「一緒に崖から落ちたんだ。もう夜になるから今日はここでビバーグする。朝になったら登れそうなところから復帰しよう」
そう言って、ドレーク少将は携帯コンロで火にかける軍用チョコレートをマグに注いで、おれに突き出してくる。夢の中で嗅いだ匂いが鼻腔をくすぐった。
「おお。食えるレンガがホットチョコレート」
「これしかないんだ。ワガママ言うな」
勿論少将殿ではなく制作会社に向けて行った皮肉を嗜められ、マグを手に取る。無垢な食卓で食べたものとはかけ離れた無機質な味。カロリーは高いけど味とかあんまりない。
それでも、受け取ったら安心した気持ちになった。あったかいものにはそういう力がある。冷えた悴んだ指に熱が伝わった。ちょっと冷ましながら、肺いっぱいに暖かい湯気を吸う。吸っていたら、頭がだんだん回るようになって、少将手づから処置をさせたことや、今も看病のようなことをされていることに申し訳なさが湧き出す。何を呑気に茶をしばいてんだおれは。
「あの、すみません。お手を煩わせて……。怪我人のことなんでほっといて、貴方はもう先に行って良いんですよ?」
「何言ってる。貴様はまだ動けるんだ。動いてもらうぞ」
「しかし、足もこんなですし」
「拠点までは送ってやる。何をそんな気にしてる」
「そりゃあ、ドレーク少将の戦力をおれ一人に充てがうよりも、そうした方が軍人として合理的でしょう?」
そう聞く少将殿は不可解そうな顔をする。おれはそのまま続ける。貴方にわからないはずが無い。冷酷ながら分かり切った選択だ。軍というのはそういうもので、おれもいつかは切り捨てられることを覚悟している。
今日は、きっとその日だ。
「貴方一人ならこの崖だって登れるでしょうし、二人分の携帯食料持ってさっさと行ってください。傷病兵なんて戦力にもなりません。助ける価値もない」
おれが折れた足を少し持ち上げてそう言うのを、貴方は気に食わなさそうに睨んだ。むすとヘの字口をさらに曲げて、おれの額を手に持つマグで小突く。熱い。
「不安になるよな。空きっ腹でこの寒さだ。そういう気持ち、よくわかる」
「少将殿にもそういう気分になる日あるんですか」
おれのこと何だと思ってんだと眉を顰める。呆れたようにため息を吐いて、眉間のシワを伸ばした。
「早く飲め。飯を食わんと余計なことしか考えられない。そういう方が不合理だ」
そう言われれば逆らうこともできないので、おれはとりあえず口にマグを傾ける。栄養の経口摂取。しかし、そう端的に称すには想像以上に美味しかった。
「あっっっま」
「フフ、よかったな」
少将殿はにんまり笑って同じように口にする。唾液腺が弾けるように味覚が踊って、勢いよく飲んでしまう。何年ぶりの甘味だったろう。久しくこういうの食ってなかった。もっと食っときゃ良かった。上下する喉が止まらない。「ゆっくり飲まなきゃ腹壊すぞ」と止められて、ようやく口を離す。
ぷはと息を吐いた。その呼気が冷めた大気を白く染めて、自分もまだ生きているんだと言うことを否応なくわからせた。足の痛みも鼻にかかる熱も、じわと胃に落ちて末端まで広がる甘味も生きてるからわかるんだ。おれはまだ死んじゃいない。それを改めて感じて、なんだか、まだ生きたいよなと思ってしまった。悔しいくらいに生きたかった。
「食堂の、コーヒーに入れる砂糖が余ってそのままポケットにしまってたんだ。それがあったから入れた」
時々鍋が固まらないようにことこと混ぜながら、少将殿は小さな声で続ける。
「甘いものなんて、子供の頃を思い出すよな。……これ、味がしないって人気ないらしいが、おれは結構好きだ。腹に溜まるし、ご飯食べるの好きなんだ。うまいに越した事ねェが、食えるだけで幸せなんだ」
あの頃の食卓は消えたけど、確かに、おれにも心の落ち着けるよりどころのようなものは残っていた。それを感じ取る機微は残っていた。温度とか糖とか、生きてる証拠がおれの涙腺を突いて熱くする。歳なのかな。気付けばつうと、おれの頬に涙が垂れる。
「う、うまいものいっぱいたべたいいぃ……」
「おう。食えば良い」
「死にたくないいぃ……。いっぱいご飯食べたいしぃい、彼女も欲しいしィ……」
「ああ。何が食いたい? 連れてってやってもいいぞ」
「チーズのグラタン……。彼女はケツがでかい包容力ある人……添い寝してくれて。……胸もめちゃでかい」
「彼女の方は聞いてないぞ」
いつの間にか涙をわあと流して、不格好な言葉を並べて、確かに生きたいと願ってしまった。脱力してぶっ倒れそうな半身を抱えてくれた少将に身を預けて、大の大人が情けないくらいびいびい泣いている。
「よかったな。おれがいるから、そうそう死ねねェぞ」
「足、折れてますよォ。使い物になりませんって……邪魔になりますってェ……」
「あのな。足の一本でおれのハンデになるものかよ。安心して運ばれてさっさと治せ」
「……少将殿は、なんでそこまでしてくれるんです。こんな一般兵に……」
「貴様の理論にも、一理あるんだろうな」
ぐずぐずと鼻を鳴らすおれを、少将殿は肩に抱いて見下ろす。空色の双眸は少しもぶれずにそこにある。そうだな、と、ゆっくり口を開く。
「しかし、兵卒も無限ではない。おれもお前も言ってしまえば貴重な資源だ。ただでさえ数が減っているのに、治せる怪我もほっといて使い捨てときゃあ、すぐに枯渇する。だから、これからのために貴様を助けて未来の資源にしなければならない。無為には死なせない」
お前の聞きたい軍人らしい解答はこれだろうな。でも、個人的な意見も述べさせてもらうと。
「共に戦火の中にいる直属の部下だ。離反者でもない兵士の貴様をそう簡単に切り捨てられるほど、万能じゃあない」
そう言い切って、あの人は滔々たる闇の先を見据える。索敵のつもりかもしれないし、率直な一存を述べたのが気恥ずかしいのかもしれない。もう一口チョコレートを飲んで、それから静かになった。おれは、その間が変に気難しくて、つい口を開く。取り留めもない世間話を綴る。
「知ってます? 今日、バレンタインなんですよ」
「ああ、あの。チョコもらえる日」
「少将殿はそうでしょうねェ。おれにそんなんないですよ」
「ほお。じゃあよかったな。今年はもらえて」
コツと乾杯するみたいに、マグとマグをぶつける。
「お返し、しなきゃですね」
「ああそうだ。そうだな」
べちょべちょに泣くおれに胸を貸して、そのままに置いてくれる。
「この世界は歪んでいるし、戦時状況はクソだし、お前の信じた上官殿は理想よりも冷徹をやり切れる才もない、それでも」
両肩に手のひらを置かれて向き直す。空色の相貌はおれを貫いた。
「もう少しだけ、生きてくれるか」
そう言われちゃあ、そうするしかないでしょ。
戦争中だってのに。星も出ない真夜が、今日だけは穏やかだった。
「ドレーク少将、すみません」
「どうした? 別にいちいち謝らなくていいぞ」
「めちゃくちゃ鼻水つけました」
「ああ……。そうか」